第92話 勝頼という二代目
天正十二年、八月。
安土に、諸将が集められた。議題は、武田だった。武田勝頼が、信濃口へ兵を出した。規模は、大きくない。だが――
「なにゆえ、今なのだ」
柴田勝家が、言った。
「武田は、弱っておる。長篠から、九年にござる」
俺は、地図を見ていた。武田は、長篠で大敗した。九年。国は疲弊し、家臣は離れ、勢いは失われている。なのに、出た。
「日向守。どう見る」
信長が、問うた。
「追い詰められておられるかと存じます。上様。武田は、この九年、何をしておりましたか」
「守っておった」
「守り続けて、九年にございます。守るだけでは、家臣は褒美を得られませぬ。九年、褒美がございませぬ。――ゆえに、家臣が離れまする」
丹羽長秀が、口を開いた。
「日向守どの。ならば、なぜ今、兵を出す」
「離れるのを、止めるためかと存じます。一度でも勝てば、家臣は残りまする」
部屋が、静かになった。
「日向守。それは、負ける戦だな」
「さようにございます」
「勝頼は、それを知っておるか」
「知っておられましょう。ですが、出ねばならぬのでございます。出なければ、戦わずして崩れまする。出れば、負けても、まだ家が残りまする」
信長は、しばらく黙っていた。
「――哀れだな」
俺は、少し驚いた。この人が。
「日向守。武田信玄は、強かった。わしは、あの男が生きておる間、恐ろしかった。そして、死んだと聞いて、安堵した。――だが、九年で、こうなる。家というのは、そういうものだ」
俺は、聞いていた。
(分かっている)
この人は、家が脆いことを知っている。知っていて――なぜ、備えぬ。
◇
軍議は続いた。結論は出ていた。武田を、討つ。
だが、その前に、一つ確かめねばならぬことがあった。
「上様。徳川様は、いかがなさいますか」
部屋の空気が、少し変わった。
徳川三河守家康。同盟者だ。家臣ではない。二十年、織田家と組んで東を支えてきた。武田を討つとなれば、必ず動く。そして、動けば、その分を取る。
「日向守。あれは、出る」
「上様。ならば、取り分を先に決めておかれませ」
信長の眉が、動いた。
「日向守。まだ、戦も始まっておらぬぞ」
「ゆえにございます。戦が終わってから決めれば、それは分け前の争いになりまする。戦の前に決めておけば、それは約定にございます」
俺は、続けた。
「そして、徳川様は、約定を守られるお方と伺っております」
柴田勝家が、鼻を鳴らした。
「――守る。あれは、律儀者よ」
その言い方には、少しの侮りと、それより多くの警戒があった。
(そうだろうな)
律儀という評は、褒め言葉のようでいて、そうではない。約束を守る者は、扱いやすい。だが、扱いやすい者ほど、こちらが約束を破ったときに手強くなる。守る者は、破られたことを忘れない。
「日向守。ならば、いくら渡す」
「駿河かと存じます」
俺は、地図を指した。
「駿河は、徳川様の隣にございます。取れば、繋がりまする。飛び地を渡せば、治まりませぬ」
信長は、しばらく地図を見ていた。
「――駿河だ。書いておけ」
俺は、平伏した。
(書けた)
同盟者への取り分が、戦の前に、紙になった。これだけで、後の揉め事が一つ減る。
◇
問題は、誰が行くかだった。
「上様。それがしが参りまする。東国は、それがしの手の内にござる。関東の諸家とも、繋ぎがござる」
滝川一益だった。
(適任だ)
東国の事情に詳しく、北条とも上杉とも繋ぎがある。
「左近将監。おぬしは、副将だ」
「では、大将は」
「勘九郎だ」
部屋が、ざわついた。
(来た)
信忠の、初の総大将だ。
「上様。中将様は、まだお若うござる」
柴田勝家だった。
「二十七だ」
「されど」
「わしが桶狭間で戦うたのは、二十七だ」
静まり返った。
(上手い)
反論を、自分の実績で封じた。そして、それは事実だ。
◇
軍議が終わった後、廊下で滝川一益に呼び止められた。
「日向守どの。中将様は、大丈夫にござろうか」
「分かりませぬ」
一益は、少し笑った。
「正直にござるな。――それがしも、分かり申さぬ」
しばらく歩いた。
「日向守どの。それがしは、副将にござる。――副将とは、何をする役にござろう」
俺は、驚いた。五十を過ぎた歴戦の将が、聞くのか。
「左近将監様。それがしにお尋ねになりますか」
「尋ね申す。それがしは、副将をやったことがござらぬ」
(そうか)
この人は、常に単独で動いてきた。遊軍だ。誰かの下につくことも、誰かを補佐することも、ほとんどなかった。「役目が定まっておらぬゆえ書けなかった」と書いてきた人だ。
「左近将監様。それがしも、副将はやったことがございませぬ。ですが、一つだけ、思うことがございます。副将の役目は、勝たせることではないと存じます」
「では、何にござる」
「――大将に、決めさせることかと。左近将監様は、東国をよくご存じにございます。ゆえに、答えをお持ちでございましょう。ですが、それを先に申されれば、中将様は、決められませぬ」
「日向守どの。それでは、負け申す」
「負けるかもしれませぬ。ですが、勝っても、中将様は育ちませぬ」
「それは、危のうござる」
「危のうございます。ゆえに、線を引いていただきとうございます。『ここを越えたら、口を出す』という線にございます。小さな誤りは、放っておかれませ。中将様が、ご自身で気づかれます。――ですが、人が死ぬ誤りは、止めてくださいませ」
「その線は、どう引く」
「先に、決めておかれませ。戦の前に、中将様と話し合うて」
一益は、目を見開いた。
「『あなたが誤ったら止めます』と申すのか。それは、無礼にござらぬか」
「無礼にございます。ですが、その場で止めるほうが、よほど無礼にございます。先に決めておけば、それは約束にございます。――決めておらねば、それは口出しにございます」
「日向守どの。貴殿は、これを中将様にもなされたか」
「しました。四年前、坂本にて」
その日のことを話した。信忠が「誤ったら、その場で言え」と言い、俺が「お断りいたします」と答えたこと。家臣の前で主が正されれば、主の言葉は重くならない。
「ならば、それがしは、どうすればよい」
「二人のときに、申されませ。そして、皆の前では、従われませ」
「それは、難しゅうござる」
「難しゅうございます。――己が正しいと分かっておるときが、いちばん難しゅうございます」
一益は、少し笑った。
「その通りにござるな。それがしは、たいてい正しゅうござる」
俺は、思わず笑った。
「存じております」
一益は、立ち止まった。
「日向守どの。一つ、聞いてよろしいか。――貴殿は、なにゆえ中将様を育てられる」
俺は、答えられなかった。本当の理由は、言えない。だが、嘘はつきたくない。
「上様が、いつまでもおられるとは限りませぬゆえ」
一益は、動きを止めた。
「それは、口にしてよいことにござるか」
「いけませぬ。ですが、皆、思うております」
一益は、しばらく黙っていた。それから、目を伏せた。
「さようにござるな。――皆、思うており申す」
俺は、身を固くした。
(やはり)
誰も口にしない。だが、全員が考えている。上様が死んだら、どうなるか。
「左近将監様。皆は、何と思うておられます」
「分かり申さぬ。――誰も、口にせぬゆえ」
寒気を覚えた。
(そこだ)
全員が考えている。誰も口にしない。だから、誰が何を考えているか、誰も知らない。その日が来たとき、全員が別々に動く。準備していた者が、勝つ。準備していることを、誰も知らない。
「左近将監様。一つ、お願いがございます。甲州から戻られたら、それがしと話していただきとうございます」
「何の話にござる」
「――口にできぬ話にございます」




