第4話 上様の使者
使者が来たのは、五日目の昼だった。
安土からだという。取次に出た利三が戻ってきたとき、その顔つきが妙だったので、俺は先に察した。
「上様の使者だ」
「……なにゆえ、お分かりに」
「おぬしの顔が怖い」
利三は自分の頬を撫でて、うむ、と唸った。
通された使者は、若い侍だった。膝をつき、言葉を選ぶこともせずに用件を述べた。
「上様よりのお言葉にござる。――『日向守、生きておるか』」
……それだけか。
「以上でござる」
「以上か」
「以上にござる」
俺は思わず笑いそうになった。
だが、続きがあった。
使者の後ろから、荷を負った男が二人。そして、薬箱を提げた老医が一人。
「上様より、薬師を遣わされました。名医と評判の者を京より呼び寄せたとのこと。並びに薬種、及び――」
男が荷を解いた。
中から出てきたのは、干した魚と、餅と、酒と、それから小さな包みだった。
包みの中身を見て、俺は目を疑った。
白い粒だ。角のある、透き通った、小さな粒。
金平糖。
この時代、砂糖は輸入品で、金一匁と同じ値で取引されることもある贅沢品だ。それを、南蛮渡来の技で角の立った形にしたものが、これ。
信長はこれを好むと聞いていた。宣教師が献上して以来、気に入っているのだと。
自分の好物を、病人に送ってきたわけだ。
「上様は、なにか仰せでしたか」
使者は少し困った顔をして、思い出すように言った。
「――『甘い物を食えば、たいていの病は治る』と」
……治らない。
治らないが。
俺は、しばらく金平糖の粒を見ていた。
安土で見た数字が、頭に浮かぶ。感情コスト認識、四。部下の可処分体力への配慮、一。
あの数字は正しい。今も正しいと思う。
だがこの人は、部下が倒れたら医者を寄越す。しかも京から名医を呼びつけて。自分の好物を持たせて。
(――ああ、そういうタイプか)
前の会社の社長も、そうだった。
部下を無茶苦茶に働かせて、倒れたら見舞いに来る。しかも本気で心配して来る。悪意はまるでない。むしろ情がある。
だから性質が悪いのだ。
情のない上司なら、部下は逃げる。情のある上司の下では、部下は「この人が期待してくれているのだから」と思って、限界を超えて働いてしまう。
そして、壊れる。
俺は、粒を一つ、口に入れた。
甘かった。ただ甘いのではない。舌の上で角が崩れて、じわりと広がる甘さだった。この時代の俺の舌には、たぶん、目が覚めるほどの甘さのはずだ。
だが、俺の頭に浮かんだのは、別のことだった。
(この人は、俺が何を食えば喜ぶかを知らない)
知らないまま、自分が好きなものを送ってきた。それは配慮ではない。だが、無関心でもない。
前の会社の社長は、正月に部下の家へ蟹を送る人だった。うちの子は甲殻類が駄目だと、俺は一度も言わなかった。言えば角が立つ。だから毎年、蟹は同僚に回した。
あの蟹と、この金平糖は、同じものだ。
俺は使者に頭を下げた。
「上様に、お伝えいただきたい」
「は」
「――『生きております』と」
使者は面食らったようだった。
「それだけで、よろしいので」
「上様は、それだけをお尋ねになった」
言ってから、俺は少し付け加えた。
「あとひとつ。『三日では治りませなんだ』と」
使者の目が、一瞬泳いだ。この時代、主君への軽口は命に関わる。
だが俺は、賭けてみたかった。
あの人が、どういう返し方をする人間なのかを。
◇
薬師の老人は有能だった。
脈を診て、舌を診て、腹を押し、そして「熱の本は腸にござる」と断じた。丹波の陣中で悪い水を飲んだのだろう、と。
薬を煎じる手つきに迷いがなかった。俺は感心して、いくつか質問した。
「先生。病というのは、うつるものと、うつらぬものがありますな」
「ござる」
「うつるものは、何によってうつるので」
老人は少し考えて、答えた。
「邪気、と申しますな。淀んだ気、汚れた水、腐れた物。あるいは病人の息」
――なるほど。
この時代の医学は、細菌もウイルスも知らない。だが「病人に近づくと病が移る」「汚れた水は危ない」という経験則は、ちゃんと持っている。
つまり、理屈は違うが、結論は近い。
なら、俺が言うべきことは決まっている。
「先生。ならば病人の部屋は、他と分けたほうがよいか」
「そうすべきにござる」
「病人の使った椀や、湯呑みは」
「別にするが良い。煮て使えば、なお良し」
俺は思わず身を乗り出した。
「――煮る、と言われたか」
「湯に通せば邪気が抜けると申します。古くからの言い伝えにござるが、経験の上でも、たしかに」
この老人は、経験主義者だ。理屈より、実際に効いたことを信じている。
それなら、話が通じる。
俺は頭の中で、一枚の表を作り始めていた。
――煮沸。隔離。手を洗う。看病する者を固定する。寝床の藁を替える。汚物を離れた場所で処理する。
超常の力はいらない。この時代の技術と物資で、全部できる。
できるのに、やられていない。
なぜか。誰も「それを全部まとめてやる」という発想を持っていないからだ。一つ一つは知られている。だが束ねられていない。
(――標準化されていないだけだ)
現代の感染対策だって、原理を知らない時代から効果は出ていた。手を洗え、と言い続けただけで死亡率が激減した産科医の話を、俺は前世で読んだことがある。彼は最後まで理由を証明できなかったが、それでも数字は下がった。
やり方が正しければ、理屈を知らなくても人は助かる。
俺は老人に頭を下げた。
「先生。教えていただきたいことがあります」
「なんなりと」
「――女の咳が、続いております」
老人の目が、すっと細くなった。
◇
その夜。
俺は、煕子の部屋の前にいた。
入るのを、少し躊躇った。
自分でも情けないと思う。だが俺には、この人の記憶が薄い。明智光秀としての記憶は流れ込んでくるのに、この人に関する記憶だけが、どうしても曖昧なのだ。
いや。曖昧なのではない。
深すぎて、輪郭が取れないのだ。長く連れ添った相手というのは、たぶんそういうものなのだろう。俺には経験がない。
「あなた様」
中から声がした。
気づかれていた。
「入ってもよいか」
「どうぞ」
障子を開けると、煕子は文机に向かっていた。
帳面をつけている。
覗き込んで、俺は少し驚いた。日付が入っている。品目が揃っている。数字の桁が、縦に揃っている。
――蔵の帳面より、遥かに読みやすい。
「それは」
「家の内の入り用にございます。米、味噌、薪、油。あとは、人の出入りを」
「毎日つけているのか」
「二十年ほど」
二十年。
俺は言葉に詰まった。
この城の中で、最も正確な記録を持っているのは、家老でも右筆でもなく、この人だったわけだ。
「煕子」
「はい」
「その帳面のつけ方を、家中の者に教えてやってくれぬか」
煕子の筆が、止まった。
顔を上げて、俺を見た。不思議そうに。それから、少しだけ、面白がるように。
「あなた様は、変わられました」
どき、とした。
「……そうか」
「以前より、遠くをご覧になっている」
煕子は筆を置き、少し首を傾げた。
「けれど――以前より、近くの者を、よくご覧になっている」
そう言って、彼女は笑った。
笑って、そのあとに、咳をした。
一度。二度。三度。
止まらなかった。
俺は、その音を聞いていた。
乾いた咳だ。熱の咳ではない。喉の奥からではなく、もっと深いところから出ている。
薬師の言葉が、耳の奥で鳴っていた。
――お方様の咳、少々、気に入りませぬ。
天正四年。
俺は、この年に何が起きるかを知っている。
知っていて、まだ何もしていない。
◇
その夜、利三が廊下に膝をついた。
「殿。使者が、もう一言、言い置いていかれ申した」
「なんだ」
利三は、言いにくそうにした。
「――『二日で治せ』と」
俺は、しばらく黙っていた。
「利三」
「は」
「昼は、三日と申されたな」
「申されました」
「――減っておるぞ」
「減っており申す」
二人とも、しばらく黙っていた。
やがて利三が、心底うんざりした顔で言った。
「殿。あのお方は、いつも日数で人を殴られる」
俺は、笑った。笑って、咳き込んだ。
そして、笑いが止まったあとで、思った。
(――日数でしか、人を測れぬのだ)
あの人には、それしかない。体の具合を測る物差しが、日数しかない。
(――ならば、別の物差しを渡せばよい)
俺は、枕元の紙に、一行だけ書いた。
――人を、日数以外で測る法を作ること。
書いた下に、もう一行足した。
――ただし、二日では無理である。




