第91話 十日の休み
――四国は、一年延びた。取次の筋目は、朱印を得た。
――そして武田が動く。中将様の、初めての総大将だ。
――上様が遠国におられる間、誰が裁くのか。
天正十二年、七月。
俺は、十日、休んだ。
最初の三日は、地獄だった。何もしないというのが、こんなに苦しいとは思わなかった。
書院に入ろうとすると、利三が立ちはだかる。
「殿。上様のご命にござる」
「書付を見るだけだ」
「なりませぬ」
譲らなかった。上様の命で、家老が主君を書院から締め出している。役目書にない役目だ。
◇
四日目、湖に舟を出した。供は、誰も連れなかった。
櫂を漕いだのは、四十年ぶりだった。いや、この体は漕いだことがあるらしい。手が覚えていた。
湖の真ん中で、櫂を止めた。
空が、広かった。
(こんなに広かったか)
七年、この湖のそばに住んでいた。毎日、見ていた。だが、見ていなかった。書院の窓から、帳面の合間に、湖の色だけを確かめていた。
舟の上で寝転がった。何も考えないようにした。だが、考えてしまう。上様が備中へ。中将様は岐阜に。秀吉は何を。
(やめろ)
止まらない。
(俺は、止まれないのか)
そこで、秀吉の言葉を思い出した。止まれば、終わりゆえ。
(同じか)
少し寒くなった。俺は、あの男を「止まれない男」だと思っていた。だが、俺も同じではないか。あの男は成果で走り、俺は備えで走る。走り方が違うだけで、止まらないのは同じだ。
◇
五日目、煕子に言った。
「煕子。俺は、止まれぬ」
「存じております」
あっさり言われた。
「ならば、どうすればよい」
煕子は、少し考えた。
「止まらずに、休まれませ。――違うことを、なさいませ。あなた様は、何もせぬのが苦手でございます。ならば、書付でないことを」
俺は、考えた。
(何をする)
思いつかなかった。趣味というものが、俺にはない。前世でも、そうだった。仕事しか、していない。それで死んだのに、まだ同じことをしている。
◇
六日目、台所に行った。理由は、思いつかなかったからだ。ここには、俺の知らないものがある。
「お、お殿様ッ!」
女たちが、飛び上がった。
「邪魔をする」
そう言って、座った。
最初、誰も動けなかった。城主が台所に座っている。だが、俺が何もしないでいると、少しずつ、皆が動き始めた。
俺は、見ていた。
(面白い)
女たちの動きには、順序がある。誰が何をするか、言葉なしで決まっている。役目書に書いていないことだ。二百三の項目を作った俺が、この部屋の項目を一つも知らない。
しばらく見ていて、一つ気づいた。
(一人、動きが違う)
若い女だ。二十歳くらい。この女だけ、他と合っていない。遅れる。ぶつかる。手を止める。
やがて、年配の女が、その若い女に何か言った。若い女は、俯いた。
俺は、立ち上がった。
「待て」
全員が、固まった。
「名は」
「お、およしと申します」
震えている。
「いつから、ここにおる」
「ふ、二月前でございます」
年配の女に聞いた。
「この者に、何を教えた」
女は、青くなった。
「お、お殿様。この者が何か」
「咎めておらぬ。何を教えたか、聞いておる」
「米の研ぎ方と、火の起こし方と」
「順序は。――誰が、いつ、何をするかだ」
女は、答えられなかった。
その沈黙で、理解した。
(教えていない)
いや、教えられない。この人たちは、順序を体で覚えている。言葉になっていない。だから、新しい者に伝えられない。半兵衛の策と、同じだ。あの人は、それを紙にした。この台所には、まだ紙がない。
「およし。困っておることを言え」
俯いたまま、答えない。
「咎めぬ。俺は、ここのことを何も知らぬ。教えてくれ」
およしは、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。
「――どこに、立てばよいか、分かりませぬ」
俺は、動けなかった。
(立つ場所)
台所を見回した。狭い。人が六人いる。皆が動いている。立つ場所が、決まっている。誰も、それを言葉にしていない。
その日、台所に半日いた。そして、書いた。誰が、どこに立つか。いつ、どこへ動くか。台所の平面図を描き、人の位置を書き込んだ。
年配の女に見せた。
「これで、合っているか」
女は、目を丸くした。
「こ、これは」
「絵図だ」
女は、しばらく見ていた。
「――違うところが、ございます。ここに、水桶がございます。ゆえに、この者は、ここを通れませぬ」
書き直した。
「他には」
「朝と昼で、変わります」
その日、三枚の絵図を作った。朝。昼。夕。書き終えたとき、日が暮れていた。
「およし。これを、持っておれ」
およしは、震える手で受け取った。しばらく見ていた。
「お殿様。――字が、読めませぬ」
俺は、動けなかった。
(そうか)
俺は、字が読めることを前提にしていた。七年、そうしてきた。
(柴田様の絵図だ)
北陸で、勝家が作っていたもの。字の読めない者のために、絵にした書付。あの人は、それを知っていた。俺は、知らなかった。
「およし。字は、習いたいか」
目を見開いた。
「わ、私のような者が」
「習いたいかと聞いておる」
小さく頷いた。
「習いとうございます」
◇
その夜、煕子に聞いた。
「城の中で、字の読めぬ者は、何人おる」
「半分ほどでございましょう」
俺は、動きを止めた。
「半分」
(知らなかった)
役目書。荷の覚。功の書。全部、字で書いている。半分の者には、届いていない。俺の仕組みは、この城の半分でしか動いていなかった。
「煕子。玉が、侍女に字を教えていたな。今は」
煕子は、目を伏せた。
「玉が嫁いでから、止まっております」
俺は、拳を握った。
(止まった)
人がいなくなれば、止まる。制度になっていなかった。俺は、玉の教えを「良いこと」として眺めていただけで、役目書に載せなかった。
◇
七日目、決めた。字を教える役を、置く。
誰にやらせるか。しばらく考えて、思いついた。
「たきを呼べ」
「聞き取り役の、たきにござるか」
「そうだ」
たきは、五十を過ぎていた。六年前、俺が聞き取り役に任じた女だ。今は、坂本の町と城を繋ぐ役をしている。
「お殿様。何用でございましょう」
「たき。字を教えてくれ」
目を丸くした。
「私が、でございますか。私は、まだ拙うございます」
「拙いからよい。たき。おぬしは、六年前まで字が読めなんだ。五十を過ぎてから習った。――ゆえに、読めぬ者の気持ちが分かる」
たきは、しばらく黙っていた。
「お殿様。一つ、申し上げてよろしゅうございますか。――字を習うのは、恥ずかしゅうございます。五十を過ぎて、子供のような字を書きます。人に、見られとうございませぬ」
俺は、考えた。
(そうか)
大人の学習の最大の障壁だ。恥。前世でも同じだった。新しい技術を学ばない中年社員。やる気がないのではない。若い者の前で、できない姿を見せたくないのだ。俺もそうだった。俺は、それを「やる気がない」と評価表に書いた。
「たき。ならば、隠れて習わせよう。一人ずつ、別の場所で教える。誰が習っておるかは、誰にも言わぬ」
たきは、少し笑った。
「お殿様。それは、良いお考えでございます。――ただ。隠れておりましても、皆、気づきます」
俺は、少し笑った。
「そうだろうな」
「ですが、『気づいておらぬふり』ができまする」
俺は、深く頷いた。完全な秘密は、要らない。気づかないふりができれば、それでいい。面子とは、そういうものだ。元親の四十年も、そういうものだ。
八日目、九日目。たきと二人で、教え方を作った。最初に教える字は、名前。次が、数字。その次が、日付。自分の名と、数と、日が書ければ、帳面がつけられる。
◇
十日目の夜。
書院で、十日分の記録を見返していた。絵図が三枚。字を教える手順が、五枚。
(休んでいない)
少し笑った。
煕子が、部屋に来た。
「あなた様。明日から、また働かれます。十日、いかがでございましたか」
「休んでおらぬ」
「存じております」
「怒らぬのか」
「怒りませぬ。――お顔の色が、良うなりました。台所におられた日から」
俺は、考えた。
(なぜだ)
休んでいない。書付を作っていた。だが、遠いことを考えていなかった。
七年、遠いことばかり考えてきた。六年後の六月二日。織田家が割れたときのこと。上様がおられなくなったときのこと。全部、まだ起きていないことだ。
この十日、考えていたのは、目の前のことだった。およしが、どこに立てばよいか。たきが、どう教えるか。今日、解決することだ。
「煕子。分かった。俺は、遠いことばかり見ていた」
「あなた様。遠いことを見るのは、良いことでございます。ただ、遠いことは、今日は終わりませぬ。終わらぬものばかり見ておれば、人は疲れます。――たまには、今日終わることを」
俺は、書付に書いた。
――遠きを見る者は、近きも見よ。遠きは、今日終わらぬ。近きは、今日終わる。今日終わるものがなければ、人は続かぬ。
そのとき、廊下に足音がした。
利三だった。顔が、こわばっていた。
「殿ッ。安土より、火急の報せにござる」
書状を開いた。手が、止まった。
――武田、動く。信濃口へ、兵を出す。




