第8話 利三、呪符を見る
安土までは、湖を渡る。
坂本から舟で北東へ。琵琶湖の水面は、朝のうちは鏡のように凪いでいた。
舟の上で、俺は持参する書付を最後に確かめていた。全部で九枚。棚卸しの中間報告、枡の統一案、そして――上様に見せるかどうか、まだ迷っている一枚。
その一枚を広げたとき、隣に座っていた利三が覗き込んだ。
そして、固まった。
「殿」
「なんだ」
「……それは、なんでござる」
俺は自分の書いた紙を見た。
右上に「織田家 現状分析」。中央に大きな円。円の中心に点。そこから放射状に線が伸び、線の先に「北陸」「中国」「畿内」「丹波」「本願寺」と書いてある。
円の外に、いくつか書き込みがある。
――情報の一点集中。
――記録なし。検証不能。
――後継、権限なし。
――KPIなし。
最後の三文字を、利三は凝視していた。
「殿。この……『けいぴーあい』というのは」
しまった。
つい書いてしまった。前世の癖だ。
「南蛮の言葉でござるか」
「まあ、そのようなものだ」
「呪でござるか」
「違う」
利三の顔が、みるみる強張っていった。
「殿。まさかとは思い申すが、南蛮の術に手を出しては」
「出しておらぬ」
「されど、この円と、この線。……これは、陰陽の図に似ておりまする」
――そう見えるのか。
確かに、円の中心から放射状に線が伸びていれば、そう見えなくもない。この時代の人間にとって、図というのは絵図(地図)か、曼荼羅か、陰陽道の図式か、そのくらいしかない。
組織図という概念が、そもそも存在しない。
「利三。落ち着いて聞け」
「聞き申す」
「これは、織田家の姿を絵にしたものだ」
「……姿」
「この真ん中の点が、上様だ」
利三が、びくりと肩を震わせた。
「じょ、上様を、点に」
「うむ」
「点に……」
利三が両手で顔を覆った。
俺は少し反省した。確かに、主君を点で表すのは、この時代の感覚では不敬もいいところだ。
「では、こうしよう」
俺は筆を取り、円の中心の点の上に、小さく丸を描き足した。
「これで上様の御顔だ」
「もっと悪うござる!」
舟の上で利三が叫んだ。船頭が振り返った。
俺は筆を置いて、笑った。
笑ってから、真面目な顔に戻した。
「利三。この線を見よ」
「……は」
「北陸の柴田様。中国の羽柴様。畿内の丹羽様。それぞれ、上様と線で繋がっている」
「さようでござるな」
「では、柴田様と羽柴様は、線で繋がっているか」
利三が、図を見た。
しばらく見て、答えた。
「……繋がっており申さぬ」
「そうだ」
俺は紙の余白を指した。
「北陸で何が起きているか、羽柴様はご存じか」
「上様を通じてなら」
「上様を通じてしか、だ」
利三の眉が、寄った。
この男は、頭が悪くない。むしろ、実務の感覚が鋭い。だから、俺の言いたいことの半分は、もう届いているはずだ。
「利三。丹波で兵糧が足りぬとき、おぬしは誰に頼む」
「……上様に、注進いたす」
「近江や若狭には米がある。だが、おぬしはその蔵に直接頼めるか」
「頼めませぬ。筋目が違い申す」
「なぜ違う」
「なぜ、と申されても。……そういうものでござる」
そこだ。
「そういうもの」の中に、組織の欠陥は隠れている。
「利三。つまり、こういうことだ」
俺は紙の上に、指で新しい線を引く真似をした。
「柴田様から羽柴様へ、直に助けを求める道がない。だから何かあれば、必ず一度、真ん中を通る」
「……は」
「真ん中を通れば、上様がお決めになる。上様はお速い。だから今は、それで回っている」
俺は指を止めた。
「では、上様が三日、寝込まれたら」
舟の上が、静かになった。
利三は、何も言わなかった。
波が舟腹を叩く音だけがした。
やがて、利三が低い声で言った。
「――殿。それは」
「言うな」
俺は先に遮った。
「口に出せば、それだけで謀反の相談になる」
「……」
「だから紙に書いている」
利三が、初めて図を「図として」見る目になった。
俺は続けた。
「利三。俺は上様に、これを見せるつもりだ」
「な――」
「見せて、叱られるならそれでいい。だが、隠して考え続けるほうが、よほど危ない」
これは本心だった。
前世で、俺は隠していた。誰にも見せずに資料を作り込み、完成してから役員会に出した。だから殺された。中身ではなく、出し方で殺された。
根回しをしなかったのではない。根回しをする勇気がなかったのだ。
途中経過を見せるということは、未完成の自分を見せるということだ。それが怖かった。
「利三」
「は」
「もし俺が、これを見せて上様のお怒りを買ったら」
「……」
「家のことは、頼む」
利三は、答えなかった。
しばらく湖面を睨んでいた。
そして、ぼそりと言った。
「殿。ひとつ、申し上げてよろしいか」
「言え」
「――その紙、書き直したほうがよろしゅうござる」
俺は目を瞬いた。
「なぜだ」
「字が、汚うござる」
……いや。
「殿は熱で寝ておられた。手が震えておられる。この線も歪んでおり申す」
利三は、俺の手から紙を取り上げた。
「上様は、雑なものをお嫌いになる。中身がいかに正しゅうても、見苦しい紙は、それだけで捨てられ申す」
俺は、しばらく黙った。
――そうだった。
前世でも同じだった。内容がどれだけ正しくても、フォントが揃っていない資料は読まれない。誤字が三つあれば、その時点で信用が落ちる。
俺はそれを部下に教える側だった。
それを、忘れていた。
「……利三。おぬし、字は」
「人並みには」
「書き写せるか」
「殿の字よりは、まともに書けまする」
言い切りやがった。
俺は思わず笑って、紙を渡した。
利三は舟の上に紙を広げ、矢立を出し、そして――驚くほど整った字を書き始めた。
線は真っ直ぐで、円は歪みなく、文字は寸分たがわず同じ大きさで並んだ。
俺は、その手元を見ていた。
「利三」
「は」
「おぬし、書をやるのか」
利三の手が、一瞬止まった。
それから、素っ気なく答えた。
「若い頃に、少々」
「兵法は」
「……人並みには」
この男は、「人並みには」と言うとき、必ず人並み以上だ。
俺は湖面に目を戻した。
組織の中には、こういう人材が必ず埋まっている。
武辺者として扱われている男が、実は字がうまい。反対ばかりする男が、実は誰より速く実行する。使えないと思われている部署に、実は最も正確な記録がある。
(――煕子の帳面と、同じだ)
この家には、資産がある。
誰も、目録を作っていないだけだ。
しばらくして、利三が筆を置いた。
「殿。できまして」
差し出された紙を見て、俺は息を呑んだ。
美しかった。
同じ内容とは思えなかった。
線に迷いがない。字の大きさが最初から最後まで揃っている。円は円で、線は線で、書き手の手癖がどこにも出ていない。
これは、上手いという話ではない。
――同じものを、何度でも同じように書ける手だ。
◇
俺は、六日前に読み飛ばした一行を思い出した。
書字、九十九。
(――そういうことか)
背筋が、少し寒くなった。
あのとき俺は、その数字を「字が上手い」と読んだ。そして、家の兵站とは関係ないと判断して、素通りした。
だが違った。
書付というのは、書いた本人が読めればいいものではない。誰が読んでも同じに読め、誰が写しても同じ形になって、はじめて仕組みになる。
その一点において、この男の手は、この家でいちばん高価な資産だった。
六日、俺はそれを寝かせていた。
◇
(――数字は見えている)
俺は、そう思った。
(――だが、意味は、俺が読まねばならぬ)
板は教えてくれない。九十九という数字が何の役に立つかは、こちらが考えることだ。
六十四年やって、まだこれか。
「――利三」
「は」
「おぬし、明日から書付の様式を作れ」
「は?」
「家中の書付を、全部おぬしの字の形に揃える。誰が書いても同じ形になるようにする」
利三が、げんなりした顔になった。
「……殿。それは、また紙の話でござるな」
「紙の話だ」
「――で、いつやりますので」
舟の舳先に、安土の山影が見えてきた。
まだ天守は建ちかけだ。足場が組まれ、無数の人足が蟻のように動いている。
その巨大な普請を見上げながら、俺は膝の上の紙を握り直した。
あの山の上に、この国で最も速い男がいる。
そして俺は、これからその男に、「あなたが速すぎることが問題です」と言いに行く。




