第11話 浅井長政は裏切り者か
――棚卸しは終わった。妻は、まだ生きている。
――だが、この家には、約束を紙に残す習いがない。
――そして俺は、七年前に落ちた橋の話を聞きに行く。
天正四年、秋。
坂本に戻ってから、俺の一日は書付で始まり書付で終わるようになった。
朝、棚卸しの続報が上がってくる。昼、枡の切り替えについて村々の代表と話す。夕、利三が作った書付の様式案を検分する。
そして夜、俺は障子の外に座る。
「あなた様」
「いる」
「今日は、何を数えられました」
「馬だ」
「まあ」
障子の向こうで、煕子が笑った気配がした。
「馬は、逃げますでしょう」
「逃げる。だから数えるのが難しい」
この時間が、いつのまにか一日の楔になっていた。
煕子の咳は、減っている。だが消えてはいない。薬師の老人は五日に一度来て、脈を取り、うむ、と唸って帰る。良くも悪くもない、という顔だった。
労咳は、治る病ではない。抑え込むだけだ。
抑え込んだまま何十年も生きる者もいる。俺はそれに賭けている。
「あなた様」
「なんだ」
「昼間、玉が申しておりました。父上は近ごろ、昔の話をよくお尋ねになる、と」
俺は膝の上の紙を見た。
そこには、こう書いてある。
――浅井長政。
◇
この一月ほど、俺は明智家中の古参に話を聞いて回っていた。
名目は「家譜の編纂」だ。利三が思いついた口実を、そのまま使わせてもらった。実際、この時代の武家が過去の戦の記録を整理するのは、少しも珍しくない。
だが俺が聞いているのは、戦の勝敗ではなかった。
――なぜ、あの家は崩れたのか。
なぜ、あの人は裏切ったのか。
その日の夕、俺は書院に数人を集めた。古参の家臣が三人と、末席に玉。
玉が同席していることに、家臣たちは最初、戸惑っていた。
俺は説明しなかった。ただ「聞いておけ」とだけ言った。
説明すれば、この娘は「見学者」になる。説明しなければ、参加者になる。
「今日は、浅井の話をする」
空気が、わずかに硬くなった。
三年前に滅んだ家だ。近江の隣人であり、織田の同盟者であり、そして裏切り者。
俺は最初に、こう問うた。
「浅井備前守長政どのは、裏切り者か」
最年長の家臣――斎藤利三ではない、もっと古い、明智家の草創からいる老臣が、即座に答えた。
「裏切り者にござる」
「なぜだ」
「上様の妹君を娶り、盟を結びながら、金ヶ崎で背後を突き申した。あれを裏切りと申さずして、何と申しましょう」
もっともだ。
事実として、その通りだ。
「では」
俺は問いを変えた。
「長政どのは、愚かか」
老臣が、口を開きかけて、止まった。
この問いには、即答できない。
三年前の小谷城で、浅井長政は最後まで戦った。裏切りの後も、朝倉が滅んだ後も、独りになっても降らなかった。愚かな男の戦い方ではない。
「……愚かでは、ござらぬかと」
「では、卑怯か」
「……」
「妻を返した。子も逃がした。城を枕に討ち死にした。卑怯者の振る舞いか」
沈黙が落ちた。
俺は続けた。
「愚かでもなく、卑怯でもない男が、盟を破った。ならば――そこには理由がある」
俺は紙を広げた。
そこに、三つの言葉を書いた。
――朝倉。家中。恐れ。
「これから、それを解いていく」
「殿」
老臣が、当惑した顔で言った。
「滅んだ家の詮索をして、何になり申す」
いい質問だった。
むしろ、聞かれたかった質問だ。
俺は筆を置いて、言った。
「同じことが、明智の家に起きぬようにするためだ」
全員が、俺を見た。
「あるいは――織田の家に」
誰も、何も言わなかった。
玉だけが、末席で真っ直ぐこちらを見ていた。
◇
元亀元年、四月。
朝倉攻めの陣中で、それは起きた。
この体は、それを覚えている。
思い出そうとすると、記憶ではなく、感覚が先に来る。土の匂い。汗の乾いた匂い。そして、伝令が駆け込んできたときの、陣幕の中の空気の変わり方。
――浅井、離反。
誰も、最初は信じなかった。
そこにいた誰もが「何かの間違いだ」と言った。
「あの備前守が、そのようなことをするはずがない」
その言葉を、俺は何度も聞いた。
これは重要な事実だ。
浅井長政は、信用されていた。織田家中で、疑われていなかった。
だから、離反の報が届いたとき、対応が遅れた。
――信用は、リスクを見えなくする。
俺は陣中で、地図を見ていた記憶がある。越前の敦賀。金ヶ崎。北へ向かって伸びた織田の軍勢。
その後ろに、近江がある。
浅井の領地だ。
背後を塞がれれば、袋の中だ。
俺の脳裏に、あの言葉が浮かんだ。
――両端を縛られた袋。
◇
「殿。よろしゅうござるか」
書院で、老臣が遠慮がちに手を挙げた。
「金ヶ崎の折、それがしは陣におり申した」
「うむ」
「あのとき、皆が申しておったのは……『上様は、なぜ朝倉を攻められたのか』ということにて」
俺は顔を上げた。
「どういうことだ」
「浅井と朝倉は、古い縁にござる。浅井が今日あるのは、朝倉に助けられたゆえと。そのことを、上様がご存じないはずがない」
――そうだ。
そこが、この事件の核心だ。
俺は紙に書き足した。
――朝倉を攻めるなら、浅井に何と言うべきだったか。
この時代の同盟は、書面の契約ではない。
現代の企業提携のように、契約書に「競業避止義務」だの「事前通知義務」だのが書いてあるわけではない。
だが、暗黙の了解はある。
浅井と織田が同盟を結んだとき、そこには「朝倉には手を出さない」という了解があった、と言われている。文書があったかどうかは分からない。だが浅井家中の者が、そう信じていたことは確実だ。
――そして信長は、朝倉を攻めた。
俺は筆を止めた。
ここで、大事なことに気づいた。
信長が悪い、という話ではないのだ。
朝倉義景は、上洛の命に従わなかった。将軍を奉じる信長にとって、それは討つべき理由になる。政治的には正当だ。
問題は、正当だったことではない。
――浅井に、何も言わなかったことだ。
いや。正確には、何かは言ったのかもしれない。だが、浅井家中が納得する形では、言わなかった。
俺は、前世で見た光景を思い出した。
合併の後、統合先の事業部長が本社に呼ばれる。そこで方針の変更を告げられる。理屈は正しい。数字も合っている。
だが彼は、部下に説明できない。
「本社が決めたことだ」としか言えない。そして部下の目が、彼から離れていく。
彼は、裏切ったのではない。
説明できる材料を、渡されなかっただけだ。
「殿」
俺は顔を上げた。
末席から、声がした。
玉だった。
家臣たちが、ぎょっとして振り返る。娘が男たちの評定で口を開くのは、この時代、褒められたことではない。
俺は片手を上げて、それを制した。
「申せ」
玉は、少しも臆さずに言った。
「浅井様は、上様と朝倉様の、どちらかを選ばねばならなかったのですね」
「そうだ」
「――どちらを選んでも、家中の半分が離れる」
俺は、息を呑んだ。
この娘は、十三で、その構造を言い当てた。
「玉」
「はい」
「もし、おぬしが浅井備前守だったら、どうする」
玉は、しばらく考えた。
そして、真っ直ぐ答えた。
「――第三の道を探します」
「あったと思うか」
「分かりませぬ」
玉は、正直に言った。
「けれど、探す時が要ります。浅井様には、その時があったのでしょうか」
俺は、紙に目を落とした。
時。
――そうだ。
信長の速さだ。
朝倉を攻めると決めてから、実際に軍が動くまで、浅井が考える時間はどれだけあったのか。
おそらく、ほとんどなかった。
速さは武器だ。だが速さは、同盟者に「考える時間」を与えない。
考える時間を与えられなかった者は、いちばん古い選択肢に手を伸ばす。
浅井にとって、それは朝倉だった。
俺は筆を取り、紙にもう一行、書き足した。
――速さは、味方の熟慮を奪う。
書き終えて、俺はしばらくその一行を見ていた。
六年後に燃える寺の話ではない。
これは今の話だ。
いま織田家の中で、考える時間を与えられていない者が、何人いる。
「殿」
老臣が、掠れた声で言った。
「では、浅井は……裏切り者では、ないと」
俺は首を振った。
「裏切り者だ」
全員が、面食らった顔をした。
「盟を破ったのは事実だ。それは変わらぬ。責を負うべきは長政どのだ」
俺は紙を畳んだ。
「だが――同じことがまた起きるなら、それは長政どのの咎ではない」
俺は立ち上がった。
「二度起きることは、人の咎ではない。仕組みの咎だ」




