第7話 玉の問い
安土へ発つ前夜。
俺は書院で、持参する書付をまとめていた。
棚卸しの結果は、まだ半分も出ていない。だが半分でも十分に酷かった。蔵の米は、帳面より二割少なかった。理由は横領ではない。ただ、数え直した者がいなかっただけだ。三年前の数字が、そのまま書き写され続けていた。
誰も嘘をついていない。それなのに、帳面は嘘をついている。
これをどう説明するかで、俺の首は繋がりも落ちもする。
筆を止めて考えていると、廊下に足音がした。
小さい足音だ。
「父上」
襖の向こうから、少女の声がした。
「入ってもよろしゅうございますか」
玉だ。
俺の三女。今年、十二になる。
記憶が、するりと流れ込んできた。この娘は、明智家の子の中でも群を抜いて聡い。書を読み、歌を詠み、そして――理屈をこねる。
「入れ」
襖が開いた。
背筋の伸びた娘だった。目が、こちらを真っ直ぐ見る。少しも遠慮がない。
そして、その目つきに、俺は既視感を覚えた。
鏡で見た、この体の目だ。
「安土へ発たれるとか」
「明日、早くにな」
「母上のお加減は、まだ」
「良くなってきている。だが、まだ油断はできぬ」
玉は正座して、膝の上で手を揃えた。
それから、言った。
「父上。近ごろ、家中がおかしゅうございます」
「ほう」
「桶の水を日に三度替え、椀を煮て、藁を五日で替える。侍女たちは手が荒れたと申しております」
……そこは盲点だった。
冬場に一日何度も手を洗えば、そうなる。
「油を配れ」
「は?」
「魚の油でも、椿の油でもよい。手を洗った後に塗らせよ。荒れれば洗わなくなる。洗わなくなれば、決まりが死ぬ」
玉は少し目を見開いて、それから、ふっと表情を緩めた。
「……父上は、変わられました」
この家の者は全員同じことを言う。
「以前の父上なら、『我慢せよ』と仰せでした」
「そうか」
「はい。父上は、正しいことを仰せになりますが――正しければ人は従うと、思うておられました」
俺は筆を置いた。
この娘、十二か。
十二でその観察をするのか。
「玉」
「はい」
「おぬしは、正しいだけでは人は従わぬと思うか」
「思います」
即答だった。
「正しさは、疲れます」
――参った。
俺は、しばらく言葉を探した。
前世で、俺が十七年かかって学んだことを、この娘は十二で言った。
「玉。ひとつ聞いてよいか」
「はい」
「おぬしは、輿入れというものを、どう思う」
空気が、変わった。
玉の指が、膝の上でわずかに動いた。だが顔は動かなかった。
「……なにゆえ、そのようなことを」
「近いうちに、話が来るやもしれぬ」
嘘ではない。
俺は知っている。数年のうちに、この娘は細川家に嫁ぐ。相手は細川藤孝の嫡男、忠興。名門同士の婚姻であり、織田家の同盟を固める一手でもある。
そして、その先も知っている。
本能寺の変が起きれば、この娘は「謀反人の娘」になる。夫の家から幽閉される。長い年月を、山奥で過ごすことになる。
俺が、それをやる。
やるはずだった。
「父上」
玉の声が、少し低くなった。
「わたくしは、どこへでも参ります」
「なぜだ」
「明智の娘ですから」
正しい答えだった。
この時代の武家の娘として、百点の答えだ。
だが俺は、その答えが嫌だった。
「玉。俺は今、家中の決まりを作り直している」
「存じております」
「病人をどう看るか。米をどう数えるか。誰が何をするか。ぜんぶ紙に書いて、決まりにする」
俺は書付の山に手を置いた。
「いずれ、婚姻についても同じことをするつもりだ」
玉が、初めて眉を動かした。
「婚姻に、決まりを」
「そうだ。嫁いだ娘が、実家と婚家の間で潰れぬようにする決まりを」
言いながら、俺は自分の言葉に驚いていた。
これは、第一に浅井長政とお市の話だ。同盟のために嫁いだ女が、実家と婚家が敵になった瞬間、居場所を失う。あの構造を、俺は制度で防ぎたいと思っている。
だが今、目の前にいるのは、俺の娘だ。
玉は、しばらく黙っていた。
そして、顔を上げた。
その目が、真っ直ぐ俺を見た。
「父上」
「なんだ」
「その決まりは――わたくしを守るためのものですか」
俺は答えようとした。
「それとも」
玉が、先に続けた。
「――わたくしを使って、織田の家を守るためのものですか」
息が、止まった。
部屋の中の音が、全部消えた気がした。
俺は、この娘を見た。
十二の少女が、正座して、少しも目を逸らさずに、俺を見ている。
(――こいつは)
俺が一番言われたくないことを、一番早く言った。
制度というのは、誰かを守る顔をしながら、誰かを使うためのものになりうる。前世でもそうだった。「働き方改革」の名の下で、残業時間だけが記録上消えた会社を、俺は知っている。人事制度も、コンプライアンスも、掲げた目的と実際の効果が食い違うことなど、いくらでもある。
俺が作ろうとしている婚姻の決まりは、本当に女を守るためのものか。
それとも、女を安全に使い続けるための潤滑油か。
俺は、正直に答えることにした。
「――分からぬ」
玉の目が、わずかに揺れた。
「今は、分からぬ。俺は、両方だと思っている」
「両方」
「守るためでもあり、家のためでもある。それを分けられると言う者は、嘘をついている」
俺は書付を一枚取り、玉の前に置いた。
まだ何も書いていない、白い紙だった。
「だが、これだけは言える。玉」
「はい」
「その決まりは、おぬしが読めるものにする」
玉が、目を瞬いた。
「読める、とは」
「隠さぬということだ。何のために作ったか、誰を守るためか、どこが守りきれぬか。ぜんぶ書いて、おぬしに見せる」
俺は白紙を指で叩いた。
「守ると言いながら中身を見せぬ決まりは、たいてい嘘だ。中身を見せて、それでも足りぬところを足りぬと書いてある決まりだけが、少しは信じられる」
玉は、その白紙を見ていた。
長いこと、見ていた。
それから、そっと手を伸ばして、紙の端に触れた。
「……父上」
「なんだ」
「その紙、いただいてもよろしゅうございますか」
俺は、面食らった。
「白紙だぞ」
「はい」
玉は紙を取り上げ、丁寧に畳んだ。畳み方が、几帳面だった。角と角を揃えて、二度で畳む。誰に習ったわけでもないのだろう。この娘は、たぶん、何をするときも同じ手つきをする。
「いつか、ここに何が書かれるのか。見届けとうございます」
そして、少しだけ笑った。
「書かれなかったときは、父上を責めますゆえ」
――こいつは。
俺は思わず、声を出して笑った。
笑いながら、背中に冷たいものが流れるのを感じていた。
白紙を渡すというのは、約束をしたということだ。
六年後、俺が寺を燃やせば、この約束は反故になる。
この娘は、幽閉された山の中で、白い紙を持ったまま老いていく。
(――させるか)
玉が去ったあと、俺はしばらく、閉じた襖を見ていた。
(――十二だぞ)
十二の娘に、俺は「両方だ」と答えた。守るためでもあり、家のためでもある、と。
あれは、誠実な答えだ。だが、誠実な答えが、いつも良い答えとは限らない。
この娘は、これから六年か七年、その「両方」を抱えて生きる。守られているのか、使われているのか、分からないまま。
(――分からないまま、というのが、いちばん辛い)
波多野も、そうだった。荒木も、そうだった。この時代の人間は、皆、自分がどちらなのかを知らされないまま置かれている。
俺は、書付の束の一番上に、新しい紙を置いた。
そこに書いた。
――婚姻の儀、覚書(案)。
その下に、小さく。
――玉に読ませること。




