第6話 なぜ、それを知っている
「利三。もう一度読め」
「『快気次第、安土へ参れ。棚卸しとやらの話を聞く』」
同じだった。聞き間違いではない。
俺は書付を受け取り、自分の目で確かめた。祐筆の手だ。信長本人の筆ではない。だが文言は、あの人の口調そのままだった。
問題は、内容だ。
「利三。棚卸しの話を、外に出したか」
「出しており申さぬ」
「城下では」
「蔵を数えておる、という話は町にも漏れておりましょう。人足を雇い申したゆえ」
――なるほど。
俺は書付を置いた。
人足を雇えば、町の者が知る。町の者が知れば、商人が知る。商人は坂本と安土を行き来している。安土は城下町として整備されている最中で、人の出入りが激しい。
情報は、勝手に流れる。
だが、それだけではない。
「棚卸し」という言葉が届いている。これは俺が作った言い方だ。この時代に一般的な語ではない。誰かが、俺の言葉をそのまま拾って、そのまま運んだということだ。
(――監視されているな)
嫌な感じはしなかった。むしろ納得した。
二十年で畿内を制圧した組織のトップが、家臣の動向を把握していないはずがない。前世でも同じだ。優秀な経営者は、社内の噂を人事部より早く知っている。
問題は、その情報が「どの経路で」届いているかだ。
俺は紙を引き寄せ、線を引いた。
――坂本の人足 → 町の商人 → 安土の商人 → ? → 信長
この「?」が分からない。
誰が信長に上げているのか。上げる者がいるのか、それとも信長が自分で聞いているのか。
(……ここが分かれば)
この組織の情報の血管が見える。
どこが詰まっていて、どこが漏れているか。
「利三。ひとつ頼みがある」
「また紙でござるか」
「今度は足だ」
利三の眉が上がった。
「坂本の町で、安土と行き来している商人を洗ってくれ。米、材木、鉄、なんでもいい。何日おきに往復しているか、誰と会っているか」
「……それは、なにゆえ」
俺は少し考えた。
正直に言うことにした。この男には、嘘が効かない。
「上様に、俺の話がどう届いているかを知りたい」
利三の表情が、すっと変わった。
武人の顔になった。
「殿。それは、危のうござる」
「なぜだ」
「上様の耳を探る、と取られれば――」
言いかけて、利三は口を噤んだ。
俺は頷いた。分かっている。
主君の情報経路を調べる。それは、うまく説明できなければ謀反の下準備そのものだ。
だから、逆にする。
「利三。調べ方を変える」
「は」
「隠すな」
「……は?」
「町に出て、堂々と聞け。『殿が、坂本と安土の荷の流れを知りたがっておられる』と言え」
利三が目を丸くした。
「それでは、上様に筒抜けに」
「筒抜けにするんだ」
俺は書付を指で叩いた。
「上様は、俺が棚卸しをしていることを既にご存じだ。ならば隠しても意味がない。むしろ隠せば疑われる」
「……む」
「それに、荷の流れを調べるのは、商いの話だ。坂本は湖の湊を持っている。関を通る荷の量を数えるのは、城主の仕事として、何もおかしくない」
利三は、ゆっくりと腕を組んだ。
それから、深く息を吐いた。
「……殿は、変わられた」
この三日で三度目だ。
「以前の殿なら、こうは申されなんだ」
「どう申した」
「『気づかれぬようにやれ』と」
――ああ。
俺は思わず苦笑した。
明智光秀という男は、そういう男だったのだろう。慎重で、有能で、根回しがうまく、そして人に見られることを恐れていた。
だから丹波でも失敗した。
国衆に対して、正しい手を打ちながら、それを説明しなかった。説明しなかったから、恐れられた。恐れられたから、離反された。
(これは俺の欠点でもある)
前世でもそうだった。三十七ページの資料を作りながら、俺は一度も社長のところへ雑談に行かなかった。正しさで押し切ろうとして、通らなかった。
同じ穴に、二度落ちるつもりはない。
「利三」
「は」
「これからは、俺の考えていることを、なるべく声に出す」
「……はあ」
「面倒でも聞け。おぬしが分からぬことは、家中の誰にも分からぬ」
利三は、しばらく俺を見ていた。
そして、ぼそりと言った。
「――で、いつやりますので」
俺は笑った。
◇
商人の調べは、五日で上がってきた。
利三の報告は、想像以上に精密だった。この男、文句を言いながら仕事は速い。
坂本と安土を定期的に往復する商人は、十七。うち米が六、材木が四、鉄と鉄砲関係が三、その他が四。往復の間隔は、早い者で三日、遅い者で十日。
そして、注目すべきことがひとつあった。
「殿。この者どもが、安土で必ず立ち寄る先がござる」
「どこだ」
「安土の町奉行所ではござらぬ。――『御座所の台所方』にござる」
俺は書付から顔を上げた。
「台所」
「さよう。荷を納めるついでに、そこで世間話をしていく者が多いと」
台所方。
城の炊事を預かる部署だ。組織図上は、末端だ。
だが考えてみれば、当然だった。
台所には、毎日、外から物が入る。商人が来る。人夫が来る。その全員が、外の話を持ってくる。そして台所方の者は、城の奥にも出入りする。小姓にも、女房衆にも、近習にも接する。
(――情報のハブだ)
組織図には現れない。だが実際には、この城で最も情報が集まる場所のひとつだ。
前世でも、そういう場所があった。喫煙所と、給湯室と、社員食堂。役員会よりそこの方が情報が速い。
「利三。上様は、台所方の話をお聞きになると思うか」
「……上様は、あらゆる者にお声をかけられます。草履取りにも、庭掃きにも」
なるほど。
俺は書付を置き、天井を仰いだ。
◇
そこで、ふと思った。
(――俺は、この家の者たちを、どれだけ知っている)
紙を引き寄せた。安土で会うことになる相手を、思い出せるだけ書き出す。
書きながら、自分がどこから知っているかも並記した。教科書か、大河ドラマか、ゲームか。
――柴田修理亮勝家。ゲームでは、武勇の高い猛将だった。統率も戦術も八十台後半。政治は低い。使いどころは、北陸方面の総大将。「かかれ柴田」の異名。瓶割り柴田の逸話――籠城中に水瓶を割って、退路を断って勝った話。大河でも、たいてい大声の武骨者として出てくる。晩年、賤ヶ岳で秀吉に負けて、お市と共に北ノ庄で死ぬ。
――羽柴筑前守秀吉。言うまでもない。針売りから関白まで。ゲームでは政治九十台、知略も高い。得意技は、水攻めと調略と、そして大返し。人たらし。大河では、たいてい明るくて調子がよくて、後半で急に怖くなる。
――丹羽五郎左衛門長秀。「米五郎左」。米のように、なくてはならぬ者。ゲームでは、全部が七十台。突出した数字がない。だから序盤に内政をやらせて、後半はベンチに置く。地味だ。地味だが、外せない。
――滝川左近将監一益。鉄砲の名手、という設定だった気がする。ゲームでは、器用貧乏。どこに置いても、そこそこ働く。伊勢にいて、関東へ行って、また戻ってくる。
――佐久間右衛門尉信盛。「退き佐久間」。退却戦の名人。だがゲームでは、能力が中の下だった。そして、途中で勝手に追放される。プレイヤーの意思とは関係なく、イベントで消える。
――明智日向守光秀。統率・知略ともに高い。政治も高い。全部が高い。使い勝手のいい万能型。そして、条件が揃うと、本能寺のイベントで裏切る。
そこまで書いて、筆を止めた。
(――俺は、この人たちを、二行で覚えている)
柴田は猛将。丹羽は地味。滝川は器用貧乏。佐久間は退却の名人で、途中で消える。
――全部、能力値と、一言の説明だ。
前世の俺は、あの画面を何百時間も見ていた。だが、あの画面のどこにも、「柴田勝家が北陸の雪を何年数えてきたか」は書いていなかった。「丹羽長秀が何を我慢してきたか」も、「滝川一益がなぜ器用でいなければならなかったか」も、書いていなかった。
(――当たり前だ)
あれは、遊びだ。
だが、俺は今、その二行の中に入り込んでいる。
紙の余白に、書き足した。
――右の覚えは、全部、他人が作った要約である。
――要約には、要約した者の都合が入る。
――ゆえに、会って、確かめること。
(――丹波と、同じだ)
俺は国衆四十二家の一覧を作った。名前と、石高と、二行の説明を並べた。そして、その二行で分かった気になって、波多野に説明をしなかった。
二行で人を分かった気になるのは、ゲームの癖だ。そして、それは前の会社の癖でもあった。人事考課表の総評欄は、二行だった。
紙をもう一度見た。
――佐久間右衛門尉。途中で勝手に消える。
(――消えるのではない)
消されるのだ。誰かが、何かを、上様の耳に入れて。
◇
織田信長という人は、正式な報告経路とは別に、非公式な情報網を持っている。それも、意図して作ったのではなく、単に誰にでも話しかける性格の結果として。
だから速い。
書面の報告が上がるより早く、噂が本人の耳に入る。だから会議で「で、結論は」と遮ることができる。もう知っているからだ。
これは、恐るべき強みだ。
同時に、恐るべき弱点でもある。
(――誰が何を伝えたか、記録が残らない)
噂は歪む。伝える者の主観が混じる。悪意がなくても、順序が入れ替わり、強調点がずれる。
そして、その歪みを検証する手段がない。
いま織田家は勝ち続けているから、それでも回っている。だが組織が大きくなり、戦線が伸び、方面軍同士の利害がぶつかり始めたら。
誰かが、悪意なく、あるいは悪意をもって、噂を曲げたら。
(――佐久間信盛)
名前が、ふっと浮かんだ。
四年後、あの人は追放される。理由は、成果が上がっていないこと。長年の功が、たったひとつの折檻状で吹き飛ぶ。
その折檻状に書かれた「事実」は、誰が信長の耳に入れたのか。
俺は書付の束を掴んだ。
ぞっとした。
この組織には、人事評価の記録がない。
昇進も、加増も、追放も、すべて信長の頭の中の印象で決まる。その印象を作っているのは、書面ではなく、台所で交わされる世間話だ。
――俺の未来も、そこで決まる。
六年後、「明智光秀は上様を恨んでいる」という噂が立ったとき。
それを否定する記録は、この組織のどこにもない。
◇
庭で、家中の者が鉄砲の手入れをしていた。
俺は縁側から、それをしばらく見ていた。
(――長篠から、一年)
三千挺だか千挺だかを並べて武田の騎馬を崩したという、あの戦から一年しか経っていない。この国の戦は変わった、と誰もが言う。
だが、目の前の光景は変わっていない。
鉄砲は数挺しかない。持っている者は特別扱いされている。玉と火薬の帳面はない。誰が撃つかも決まっていない。雨が降ったらどうするかも、決まっていない。
(――道具はある。だが、形が変わっておらぬ)
前の世で、俺は同じ話を何度も読んだ。
電気で回る仕掛けが世に出てから、工場の仕事が本当に速くなるまで、百年近くかかったという。仕掛けが悪かったのではない。工場の天井に太い軸が通っていて、そこから帯で全部の機械を回していた。仕掛けだけ入れ替えても、天井の軸がそのままでは、何も変わらない。
建屋を壊し、軸を外し、人の動線を引き直して、初めて速くなった。百年、かかった。
(――発明は一夜だ。革新は、百年だ)
鉄砲は、既にある。誰でも買える。
だが、鉄砲に合わせて軍の形を変えた家は、まだどこにもない。玉の数を数え、火薬を切らさず、撃てる者を育て、雨の日の段取りを決めた家は。
(――そこに、勝ちがある)
そして、それは戦の話だけではない。
この家には、優れた「仕掛け」が一つある。上様という、恐ろしく速い頭だ。
だが、その仕掛けの周りは、天井に軸が通ったままの古い工場だった。
俺は、その一行を紙に書いた。
――道具を入れても、建屋を直さねば、速くはならぬ。
◇
「利三」
「は」
「安土へ行く」
「……まだ本復されておりませぬ」
「行く」
俺は立ち上がった。膝が少しふらついたが、倒れはしなかった。
「上様が、棚卸しの話を聞きたいと仰せだ」
そして、と俺は続けた。
「――こちらにも、聞きたいことができた」




