第9話 安土の待ち時間
安土では、三日待たされた。
登城の届けは出した。取次も済んだ。だが「追って沙汰する」と言われたきり、呼ばれない。
利三は苛立っていた。
「病み上がりの身で呼びつけておきながら、これは」
「利三」
「は」
「待てるということは、急ぎではないということだ。悪い話ではない」
言いながら、俺は宿の窓から外を見ていた。
安土の城下は、異様だった。
まだ町として完成していない。あちこちで普請が続いている。それなのに、人が多い。商人が多い。荷が多い。
――そして、若い。
通りを歩いている者の多くが、二十代、三十代だ。老舗の重みのようなものが、この町にはまるでない。
(――スタートアップの街だ)
前世で、そういう街を見たことがある。新興のテック企業が集まった地区。誰もが忙しく、誰もが自分の会社の話をしていて、そして誰も、十年後にその会社があるかどうかを考えていない。
勢いがある。それは間違いない。
だが、勢いのある組織は、勢いが止まったときの想定を持たない。
「利三。町を歩く」
「――は? 登城の沙汰を待たねば」
「待つ。歩きながら待つ」
◇
三日で、俺は安土をかなり歩いた。
分かったことが、いくつかある。
ひとつ。この町には関がない。荷が自由に入る。だから物が安い。米も、塩も、坂本より安い。信長の経済政策は、末端まで効いている。
ふたつ。町の人間が、信長を恐れていない。
これは意外だった。第六天魔王だの、比叡山を焼いただのという話から、俺は町人が震え上がっているものと思っていた。
だが実際は、違った。
「上様が」「上様が」と、皆が普通に噂している。市の値のことも、普請の給金のことも。文句すら言っている。「あの普請は無茶じゃ」「石を運ぶのに人が死んだ」と。
恐れられているのは、家臣だけだ。
(――ああ、これも見たことがある)
顧客には評判のいい社長。社員には恐れられている社長。
珍しくもない。むしろ、よくある。外に見せる顔と、内に向ける顔が違うのではない。同じ厳しさが、外に向けば「妥協しない品質」に見え、内に向けば「無茶な要求」になるだけだ。
みっつ。これが一番重要だった。
――町に、織田家の家臣の噂が流れている。
誰が加増された。誰が叱られた。誰が方面軍を任された。誰が最近、上様の機嫌を損ねた。
人事情報が、町人の世間話になっている。
俺は茶屋の縁台でそれを聞きながら、背中が寒くなった。
人事の噂が外に漏れている組織は、内部でも必ず漏れている。
そして人事の噂は、当人が最も遅く知る。
◇
三日目の夕方、茶屋で耳にした話が、俺の足を止めた。
「――佐久間様は、近ごろ精彩を欠かれるそうな」
振り向きそうになるのを、こらえた。
商人らしい二人組が、団子を食いながら話している。
「本願寺の攻めが、もう何年になる」
「五年か、六年か」
「上様は、お待ちにならぬお方じゃからのう」
俺は、茶を口に運びながら聞いていた。
佐久間信盛。
織田家の筆頭家老格。石山本願寺攻めの総大将。
そして四年後、追放される男だ。
(――退き佐久間)
異名も、覚えている。退却戦がうまい。負け戦で、味方の損を最小にして退く。地味な技術だ。攻めて勝つ者は讃えられるが、退いて生き残らせる者は語られない。
ゲームでの数字は、中の下だった。統率七十そこそこ。戦術も似たようなものだ。序盤に一部隊を任せ、中盤には後方へ回す。そういう扱いだった。
そして、この人には、プレイヤーがどうにもできないことが一つあった。
――追放。
ある年になると、勝手に消える。理由の説明もない。画面に一行、「佐久間信盛が織田家を追放された」と出て、家臣一覧から名前が消える。俺は当時、少し損をした気分になっただけだった。使える駒が一つ減った、と。
(――今、その一行が、育っているところなのか)
俺はその折檻状の内容を、断片的に覚えている。長年、何の功もない。武功を挙げていない。人を使うのが下手だ。――そんな主旨だったはずだ。
だが今、俺の耳に入ってきたのは、町の商人の世間話だった。
(この噂が、四年かけて育つのか)
背筋が冷えた。
噂は、証拠を必要としない。反論の機会も与えない。ただ、じわじわと「あの人は精彩を欠いている」という印象を作る。そして四年後、それが公式の評価として文書化される。
――俺の場合も、同じだろう。
「明智は上様を恨んでいる」という噂が、いつか、どこかで立つ。
どこで立つのか。誰が立てるのか。
いや、そんなものは分からない。分かるはずがない。
分かるのは、こうだ。
噂に対抗できるのは、記録だけだ。
◇
その夜、俺は宿で紙を広げた。
利三が呆れた顔で見ている。
「殿。また書付でござるか」
「そうだ」
「明日こそ登城の沙汰が下りましょう。少しはお休みなされ」
「これを書き終えたら寝る」
俺が書いていたのは、これまで作っていた「現状分析」ではなかった。
もっと単純なものだ。
――日付。誰と会ったか。何を話したか。何を決めたか。
それだけを書いた紙。
前世で言うところの、議事録だ。
「殿。それは」
「今日、俺が何をしたかを書いている」
利三が、心底わけが分からないという顔をした。
「殿がなさったことは、殿がご存じでござろう」
「俺が忘れるからだ」
「……はあ」
「それに、俺が忘れなくても、俺が死んだら誰も分からぬ」
利三の顔から、笑いが消えた。
「殿」
「不吉なことを言っているのではない。当たり前のことだ」
俺は筆を進めた。
「利三。人はいずれ死ぬ。役目も変わる。丹波の陣で明日、俺が矢に当たるかもしれぬ。そのとき、俺の頭の中にしかないものは、全部消える」
書きながら、俺は安土城の方角を意識していた。
あの山の上にいる男の頭の中にも、膨大なものが詰まっている。
領国の石高。家臣の性格。敵の内情。町の物価。全部が、あの一つの頭に入っている。
それが消えたとき、何が残るか。
――何も残らない。
「利三。だから書く」
「……」
「書いたものは、俺が死んでも残る。残れば、次の者が読める。次の者が読めば、また一から始めずに済む」
利三は、しばらく黙っていた。
それから、意外なことを言った。
「殿。それは、家譜のようなものでござるか」
俺は顔を上げた。
家譜。系図と、家の由来を記した記録だ。
なるほど。この時代の人間にとって、「後の世に残す記録」といえば、それだ。
「近い」
俺は頷いた。
「だが家譜は、誰が生まれて誰が死んだかを書く。俺が書きたいのは、誰が何を決めたかだ」
「……決めたこと、を」
「そうだ。なぜそう決めたか、他にどんな案があったか、何を捨てたか」
俺は書き終えた紙を、そっと束の一番下に入れた。
「利三。人は、決めたことは覚えている。だが、なぜそう決めたかは忘れる」
これは前世で、嫌というほど見た。
三年前に決めたルールが、なぜ存在するのか誰も説明できない。だから誰も変えられない。「昔からそうだから」という理由だけで、意味のない手続きが二十年続く。
逆もある。優れた判断の理由が失われて、後任が簡単に覆してしまう。
「決めた理由を書き残せば、後の者はそれを疑うことができる。疑えるということは、直せるということだ」
利三が、ふう、と息を吐いた。
「殿。それがしには、まだ半分も分かり申さぬ」
「構わぬ」
「されど」
利三は、俺の書付の束を見た。
「――半分は、分かり申した」
俺は少し驚いて、この男の顔を見た。
利三は、それ以上何も言わなかった。
◇
沙汰が下りたのは、翌朝だった。
登城は、その日の午後。
支度をしていると、取次の侍が妙なことを言った。
「日向守様。上様より、お言伝がござる」
「なんと」
「『紙を持ってこい』と」
俺は、手を止めた。
「……紙、と」
「はい。それだけにござる」
利三と、目が合った。
利三の顔は、露骨に強張っていた。
俺は自分の書付の束を見た。九枚。うち一枚は、円と点と線の図。上様を点で描いた図。
持ってこい、と言われている。
――やはり、筒抜けだ。
待たされている間、俺は暇つぶしに紙の裏へ落書きをしていた。
縦横に線を引いて、九つの升目を作る。
(――懐かしいな)
前の世で、俺は毎年これを描かされた。縦が「今の成果」、横が「先の見込み」。人の名前を、九つのどれかに置く。右上は宝、左下は始末書。
あれを作った会社は、後で聞いた話では、社長が「わしの部下だ。おぬしらは借りておるだけだ」と言い切って、優秀な者を勝手に他の部署へ動かしていたそうだ。ひどい話だと思った。
(――だが、正しい)
部署に人を貼り付けておくと、部長は必ず抱え込む。抱え込まれた者は、その部署の色にしか染まらない。会社全体の宝を、一部署の私物にさせない。そのための言い切りだ。
俺は、九つの升目に織田家の名前を置いてみた。
柴田修理亮。今の成果、上。先の見込み――上げようがない。六十だ。
羽柴筑前守。今の成果、上。先の見込み、上。右上の宝だ。
丹羽五郎左衛門。今の成果、中。先の見込み、中。真ん中。
(――真ん中が、いちばん多い)
そして真ん中の者に、誰も何も言わない。上と下には言葉がかかる。真ん中には、かからない。
(――前の世で、辞めていったのは、真ん中の連中だった)
俺は、その落書きに線を引いて消した。消してから、隅に一行だけ書き残した。
――真ん中の者に、何と言うか。
◇
俺は束を掴んで、立ち上がった。
不思議と、恐怖はなかった。
むしろ、少しだけ笑いたい気分だった。
前世で三度突き返された資料を、俺は四度目もこっそり作っていた。誰にも見せずに、完璧にしてから出そうとして、そして死んだ。
今回は、途中で呼ばれた。
未完成のまま、持ってこいと言われている。
(――上等だ)
俺は束を懐に入れた。
「利三」
「は」
「行ってくる」
利三が、深く頭を下げた。
その頭に向かって、俺は言った。
「もし戻らなんだら、桶の水は日に三度だ。忘れるな」
「――縁起でもないことを申されるな!」




