第10話 おぬし、病で何を拾ってきた
通されたのは、大広間ではなかった。
小さな座敷だった。八畳ほど。障子が開け放たれ、湖が見える。
その縁側に、男が一人、胡座をかいていた。
黒の小袖。片膝を立て、湖を眺めている。近習の姿もない。
「上様」
俺は敷居の手前で平伏した。
「来い」
顔も向けずに、信長は言った。
「そこでは遠い」
俺は膝行して、部屋の中ほどまで進んだ。
顔を上げると、信長がこちらを見ていた。
あの目だ。
安土で、熱に浮かされながら見上げたときと同じ目。眠たげで、何も感じていないように見えて、こちらの汗の数まで数え終わっている目。
視界の隅で、あの半透明の板が浮かんだ。
織田信長 四十三歳 織田家当主
意思決定速度 100 │ 権限委譲 8
感情コスト認識 4 │ 制度理解 15
やはり、変わっていない。
「日向守」
「は」
「痩せたな」
「……面目次第もございませぬ」
「詫びるな。事実を言うただけだ」
信長は湖に目を戻した。
「紙は」
俺は懐から束を出し、両手で差し出した。
小姓もいない。信長は自分で腕を伸ばして受け取った。
そして、一枚目をめくった。
早い。
目の動きが、異様に速い。上から下へ一往復。それで次の紙へ移る。
二枚目。三枚目。四枚目。
俺は息を詰めていた。
この人は、読んでいない。眺めている。――と思ったのは、最初の三枚だけだった。
四枚目で、指が止まった。
棚卸しの中間報告。蔵の米が帳面より二割少ない、と書いた紙だ。
「日向守」
「は」
「盗まれたか」
「盗みではございませぬ」
「では、どこへ行った」
「――どこへも行っておりませぬ」
信長の眉が、わずかに動いた。
「最初から、無かったのでございます」
沈黙。
「三年前に数えた数が、その後、数え直されぬまま書き写されてまいりました。米は減ります。鼠も食えば、湿気で傷みもする。それを引かずに書き写せば、帳面の中でだけ、米は減りませぬ」
俺は続けた。
「誰も嘘は申しておりませぬ。書き写しただけにございます。ただ、書き写しは嘘になります」
信長は、紙を持ったまま動かなかった。
やがて、低く言った。
「――ほかの家も、同じか」
心臓が跳ねた。
この人は今、一足飛びに問題の規模を測った。
俺は正直に答えた。
「おそらくは」
「おそらく、では困る」
「はい。ゆえに、数えるべきかと存じます」
信長は、鼻から息を出した。
そして、紙をめくった。
五枚目。枡の統一案。六枚目。書付の様式。七枚目。病の看方の決まり。
七枚目で、また指が止まった。
「これは何だ」
「妻が、労咳の兆しにございました」
信長の目が、初めてこちらへ向いた。
「治ったか」
「……咳が、減っております」
「そうか」
それだけだった。
だが、俺は妙な感覚を覚えた。この人は今、「治ったか」と聞いた。「妻はどうだ」でも「大事ないか」でもなく、結果を聞いた。
情がないのではない。
情の表し方が、結果でしかできないのだ。
信長は紙をめくった。
八枚目。
そして、九枚目。
――円と、点と、線の図。
空気が、変わった。
信長は、その一枚を膝の上に置いた。
そして、長いこと、動かなかった。
湖の音が聞こえた。
俺は平伏したまま、脇の下を汗が伝うのを感じていた。
利三の顔が浮かんだ。桶の水は日に三度だ、と言い残してきた。あれが本当に遺言になるかもしれない。
どれくらい経ったか。
信長が、口を開いた。
「――この、真ん中の丸は」
「上様にございます」
「わしか」
「はい」
顔を上げた。
信長は図を見たまま、こちらを見ていなかった。
「無礼だな」
「はい」
「首を刎ねてもよいぞ」
「――お待ちくださいませ」
「待つと申すか」
「刎ねられる前に、この図の意味を申し上げとうございます」
信長の口の端が、ほんのわずかに動いた気がした。
「申せ」
俺は身を起こした。
膝の上で拳を握り、口を開いた。
「この線は、命令の道でございます。北陸へ、中国へ、畿内へ、丹波へ。すべて上様から出て、上様へ戻ります」
「当たり前だ」
「はい。当たり前でございます。そして、それゆえに速い」
俺は続けた。
「他家は違います。武田も、上杉も、毛利も、宿老の合議を経ます。合議は遅い。上様が勝ってこられたのは、この速さゆえかと存じます」
「分かっておるなら、何が不足だ」
来た。
俺は、息を吸った。
「上様。柴田様と羽柴様の間に、線がございませぬ」
信長の目が、ようやくこちらへ向いた。
「越前の米を、播磨へ回すことができませぬ。互いに直に頼む道がないゆえ、必ず一度、上様を通ります。上様がお決めになるまで、米は動きませぬ」
「わしは、決めるのが遅いか」
「――お速うございます」
「なら、問題はあるまい」
「上様が、お一人であるかぎりは」
言った。
言ってしまった。
信長は、動かなかった。
俺は続けた。もう止まれなかった。
「上様は、この国のあらゆる数字を頭にお持ちでございます。石高も、兵の数も、町の値も。それゆえ、報告を待たずに判断ができる。書付など要らぬ。会議も要らぬ。それが織田家の速さの正体かと存じます」
「そうだ」
「――ゆえに、この家には、上様の頭の外に、何も残っておりませぬ」
湖の音が止まったように感じた。
「上様が三日、床に伏せられたら。この家は、三日、止まります」
言い切った。
信長は、微動だにしなかった。
俺は平伏した。額を畳につけた。
もう、これ以上言えることはなかった。
どれくらい経っただろう。
「――日向守」
「は」
「顔を上げよ」
顔を上げた。
信長は、図を持ったまま、俺を見ていた。
その目に、初めて、感情らしきものが浮かんでいた。
――面白がっている。
「わしが死ぬ、と申したいか」
「申しておりませぬ」
「同じことだ」
「――違いまする」
俺は言った。
「上様がご存命であるうちに、上様がおられずとも回る形を作れ、と申しております」
「なぜだ」
「そのほうが、上様がお速く動けるからでございます」
信長の眉が、上がった。
「――ほう」
「今の上様は、天下の采配をなさりながら、蔵の米の数まで背負っておられます。米の数を家臣が背負えば、上様はその分、先へ進まれる」
俺は図を指した。
「上様のお速さは、この家の宝でございます。ゆえに、上様が細かいことに使われる時を、一刻でも減らしとうございます」
言い終えた。
信長は、しばらく黙っていた。
それから、図をひらりと畳の上に投げた。
「日向守」
「は」
「おぬし、以前は、こういうことを言わなんだな」
心臓が跳ねた。
「病の前は、こう申した。『恐れながら、丹波の儀につきましては』――そこから半刻、前置きが続いた」
……この人。
あの日の、俺が倒れる直前の言葉を、覚えている。
信長は片膝を立て直し、こちらへ身を乗り出した。
距離が、近い。
顔が、近い。
その目が、俺の目の底を覗き込んでいた。
「――おぬし、病で何を拾ってきた」
視界の隅で、あの半透明の板が揺れた。
俺は、答えられなかった。
答えられないまま、この男の目を見返した。
湖から風が吹き込んだ。図の紙が、畳の上でかさりと鳴った。
やがて、信長は身を引いた。
そして、まったく別のことを言った。
「金平糖は食うたか」
……は。
「――は。頂戴いたしました」
「甘かったか」
「甘うございました」
「そうか」
信長は縁側に手をつき、立ち上がった。
そして、湖を見たまま言った。
「日向守。丹波を、片付けよ」
「……は」
「片付けたら、その紙の続きを持ってこい」
俺は、平伏した。
額を畳につけたまま、俺は自分の指が震えているのを見ていた。
――通った。
三度突き返された俺の資料が、この男には、一度で通った。
いや、通ったわけではない。試されたのだ。丹波を片付けろ、というのは、そういう意味だ。結果を出せ。話はそれからだ。
当たり前の話だった。
だが前世の役員会は、その「当たり前」すら言わなかった。ただ「遅い」と言って、突き返しただけだった。
俺は顔を上げた。
信長はもう、こちらを見ていなかった。
立ち去りかけて、思い出したように振り返った。
「日向守」
「は」
「妻の看方の紙、あれは置いていけ」
俺は、目を瞬いた。
「――は。なにゆえ」
信長は、少しだけ首を傾げた。
そして、ごく当たり前のことのように言った。
「城で流行り病が出れば、同じことをする」
部屋を出ていく背中を、俺は見送った。
残された紙の束を拾い集めながら、俺は気づいた。
あの人は、七枚目の紙を、ただの病人の看方として読んでいなかった。
組織で流行り病が起きたときの、対処の手順として読んでいた。
(――制度理解、十五)
俺は、その数字を頭の中で見た。
十五。低い。だが、ゼロではない。
この人は、制度を作らない。だが、目の前に置かれた良い制度を、一瞬で見抜いて奪う。
退がろうとしたとき、信長が言った。
「日向守」
「は」
「一つ、言うておく。――斎藤利三と申したか。おぬしの家老だな」
俺は、身を固くした。
(――なぜ、家臣の名を)
「良い字を書くと聞いた。近く、京の書役に借りるやもしれぬ」
「上様。あれは、明智の家臣にございます」
信長は、こちらを見た。そして、何でもないことのように言った。
「――違う。あれは、わしの家臣だ」
俺は、動けなかった。
「おぬしは、借りておるだけだ」
部屋を出るまで、俺はその言葉を反芻していた。
(――ひどい言い方だ)
だが、腹の底では、別のことを考えていた。
この言い方が成り立つのは、家中の者を一人ずつ把握している者だけだ。名前も、字の上手さも、頭に入っている。そういう人間だけが、「おぬしは借りておるだけだ」と言える。
(――この人は、全部を自分のものだと思っている)
(――そして、実際に、全部を覚えている)
恐ろしいのは、傲慢さではない。
それを支える記憶量のほうだ。
◇
(――なら)
俺は紙を懐に入れ、立ち上がった。
膝が、まだ少し震えていた。
置いていけばいい。
この人の前に、片っ端から。
六年ある。
――いや。
視界の隅に、いつのまにか、あの板が浮かんでいた。
〈未来履歴〉照合率 98%
六年、あるはずだった。
俺は障子の向こうの湖を見た。
まだ、何も始まっていない。
――――――――――
【あとがき】
第一章、ここまでお読みいただきありがとうございます。
「わしは、おぬしを覚えておる。――だが、それが良いことかどうかは、分からぬぞ」
この一言が、この物語の全部です。一人の頭に全部が入っている組織は、その一人が消えた日に止まります。
次章から、光秀は「七年前に落ちた橋」を見に行きます。名を、お市といいます。




