第5話 煕子を死なせない
翌朝、俺は薬師の老人を呼び止めた。
「先生。妻を、診ていただきたい」
老人は驚かなかった。すでに察していたらしい。
診立ては、半刻ほどで終わった。部屋を出てきた老人の顔は、深い皺の底に何かを沈めたような顔だった。
「日向守様。正直に申し上げてよろしゅうござるか」
「頼みます」
「――労咳の兆しがござる」
労咳。
現代で言えば、結核だ。
俺は目を閉じた。
この時代、結核は不治の病だ。抗生物質が世に出るのは、四百年近く先。ストレプトマイシンという名前を俺は知っているが、それは知っていても何の役にも立たない知識だ。青カビから薬を作れ、などという転生小説のような真似は、この設備ではできない。
できることは、ない。
――いや。
俺は目を開けた。
「先生。まだ兆し、と仰った」
「さよう。今はまだ、咳と微熱。血は出ておらぬ」
「その段で、治った者を見たことは」
老人は少し黙り、それから頷いた。
「ござる。多くはござらぬが。……よう寝て、よう食い、気を病まず、日に当たった者は、稀に持ち直す」
俺は、その言葉を頭の中で三度繰り返した。
休息。栄養。日光。ストレスの回避。
――これは。
これは前世で読んだ、サナトリウムの療法そのものだ。薬のなかった時代、結核患者を高地の療養所に送って、ひたすら休ませ、食べさせ、日に当てた。それだけで、初期の患者はかなりの割合で回復した。免疫が病を抑え込むのを、環境で助けてやるという発想だ。
薬はない。
だが、環境は作れる。
◇
その日、俺は明智家中の者を広間に集めた。
三十人ばかり。利三が末席で腕を組んでいる。
俺は紙を広げ、そこに書いたものを読み上げた。
「これより、この城でひとつの決まりを作る」
ざわり、と空気が動いた。
「一、奥方の部屋は、他と分ける。看病に入る者は、四人に定める。それ以外は入るな」
誰かが、え、という声を漏らした。
「二、その四人は、他の勤めを免ずる。看病だけをせよ。扶持は変わらぬ」
「三、部屋に入る前と出た後、必ず手を洗え。桶と水は、日に三度替えよ」
「四、奥方の使った椀、湯呑み、手拭いは、他と混ぜるな。使い終えたものは湯で煮よ」
「五、寝床の藁は、五日ごとに新しくせよ」
「六、日の高いうちは、必ず縁側に出て、日を浴びさせよ。天気の悪い日を除く」
「七、朝夕の膳に、魚と卵を必ずつけよ。足りねば、俺の膳から回せ」
読み終えて、顔を上げた。
全員が、ぽかんとしていた。
最初に口を開いたのは、やはり利三だった。
「殿。恐れながら」
「言え」
「……その、手を洗うというのは」
「洗う」
「いや、洗うのは分かり申すが。なにゆえ」
来た。
俺は少し考えた。
「病原体」という言葉は使えない。使っても通じない。通じない言葉で説明した瞬間、それは呪術になる。
この人たちが理解できる言葉で言わねばならない。
「利三。おぬし、傷を負ったとき、泥のついたまま放っておくとどうなる」
「膿み申す」
「洗えば」
「……膿みにくうござる」
「病も同じだ。目に見えぬほど小さな汚れが、病を運ぶ。傷に泥が入るのと同じことだ」
利三が、ぐ、と唸った。
完全に理解したわけではないだろう。だが「傷と泥」の比喩は、この男の体が知っている実感だ。実感に接続できれば、人は動く。
「もうひとつ、よろしいか」
「なんだ」
「――看病する者を、四人に減らすのは、なぜでござる」
これは良い質問だった。
常識で考えれば逆だ。病人が出れば、家中の者が入れ替わり立ち替わり見舞いに行く。それが情というものだ。
「二つ、理由がある」
俺は指を二本立てた。
「ひとつ。人が多く出入りするほど、病は他へ移る。移った者が、また誰かに移す。城中に広がれば、看る者がいなくなる」
「……む」
「ふたつ。多くの者が少しずつ看るより、決まった者が続けて看たほうが、変化に気づく。昨日より息が浅い。昨日より食が細い。それは、毎日見ている者にしか分からぬ」
俺は紙を畳んだ。
「病を看るのは、情ではない。仕事だ。仕事なら、担う者を決めて、他の仕事を外してやらねばならぬ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、末席の若い侍が、おずおずと手を挙げた。
「殿。……ならば、その四人は、誰が選ぶので」
「志願を募る。ただし、覚悟のいる役だ。移る恐れがある。無理に出ることはない」
言い終わらぬうちに、手が挙がった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
気づけば、二十を超えていた。
俺は、しばらく言葉が出なかった。
(――ああ)
この人たちは、俺を知っているのだ。俺ではない。この体の、前の持ち主を。
二十年、この家を支えてきた男と、その妻を。
俺はまだ、その信頼を何一つ稼いでいない。
◇
夜、俺は煕子の部屋の前に座った。
中に入るのは、四人と決めた。その四人に、俺は入っていない。
自分で決めた決まりだ。破るわけにはいかない。決まりを作った者が最初に破れば、その決まりは死ぬ。
だから俺は、障子の外に座っている。
「あなた様」
中から声がした。
「そこにおられますか」
「いる」
「――ずいぶんな、大騒ぎでございますね」
少し笑いを含んだ声だった。
俺は障子に向かって答えた。
「大騒ぎだ」
「わたくしの咳ひとつで、城が引っ繰り返っております」
「引っ繰り返す」
「……あなた様」
声の調子が、少し変わった。
「わたくしは、そう長くないと思うておりました」
息が、詰まった。
「自分の体ですから、分かります。去年の冬あたりから、これは違うと」
俺は、何も言えなかった。
この人は、知っていた。誰にも言わずに、二十年つけている帳面をつけ続けながら。
「それを、なぜ言わなかった」
「あなた様が、丹波におられましたゆえ」
――待て。
「言えば、戻られましょう」
その一言が、鳩尾に入った。
この人は、自分の病を隠していた。俺の仕事の邪魔になるから。
俺は膝の上で拳を握った。
この家の当主は、自分の妻に「限界です」と言わせない仕組みを作っていた。悪意ではない。愛情ですらあったのだろう。だが結果として、この人は限界を一人で抱えた。
――上様のことを、言えた義理か。
「煕子」
「はい」
「これから毎晩、ここに来る」
「まあ」
「中には入らぬ。俺が決めた決まりだ。だが外にいる。だから、話せ」
少しの沈黙のあと、笑う気配がした。
「変なお人になられました」
「そうか」
「はい。前より、ずっと」
俺は障子越しに、頭を下げた。
この人が助かる保証は、どこにもない。労咳は、この時代の医学が最も無力な病のひとつだ。俺が持ち込んだのは魔法ではなく、ただの手順だ。手を洗え。飯を食え。日に当たれ。よく寝ろ。
それだけのことを、この国はまだ、束ねていなかった。
だから俺は、束ねた。
それで足りるかどうかは、分からない。
(――だが)
俺は、六年後に燃える寺のことを考えた。
あれも同じだ。ひとつひとつは、誰でも知っていることばかりだ。後継者を育てろ。権限を分けろ。休ませろ。面子を潰すな。同じ場所にトップと後継者を置くな。
誰も、束ねていないだけだ。
なら、俺の仕事は決まっている。
俺は障子の向こうに向かって、静かに言った。
「煕子」
「はい」
「――生きていてくれ」
返事は、すぐには来なかった。
やがて、小さく。
「はい」
と、聞こえた。
◇
その日から、坂本城の朝は、桶の水を替える音で始まるようになった。
三月後。
薬師の老人は、煕子の脈を取り、しばらく黙ったあと、こう言った。
「――咳が、減っておりまする」
俺は、その言葉を聞いた瞬間、その場に座り込みそうになった。
治ったわけではない。労咳は、そう簡単に消える病ではない。この先また悪くなるかもしれない。
だが、変わった。
俺の知る歴史では、この年に死ぬはずだった女が、まだ生きている。
◇
その夜、俺は一人で紙に向かい、筆を執った。
何を書こうとしたのか、自分でも分からなかった。ただ、記録しておかねばならないと思った。
――天正四年。明智煕子、労咳の兆し。療養により持ち直す。
書き終えて、俺は筆を止めた。
視界の隅が、ちらついた。
あの半透明の板が、また浮かんでいた。安土で見たものと同じ形式。だが今度は、能力の数字ではなかった。
〈未来履歴〉照合率 100% → 98%
俺は、その二文字を長いこと見ていた。
九十八。
一つ、歴史がずれた。
その分だけ、俺の知っている未来は、当てにならなくなった。
(――そうか)
背筋を、冷たいものが伝った。
俺の手にある地図は、俺が歩くたびに、少しずつ書き換わっていく。
六年後の六月二日。
その日、俺の地図には、何が残っているのだろう。
筆を置いたとき、廊下の向こうから足音がした。
利三だった。息を切らしている。
「殿。安土より、御使者」
俺は顔を上げた。
「なんと」
利三は、少し妙な顔をして言った。
「――『三日で治らぬとは、たるんでおる』と」
……あの人。
俺は思わず笑った。
「以上か」
「いえ。続きがござる」
利三は、書付を広げた。
「『快気次第、安土へ参れ。棚卸しとやらの話を聞く』」
筆が、指から落ちた。
なぜ、それを知っている。




