第93話 信濃の道
天正十二年、九月。
信忠は、信濃へ発った。
俺は、行かなかった。丹波と近江を預かる者は、留守を守る。それが役目だ。
だが、書付は届いた。毎日、届いた。
信濃から坂本まで、早馬で四日。信忠は、毎日一通を書き、四日遅れで俺の机に並ぶ。三沢が、それを日付順に綴じた。荷の覚と同じ様式だ。三沢は「殿。中将様の書付は、荷より正確にござる」と言った。荷は、遅れる。中将様の書付は、一日も遅れなかった。
信忠は、書いていた。
――九月三日。木曾谷に入る。木曾義昌、迎える。
――九月五日。義昌の話を聞く。武田の内情を語る。
――九月七日。信濃の国衆、三家、降る。
(速い)
武田領への侵攻が、驚くほど速い。戦っていないからだ。国衆が、次々に降っている。
「利三。これは、どういうことだ」
「武田が、崩れており申す。戦う前に」
書付を並べた。そして、気づいた。
(降った者の扱いだ)
信忠は、降った国衆を、全部書き留めている。名前。所領。約束した内容。俺の様式だ。
九月十二日の分で、手が止まった。
――降りたる国衆へ、書付を渡す。写しを三つ作り、一つを本人に、一つを父上に、一つを我が手元に。
(使っている)
取次の筋目、改定之覚。第二条だ。そのまま、使っている。
だが、次の行を読んで、目を見開いた。
――右の書付、滝川左近将監に見せしところ、一つ足らぬと申す。『いつまで安堵するか』を書けと。
「――そうか」
声が出た。
「殿。どうなされた」
「俺の書付には、期限が書いていない。『所領を安堵する』と書いてある。だが、いつまでかが書いていない」
「永久ではござらぬので」
「そう読める。だが、そうとは限らぬ。――上様が、方針を変えられたら、どうなる」
利三の顔が、こわばった。
「四国と、同じにござるか」
「そうだ。『安堵する』と書いた紙が、反故になる」
(滝川様は、それを見抜いた)
東国で、長く働いてきた人だ。何度も、約束が反故になるのを見てきたのだろう。俺は、安堵状の様式を作った。あの人は、安堵状が破られる日を知っていた。
続きを読んだ。
――ゆえに、書き直す。『当分の間、安堵す。改めるときは、三月前に告ぐ』と。
俺は、動けなかった。
(誠実だ)
永久を約束すれば、嘘になる。だが、「変わるかもしれない。ただし、変えるときは先に言う」なら、守れる。取次の筋目の三条目を、安堵状の側から書いたのだ。
「利三。これを、丹波でも使う。四十二家、全部だ」
利三は、げんなりした顔をした。
「――で、いつやりますので」
俺は、笑った。
◇
九月の下旬。書付の内容が、変わってきた。
――九月二十日。高遠城、抵抗す。城将は、仁科盛信。勝頼の弟なり。
俺は、身を固くした。
(高遠)
知っている。俺の記憶では、この城は激戦になった。そして、全員が死んだ。
その夜、眠れなかった。止められるか。だが、俺は坂本にいる。何もできない。
三日後。
――九月二十三日。高遠城へ、使者を送る。降伏を勧む。返答なし。使者、斬られる。
書付を握りしめた。
(同じだ)
俺の記憶と、同じ展開だ。変わらないのか。
二日後。
――九月二十五日。再度、使者を送る。
(二度目)
――此度は、書状を送らず。代わりに、高遠城の者の縁者を送る。先に降りたる国衆の中に、高遠の者の縁者あり。その者に、書付を持たせて送る。『降りたる者は、かく扱われておる』と示す書付なり。
俺は、動けなかった。
(これは)
丹波でやったことだ。降った村の道を直す。隣の村が、それを見る。そして、次の村が降る。三七郎様が海でやり、中将様が城でやった。
――返答あり。『城兵の命を助くるならば、城を開く』と。
三度、読んだ。
(開いた)
震えた。高遠が、落ちなかった。いや、落ちた。だが、燃えなかった。
――ただし、条件あり。城将・仁科盛信は、腹を切ると申す。兵の命と引き換えにと。
目を閉じた。
この人は、生き延びる道を選ばなかった。兵を助け、自分は死ぬ。
(退き口だ)
佐久間信盛の言葉を思い出した。誰が最後に残るかを、先に決めておくこと。仁科盛信は、それを自分で決めた。
書付の最後に、こうあった。
――我、これを受くべきか、迷う。滝川左近将監に問う。左近将監、答えて曰く。『これは、大将が決めること』と。
俺は、動けなかった。
(滝川様)
あの人は、約束を守った。答えを持っていて、言わなかった。たいてい正しい人が、正しい答えを、飲み込んだ。
――我、受くと決す。仁科盛信、城内にて自害。城兵二千、助命す。
(二千)
俺の記憶では、この城は全員が死んだ。三千とも、それ以上とも。
二千、生きた。
◇
書付を置き、庭に出た。九月の夜だった。風が、少し冷たかった。
「あなた様。どうなされました」
「――二千、生きた」
「何のお話でございましょう」
「信濃の城だ。俺の知っておる話では、その城の者は、皆死んだ」
「今は」
「二千、生きた」
「あなた様のなさったことでございますか」
「違う。中将様が、決められた」
「あなた様が、教えられたのでございましょう」
「教えておらぬ。俺は、丹波でやったことを書いただけだ。その書付を、中将様が読まれた。そして、信濃で使われた。――俺は、何もしておらぬ」
煕子は、しばらく黙っていた。
「あなた様。それが、書くということでございましょう。あなた様が信濃におられれば、二千は助けられませぬ。お一人では、一つの場所にしかおられませぬゆえ。――ですが、書付は、幾つでも写せます」
俺は、動けなかった。
(そうか)
七年、書いてきた。なぜ書くのか、自分でも分からなくなっていた。これだ。
書院に戻り、筆を取った。
――人は、一つの場所にしかおれぬ。書付は、幾つでも写せる。ゆえに、書く。
――俺が死んだ後も、写しは残る。残った写しを読んだ者が、俺の知らぬ場所で、俺の知らぬ人を助ける。それは、俺の手柄ではない。だが、それでよい。




