第94話 新府の火
天正十二年、十月。
武田は、崩れ続けていた。
――十月二日。諏訪、降る。
――十月五日。甲斐へ入る。
――十月七日。新府城、焼かれておる。
三行目で、手が止まった。
(新府)
勝頼が、去年築いたばかりの城だ。新しい本拠。それを、自分で焼いた。
――勝頼、岩殿へ向かうとの由。小山田信茂を頼るなり。
目を閉じた。
(知っている)
俺の記憶では、小山田信茂は裏切る。勝頼を受け入れず、追い返す。そして、勝頼は天目山で死ぬ。
(止められるか)
いや。止める理由が、ない。勝頼は、敵だ。織田家にとって、滅ぶべき相手だ。
だが、書院で一人、考えていた。
(なぜ、こうなった)
武田信玄は、強かった。上様が恐れるほどに。それが、九年で滅ぶ。
筆を取り、書き出した。
――武田が滅びし理由。
一、長篠の敗戦。大きい。だが、これだけでは滅びない。家は、一度の敗戦では滅ばない。
二、九年、守り続けた。守るのは悪いことではない。だが、家臣に褒美が出ない。褒美が出なければ、家臣は離れる。
三、勝頼が、諏訪の出であること。
その一行で、手が止まった。勝頼は信玄の四男だ。母は諏訪の出で、勝頼自身も諏訪家を継いでいた。本来、当主になる立場ではなかった。書き足した。
――ゆえに、宿老が従わぬ。
信玄の代からの宿老たちは、勝頼を「本来の当主ではない」と見ている。正統性の問題だ。
そこで、筆が止まった。
(待て)
中将様は、どうだ。織田信忠。信長の嫡男だ。正統性に、問題はない。だが、家臣は従っているか。
(従っている)
いや。上様がおられるから、従っている。
書いた。
――後継者への服従には、二つある。一つは、先代がおるゆえの服従。一つは、後継者自身への服従。前者は、先代が死ねば消える。
(武田は、前者だった)
信玄が死んだとき、宿老たちは勝頼に従わなかった。従うふりをしただけだ。そして、九年かけて、離れた。
――では、後者はどうやって作るか。
筆が止まった。分からぬ。三日考えた。
(成功だ)
――後継者自身への服従は、後継者が決めたことが当たった経験から生まれる。ゆえに、後継者には、決める機会を与えねばならぬ。そして、その決めが当たる機会を、作らねばならぬ。
少し寒くなった。
(作る、か)
危うい話だ。わざと成功させる。それは、操作ではないか。
書き足した。
――ただし、その成功は、まことのものでなければならぬ。偽りの成功は、家臣に見抜かれる。見抜かれれば、逆に信を失う。
少し安堵した。高遠のことを思い出した。あれは、俺が仕組んだことではない。信忠が、自分で決めた。そして、二千が生きた。
◇
十月の半ば。
――十月十一日。勝頼、天目山にて自害。夫人、嫡男も同じく。
長いこと、見ていた。
(同じだ)
俺の記憶と、同じだ。変わらなかった。
いや。続きを読んだ。
――小山田信茂、勝頼を受け入れず。我、これを聞き、信茂を捕らえたり。
(捕らえた)
俺の記憶では、小山田信茂は処刑された。だが、それは上様の命令だったはずだ。中将様が、先に捕らえた。
――信茂、申し開きをす。『武田は既に崩れておりし。家中の者を守るため、やむを得ざりし』と。我、これを聞き、しばし考う。
――我、思うに、これは筋の通りたる言い分なり。されど、主を見捨てたるは事実なり。ゆえに、我、次のごとく裁く。
――所領は、召し上ぐ。命は、助く。ただし、武士としては用いず。
俺は、動けなかった。
(助けた)
中将様が、変えた。
――右の裁き、父上に報ずべし。父上、これを認めざる場合は、我が責なり。
思わず声が出た。
(先に決めて、後で報告している)
越権だ。本来、こういう裁きは上様が下す。信忠は、先に決めた。そして、認められなければ自分の責任だと書いている。
(育った)
だが、同時に。
(危ない)
その夜、考えた。上様は、何と仰せになる。二つの可能性を書いた。一、認める。二、認めず、信茂を処刑する。
二つ目を見て、寒くなった。信忠の裁きが、父に覆される。家臣の前で。
四年前に信忠に言ったことを思い出した。家臣の前で主が正されれば、その主の言葉は、二度と重くなりませぬ。同じことが、起きる。
「利三ッ。安土へ行く」
「今からでござるか」
「今からだ」
◇
その夜のうちに舟を出した。翌朝、安土に着いた。
信長は、すぐに会ってくれた。俺の顔を見て、言った。
「日向守。休めと申したはずだが」
「休みました。十日、頂きました」
「勘九郎が、小山田を助けたそうだな」
「さようにございます。上様は、いかがお考えでございましょうか」
「――甘い。主を見捨てた者だ。斬るべきだ」
俺は、身を固くした。
「上様。一つ、申し上げてよろしゅうございますか。斬るべきかどうかは、それがしには分かりませぬ。――ですが、覆されるべきではないと存じます」
「どういう意味だ」
「中将様が、既に裁かれました。それを上様が覆されれば、中将様の裁きは、軽くなりまする。そして、次から、諸将は中将様の裁きを待たなくなりまする。――『どうせ上様が覆される』と」
長い沈黙。
「日向守。おぬしは、勘九郎の裁きが正しいと申すか」
「分かりませぬ」
「ならば、なぜ庇う」
「――正しさより、重うございますゆえ。上様。この一件は、小山田一人の命の話ではございませぬ。中将様の裁きに、重さがあるかどうかの話にございます。小山田を斬れば、上様は正しゅうございます。ですが、中将様の裁きは、軽くなりまする。――どちらが、織田家にとって重いか」
長い沈黙があった。
「日向守。顔を上げよ。――おぬし、勘九郎に頼まれたか」
「頼まれておりませぬ。中将様は、知りませぬ。それがしが、勝手に参りました」
「日向守。おぬし、勘九郎に肩入れしすぎだ。なぜだ」
俺は、しばらく答えられなかった。
「上様。それがしは、五十六になりました。上様は、五十一にございます。そして、中将様は、二十七にございます。それがしは、あと十年、生きられるか分かりませぬ。上様も、いつまでとは分かりませぬ。――ですが、中将様は、まだ三十年ございます」
長い沈黙。
「日向守。――小山田は、助ける。ただし、勘九郎には、こう伝えよ。『次はない』と。勘九郎は、先に決めて、後で報せた。今回は、認める。だが、次は、先に問え」
「承知いたしました。――ですが、一つだけ、お伺いしてよろしゅうございますか。上様が、遠国におられるときは、いかがいたしましょう。備中と甲斐では、報せが行き来するのに、二十日かかりまする。二十日、裁きを待つのでございますか」
長い沈黙があった。
「日向守。おぬし、それを言いに来たな」
俺は、平伏し、答えなかった。
小山田の話は、本当だ。だが、それが全部ではない。煕子に教わった通りにした。
「――書け。わしがおらぬときに、勘九郎が何を決めてよいかだ」
◇
十一月。俺は、駿河にいた。
駿河を徳川に渡す。その受け渡しの立ち会いを、命じられた。書付を作った男が、書付の通りに渡す役をやる。当然といえば、当然だった。
徳川三河守家康は、四十一になっていた。
(――狸親父)
俺の頭に最初に浮かんだのは、その四文字だった。
ゲームでは、最終盤の敵として出てくる。序盤は同盟相手として大人しくしていて、こちらが天下に手をかけた頃に、東から膨れ上がってくる。数字は、全部が高い。突出したものはないが、穴もない。そして、寿命がやたらと長い。
大河ドラマでは、たいてい二通りに描かれる。若い頃は苦労人で、人質に出され、我慢を重ね、家臣に支えられて生きる。そして後半、腹の出た狸になる。関ヶ原で豊臣を潰し、大坂で豊臣を滅ぼす。
(――四百年、そう言われ続けてきた男だ)
我慢の人。律儀者。そして、最後に全部を取る男。
それが、目の前にいる。
(――太っている)
それが、最初の感想だった。恰幅がいい、という言い方では足りない。腹が出ている。だが、動きは鈍くない。座り方が、静かだった。
板が、浮かんだ。
――――――――――――――――――
徳川家康 四十一歳
三河・遠江・駿河
【総評】待つ男。
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統率85 │ 戦術82 │ 兵站財務88
政務実務90 │ 交渉外交85 │ 人望80
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◆特記事項
忍耐 99
組織の記憶 92
自己申告 10
余命 表示不可
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俺は、その並びを、三度読んだ。
(――忍耐、九十九)
この数字を、俺は他に一つしか見たことがない。上様の意思決定速度だ。突出した数字は、その人間のすべてを説明する。
そして、その下。
組織の記憶、九十二。
(――何だ、これは)
こんな項目は、初めて見た。
「明智日向守にございます。駿河の儀、お渡しに参りました」
「――ご苦労にござる」
声が、低い。そして、遅い。一言ずつ、間が空く。
書付を渡した。家康は、それを読んだ。速くはない。だが、指が二度、止まった。
「日向守どの。これは、戦の前に書かれたものにござるか」
「さようにございます」
「――なにゆえ」
「戦の後では、分け前の争いになりますゆえ」
家康は、しばらく黙っていた。
そして、初めて、こちらを見た。
「――それは、こちらのためにござるか。織田様のためにござるか」
俺は、少し考えた。そして、正直に言った。
「両方にございます」
家康は、また黙った。
やがて、こう言った。
「――正直にござるな」
◇
その夜、酒が出た。家康は、あまり飲まなかった。俺も飲まない。二人とも飲まない席というのは、話が続かないものだが、この人は違った。
「日向守どの。一つ、伺ってよろしいか」
「なんなりと」
「――織田様は、いつまで保たれるとお思いか」
俺は、動きを止めた。
(――踏み込んできた)
同盟者が、相手の当主の寿命を聞く。無礼を通り越して、危険な問いだ。
だが、この人は、それを静かな声で聞いた。
「三河守様。それは、お答えできかねます」
「さようか」
家康は、あっさり引いた。そして、続けた。
「――それがしは、二度、家を失いかけ申した」
俺は、顔を上げた。
「一度目は、父が死んだ折にござる。それがしは、六つにござった。家中は割れ、それがしは他家に預けられ申した」
この人は、盃を置いた。
「二度目は、家中が二つに割れた折。門徒にござる。家臣が、半分、こちらに槍を向け申した」
三河一向一揆だ。二十年前のことだ。
「日向守どの。あの折、それがしは、こう思い申した。――『敵は、外におらぬ』と」
俺は、腹の底で受けた。
(――同じことを言っている)
俺が二十年考えてきたことを、この人は、二十年前に一度、身で通っている。
「三河守様。それで、いかがなされました」
「――許し申した。槍を向けた者を、全部、帰参させ申した」
「全部、でございますか」
「全部にござる。――斬れば、三河の侍が半分になり申す。半分の家では、武田に勝てぬ」
俺は、しばらく黙っていた。
(――計算だ)
情ではない。生き残るための計算だ。そして、その計算を、二十年前の若い当主がやった。
「三河守様。恨みは、残りませなんだか」
「残り申した」
家康は、即答した。
「――今も、残っており申す。あの折こちらに槍を向けた者の名を、それがしは全部覚えており申す」
俺は、動けなかった。
「覚えておって、使っておられますか」
「使っており申す。恨んでおるが、使い申す。――日向守どの。この二つは、両立いたす」
(――組織の記憶、九十二)
この数字の意味が、そこで分かった。
この人は、忘れない。誰が何をしたかを、全部覚えている。そして、覚えたまま使う。上様は忘れる。一日に百決めて、四年で十四万決めて、四年前の一言を忘れる。この人は、忘れない。
(――どちらが、恐ろしい)
答えは、明らかだった。
◇
別れ際、家康はこう言った。
「日向守どの。書付を、頂けぬか」
「どの書付を、でございましょう」
「――何でもよろしゅうござる。日向守どのが、家中に配っておられるものを」
俺は、少し迷った。
だが、渡した。『役目の量、定めの覚』は、まだ書いていない。渡したのは、『荷の覚』だ。近江と播磨と越前の荷を突き合わせたものだ。
「三河守様。これは、荷の書付にございます。戦には、役に立ちませぬ」
「――戦に役立つものは、頂きとうござらぬ」
家康は、書付を受け取った。
「それがしが欲しいのは、戦が終わった後に要るものにござる」
俺は、その言葉を、書き留めておきたいと思った。
◇
坂本へ戻る道で、利三が言った。
「殿。あのお方は、何を考えておられるので」
「分からぬ」
「――正直でござるな」
「利三。一つだけ、分かったことがある」
俺は、輿の中から外を見た。冬の駿河は、明るかった。
「――あの方は、待っている」
「何をでござる」
「――順番だ」
利三は、しばらく黙っていた。
「殿。それは、上様がおられなくなる日、ということにござるか」
「言うな」
俺は、そう言った。だが、否定はしなかった。
その夜、書付に書いた。
――東に、待っている者がおる。
――待つ者は、動かぬ。ゆえに、危うくない。
――だが、待つ者は、こちらが崩れるのを待っておる。ゆえに、崩れねばよい。
――崩れぬ形を作ること。それが、東への備えでもある。




