第90話 爆弾は、残る
天正十二年、六月。
黒田官兵衛は、岐阜に来た。俺は、その報せを坂本で聞いた。
「殿。羽柴様は、あっさりお出しになったと」
「あっさりか」
書付を読んだ。信忠の使者が姫路に着いてから、三日で官兵衛は発った。迷いがない。
(何を考えている)
答えは、一月後に来た。秀吉からの書状だった。
――日向守様へ。官兵衛のこと、中将様よりお召しにござる。喜んでお出し申した。
――ところで、日向守様。一つ、伺いたきことがござる。これは、日向守様のお考えにござるか。
(ばれている)
当然だ。この男が、気づかないはずがない。
「利三。返事を書く。――正直に書く」
――筑前殿へ。お尋ねの件、それがしの考えにございます。中将様に、分ける者が要ると申し上げました。そして、官兵衛どのの名を挙げました。お怒りであれば、それがしにお向けくださいませ。
返事は、驚くほど早く来た。
――日向守様。怒っており申さぬ。むしろ、礼を申す。官兵衛は、それがしには過ぎた男にござる。あれは、中将様のもとにおるほうが、生きまする。
俺は、困惑した。この男は、自分の懐刀を、笑って手放した。手放したように見せている。どちらなのか、俺には読めない。
――ただ、一つだけ、申し上げておきたきことがござる。それがしは、今、備中におり申す。毛利と、対しており申す。毛利は、強うござる。このままでは、片付くのに三年はかかり申す。
――ゆえに、上様に、お出ましを願うつもりにござる。
俺は、書状を落としそうになった。
(出馬要請)
「利三ッ」
「どうなされた」
書状を突き出した。利三は読み、青くなった。
「上様に、備中へ来ていただくと」
「そう書いてある」
地図を広げた。備中。遠い。安土から、二百里はある。
そして、あることに気づいた。
(京を、通る)
安土から備中へ行くには、京を通る。京で泊まる。
(待て)
五年前に書いたことを思い出した。上様と中将様が、同じ日に、同じ町で、無防備になってはならぬ。
中将様は、どこにおられる。岐阜だ。だが、上様が西へ行かれるなら、中将様も動く。どこへ。
◇
その夜、眠れなかった。
庭に出た。六月の夜だ。湿った風が吹いていた。
(何が、起きようとしている)
六年前に読んだ「歴史」を、指で辿った。秀吉が毛利と対する。上様に出馬を要請する。上様が京へ入る。本能寺に泊まる。そして。
俺は、そこで思考を止めた。
(同じだ)
年は、二年ずれている。半兵衛は生きている。有岡は三年遅れた。だが、形が同じだ。
(なぜだ)
しばらく考えて、一つの答えに辿り着いた。
(構造が、同じだからだ)
織田家は、西へ拡大している。毛利は、強い。だから、秀吉一人では片付かない。だから、上様が出る。これは、必然だ。年がずれても、順序は変わらない。
俺は、震えた。
(俺は、日付を変えた)
だが、構造は、変えていない。日付を変えただけの改革は、改革ではない。先送りだ。
書院に戻り、書いた。
――日付は、動く。だが、形は、動かぬ。
(ならば、形を、変えねばならぬ)
――上様が西へ行かれる場合。中将様は、どこにおられるべきか。
答えは、明らかだった。西以外。だが、それだけでは足りない。
――上様が京に入られる場合。中将様は、京に入ってはならぬ。
その二行を書いて、しばらく動けなかった。
(言えるか)
「上様と中将様は、同じ町に泊まってはなりませぬ」。なぜ、と聞かれる。何と答える。
三日、考えた。
(理由を、変える)
――織田家、御動座之覚。
――一、上様が御動座の折、中将様は本国に留まること。
――二、上様と中将様は、同じ国に同時に入らざること。
――三、右の間、中将様は本国にて、諸方の報を受け、裁可を行うこと。
理由を書いた。
――右の定めは、家の裁きを絶やさぬためなり。上様が遠国におられる間、近国の裁きが止まれば、家は滞る。ゆえに、中将様は本国に留まり、裁きを行うべし。
読み返した。
(嘘ではない)
これは、本当に必要なことだ。当主が遠征している間、誰かが本国で決裁しなければ、組織は止まる。
だが、本当の理由は、別だ。書けば、こうなる。上様と中将様が同時に討たれることを防ぐため。
(これは、書けない)
書けば、「誰が討つのか」という話になる。必ず問われる。日向守は、誰を疑っておる、と。
◇
その夜、煕子に話した。
「煕子。書付を作った。だが、本当の理由が書けぬ」
煕子は、しばらく黙っていた。
「あなた様。理由は、二つあってもよろしいのでは。紙に書く理由と、あなた様のお心の理由と」
「煕子。それは、嘘ではないか」
「嘘ではございませぬ。――紙に書いた理由が、まことであれば」
俺は、動けなかった。
(そうか)
「家の裁きを絶やさぬため」は、本当だ。嘘ではない。ただ、それが全部ではないだけだ。全部を言う必要は、ない。
この人は、二十年、帳面の表に米の値を書き、裏に人の名を書いてきた。表は嘘ではない。裏も嘘ではない。俺は、その使い方を、今日初めて教わった。
◇
翌朝、書付を仕上げ、安土へ持って行った。
「日向守。これは、何だ」
「上様が御動座の折の、定めにございます」
「なぜ要る」
「裁きを、絶やさぬためにございます」
信長は、しばらく書付を見ていた。
「日向守。おぬし、何を案じておる」
(来た)
しばらく答えなかった。それから、顔を上げた。
「上様。それがしは、七年前に倒れました。四日、寝ておりました。その四日、明智の家は止まりました。――上様が、遠国で四日、動けぬことがあれば、織田の家は、四日、止まりまする」
「日向守。わしが倒れると申すか」
「倒れませぬ。ですが、道は遠うございます。備中まで、二百里にございます。報せが安土に届くのに、四日かかりまする。――四日、この家は目を閉じることになりまする」
「勘九郎を、岐阜に置けと申すか」
「さようにございます」
「あれは、来たがるぞ」
「存じております」
「日向守。おぬし、勘九郎に言うたか」
「申しておりませぬ。上様が、お決めになることゆえにございます」
信長は、しばらく俺を見ていた。
「――認める。ただし、一つ変える」
筆を取り、二条目に線を引いた。横に書いた。
――上様と中将様は、同じ国に同時に入る場合、別の宿所に泊まること。
(弱められた)
「なにゆえ、変えられました」
「同じ国に入るなというのは、無理だ。戦の折、親子が別々では、戦にならぬ。ゆえに、宿所を分ける。――それなら、できる」
俺は、腹の底で受けた。
(通った)
完全ではない。だが、別の宿所。これだけでも、大きい。二条御新御所は、本能寺から目と鼻の先だった。目と鼻の先でも、別の宿所は、別の宿所だ。
信長は、朱印を押した。
「日向守。一つ、聞く。――おぬし、誰を疑っておる」
(来た)
避けられなかった。
「誰も、疑っておりませぬ。疑っておるのは、人ではございませぬ。――形にございます」
「形、と」
「上様と中将様が、同じ場所におられる。それだけで、危うい形にございます。誰が悪いのでもございませぬ。――ただ、その形が、危ないのでございます」
長い沈黙があった。
「日向守。おぬし、それを七年、考えておるのか」
「さようにございます」
信長は、しばらく黙っていた。
「――疲れるだろう」
俺は、顔を上げた。この人が、そういうことを言うのは、初めてだ。
「疲れております」
「休め」
俺は、笑いそうになった。
「三日で、でございますか」
信長は、少し目を細めた。
「――十日、やる」




