第95話 留守の裁き
天正十二年、十一月。
俺は、書いていた。
――上様御不在の折、中将様が決めてよきこと。
これまでで最も難しい書付だった。広く書けば、上様が認めない。狭く書けば、意味がない。
まず、事例を集めた。上様が遠国におられた間に、決められなかったこと。三年分を、利三と三沢と、三人がかりで調べた。
――百四十七件。
三年で、百四十七件の案件が、上様の帰還を待って止まっていた。
「利三。これは、多いか」
「多うござる。そして、このうち幾つかは、待たずともよかったものにござる。たとえば、これにござる」
――近江の村で、水争いが起きた。双方が訴え出た。上様の帰還を待つこと、四十日。
「利三。これは、なぜ待った」
「前例がござらぬゆえ」
俺は、額を押さえた。村井様の口癖だ。
「四十日、村はどうしていた」
「田が、干上がっており申す。両方にござる。争うておる間、どちらも水を引けませなんだ。――そして、四十日で、稲が枯れ申した」
俺は、書付を握りしめた。
(これだ)
誰も悪くない。村は、正しく訴え出た。役人は、正しく上申した。上様は、遠征していた。そして、稲が枯れた。
その事例を、書付の冒頭に書いた。
――近江某村、水争いの儀。上様の裁きを待つこと四十日。その間、双方の田、干上がる。右、誰の落ち度にもあらず。ただ、裁く者が遠国におりしのみ。
(これは、強い)
誰かを責める話ではない。仕組みの話だ。上様も、責められていない。
条文を作った。
――一、上様が近江・美濃・尾張の外におられる間、中将様は次のことを決めてよし。
九つ書いた。村の争いの裁き。所領の安堵、千石まで。家臣の役目替え、方面軍の長を除く。兵糧・荷の差配。普請の許し、五百貫まで。他家からの使者の応対、ただし約束はせず。急を要する兵の動き、五千まで。褒美の申し渡し、ただし上様の帰還後に確かめること。そして、九つ目。右のいずれにも当たらぬ急事。
九つ目で、手が止まった。
(これは、危ない)
「どれにも当たらない急事」を認めるということは、実質的に何でも認めることになる。だが、書かねば、必ず抜けが出る。十二条の覚と同じだ。列挙は、必ず漏れる。
条件を付けた。
――ただし、決めたる後、直ちに上様へ報ずること。そして、その理由を書き記すこと。上様、これを認めざる場合、中将様の責とす。
(重い)
認められなければ、責任は後継者にある。酷な条件だ。だが、これがなければ、通らぬ。
◇
書付を持って、まず岐阜へ行った。
信忠は、長いこと読んでいた。
「日向守。これは、そなたが作ったのか」
「さようにございます」
信忠は、九条目を指した。
「『認められざる場合、中将様の責とす』とある。――厳しいな」
「厳しゅうございます。外しましょうか」
「外すな。これがなければ、わしは軽々しく決める。責が己にあると分かっておれば、慎重になる」
俺は、深く平伏した。
「日向守。一つ、直したい」
七条目を指した。
「急を要する兵の動き、五千まで。――これは、多い。五千動かせば、それは戦だ。戦を始めるのは、父上の役目だ」
「では、いかほどに」
「――千だ。千あれば、城を守れる。使者を守れる。急場の押さえもできる。――だが、攻められぬ」
俺は、書き取った。
(守りだけ、認める)
攻撃は、認めない。極めて重要な線引きだ。暴発を、防ぐ。俺が五千と書いたとき、俺は「足りるか」を考えていた。この人は「多すぎるか」を考えた。留守を預かる者の視点は、後者だ。
「中将様。お見事にございます」
「やめよ。――日向守。もう一つ、足したい。『わしが決めたことは、父上の帰還後、必ず全部報ずる』と」
「九条目に、書いてございます」
「九条目は、急事だけだ。一条目から八条目も、全部報ずる」
「中将様。それでは、手間が」
「かかる。だが、必要だ。――父上が、知らぬことを増やしたくない」
俺は、動きを止めた。
「日向守。父上は、全部を頭に入れておられる。それが、父上の強さだ。わしが勝手に決めれば、その分、父上の頭から抜ける。抜けたところで、父上は誤られる。――ゆえに、全部報ずる」
俺は、腹の底で受けた。
(そこまで見ているのか)
俺は、上様の頭を「一人にしかないデータベース」として恐れてきた。この人は、そのデータベースに穴を空けないことを考えている。同じものを見て、逆の側から手当てをしている。
「中将様。それは、それがしの考えておらぬことにございました。それがしは、中将様が決められることばかり考えておりました。上様の頭のことを、考えておりませなんだ」
信忠は、少し笑った。
「日向守。そなたは、父上を人だと思うておらぬな」
俺は、動きを止めた。
「そなたは、父上を『仕組み』として見ておる。父上が倒れたらどうなる。父上が忘れたらどうなる。――だが、父上は、人だ」
俺は、答えられなかった。
(そうか)
七年、上様を「組織の中心にある一点」として見てきた。円の中心の点。属人化のリスク。
「中将様。上様は、どのようなお方でございましょうか」
信忠は、驚いた顔をした。
「そなたが、それを聞くか」
「お聞かせくださいませ」
信忠は、しばらく黙っていた。
「――寂しい人だ。父上は、誰にも分かってもらえぬと思うておられる。そして、それは、たぶん当たっておる。父上は、速い。速すぎて、誰も追いつけぬ。ゆえに、いつも一人で決めておられる」
「中将様は、それを、どう思われますか」
「気の毒だと思う」
俺は、動けなかった。上様を、そう評した人間を、俺は初めて見た。
「日向守。わしは、父上のようにはなれぬ。速さでは、追いつけぬ。――だが、一人で決めぬことは、できる。遅いがな」
「中将様。遅いことは、欠点ではございませぬ。遅いのは、人に聞いておられるゆえにございます。人に聞く者は、遅い。ですが、間違いが少のうございます」
「それは、慰めか」
「違いまする。堺の商人が、同じことを申しておりました」
宗易の言葉を伝えた。一人で決めれば、その一人が間違えたとき、町が滅びる。ゆえに、寄り合いで決める。遅い。されど、滅びぬ。
「日向守。その商人に、会うてみたい。――ただし、父上には内密にな」
◇
岐阜を発ち、安土へ向かった。
舟の上で、利三が言った。
「殿。中将様は、変わられ申したな」
「変わった」
しばらく黙っていた。
「利三。俺は、間違えていた。俺は、上様を『仕組み』として見ていた。だが、あの方は、人だ」
「殿。それは、当たり前のことにござる。――ですが、殿は、それを忘れておられた」
(忘れていた)
七年、組織のことばかり考えてきた。人を、機能として見てきた。
そして、俺自身も、機能として扱ってきた。
(だから、倒れたのか)
舟が、安土に近づいていた。天守を見上げた。
(あの人は、寂しいのか)
七年、そばにいて、一度も考えたことがなかった。前世の社長のことも、俺は一度も考えなかった。三十七ページの資料に、社長の名は一度も出てこない。「意思決定者」と書いた。




