第3話 織田家は会社である
三日目には、床から出られるようになった。
医者――曲直瀬流を名乗る老人が、脈を取って「峠は越えた」と言った。それから薬を煎じ、部屋を出ていく間際に、こう付け加えた。
「されど日向守様。この病は、疲れが呼び申す」
俺は思わず聞き返した。
「疲れが、ですか」
「三年、四年と積もった疲れは、ある日ふいに形を取る。若い者なら押し返せる。四十を越えれば、押し返せぬこともござる」
――過労、と言われている。
四百五十年前の医者に。
俺は妙な気持ちで頷いた。前世でも同じことを言われた。人間ドックの結果を渡してきた医師が、まったく同じ顔で「休んでください」と言った。俺は「はい」と答えて、その足で会社に戻った。
今度は、そうしない。
――と、決意した三日後には、俺は坂本城の帳面を全部運ばせていた。
◇
積み上がった帳面は、想像より多く、想像より役に立たなかった。
書式がばらばらなのだ。
同じ「米」でも、俵で書いてある帳面と、石で書いてある帳面と、「蔵三つ分」と書いてある帳面がある。日付が入っているものと、入っていないものがある。誰が書いたか分からないものが、半分近くある。
そして枡が、統一されていない。
これは深刻だった。地域ごとに枡の大きさが違うから、「三十俵」という記述が、どの枡で量った三十俵なのか分からない。
俺は帳面を閉じて、天井を仰いだ。
(……単位が違う数字は、足せない)
当たり前の話だ。だがこの当たり前が、この国ではまだ当たり前ではない。
枡が違えば、帳簿は嘘をつく。悪意がなくても嘘をつく。そして誰も、自分が嘘をついていることに気づかない。
「利三」
隣で書付を仕分けていた利三が顔を上げた。この三日、こいつはずっと付き合っている。文句を言いながら。
「枡を、一つに決める」
「は?」
「明智の家では、これから京枡を使う。全部だ。年貢も、兵糧も、扶持も」
「……上様が、京枡をお勧めになっておられるとは聞き申すが」
「なら都合がいい。上様に倣ったと言えばよい」
利三は難しい顔をした。
「殿。村々には、村の枡がござる。あれを変えれば、村は『年貢を増やされた』と申しましょう」
――ああ。
思わず唸った。
その通りだ。単位の統一は、必ず「実質的な増税」か「実質的な減税」になる。数字の整理のつもりで、生活を変えることになる。
前世でも同じ失敗を見た。管理会計の基準を統一しただけで、ある事業部の利益が半減した。数字が変わっただけで、実態は何も変わっていない。それなのに、その事業部の部長は詰められて辞めた。
「利三。よく言った」
「は?」
「では、こうする。新しい枡に改める分、年貢の率を下げて、村の手取りが変わらぬように合わせる。差し引き、村は損も得もせぬ」
利三が目を丸くした。
「……そのようなこと、できましょうか」
「計算すればできる。計算するために、まず数える」
結局そこに戻る。
俺は苦笑して、筆を取った。
◇
その日の夜、俺は初めて、この織田家という組織の輪郭を紙に描いてみた。
書きながら、背筋が寒くなった。
――織田家。
急成長企業だ。それも、とんでもない速度の。
尾張一国から始まって、二十年足らずで畿内を制圧している。前世の言葉で言えば、地方の同族企業が二十年で業界首位に立ったようなものだ。
その成長を支えているのは、三つある。
ひとつ、経済政策。楽市楽座、関所の撤廃。参入障壁を壊し、物流の費用を下げた。市場そのものを作り替えている。信長は経済に関しては、最初から正しい。
ふたつ、軍事の常備化。兵農分離が進んでいるから、農繁期でも戦える。他家が田植えで動けない時期に動ける。回転率が違う。
みっつ、意思決定の速度。
これが、最大の武器で、最大の爆弾だ。
俺は紙の上に、大きな円を描いた。円の中心に、点をひとつ。
全ての線が、その一点に集まっている。
(――二度目だ)
同じ図を、俺は蜀で描いた。
あのときの中心の点は、諸葛亮という男だった。丞相府の書類が、全部あの人の机を通っていた。誰も、それを異常だと思っていなかった。あの人が有能すぎたからだ。
俺は、その中心を削るのに二十五年かけた。数字で言えば、七十一を十九まで下げた。
(――今度は、八十九からだ)
この図を、俺は前世で何度も描いた。組織図の裏側に描く図だ。正式な組織図は、きれいな樹形になっている。だが実際に情報がどう流れているかを描くと、たいてい樹にはならない。線が一点に集まった、蜘蛛の巣のような形になる。
そして、もう一つ思い出したことがある。
あのゲームの画面だ。大名を選ぶと、配下の武将が一覧で並ぶ。城を選ぶと、そこに詰めている兵の数が出る。全部、一つの画面で見えた。
(――あれは、上様の頭の中だったのか)
プレイヤーは、全部の数字を一度に見られる。だから采配できる。あのゲームで俺が握っていた「全体が見える視点」を、この世界では、たった一人の男の頭が担っている。
そして家臣は、自分の画面しか見えない。
柴田勝家は北陸。羽柴秀吉は中国。丹羽長秀は畿内。佐久間信盛は本願寺。俺は丹波。それぞれが方面軍を率いている。事業部制だ。ここまではいい。素晴らしいとさえ言える。
問題は、その事業部長たちが、横で繋がっていないことだ。
俺が丹波の戦況を知るのは、俺が丹波にいるからだ。北陸で何が起きているかは、断片的にしか知らない。秀吉が播磨で何をしているかも、噂で聞く程度だ。
全ての情報は、まず信長のところへ行く。そして信長の頭の中で統合され、判断が下り、命令として各方面へ戻ってくる。
つまり、この組織の中央処理装置は、織田信長の頭蓋骨の中にしかない。
(データベースが、一人の人間の記憶なんだ)
しかも、バックアップがない。
共有もされていない。
閲覧権限を持つ者は、ゼロ。
――安土で見た、あの数字を思い出した。
制度理解、十五。
あれは信長が愚かだという意味ではない。むしろ逆だ。信長は制度がなくても回せてしまう。頭の中に全部入るから、必要を感じない。だから作らない。
天才の能力が、組織の欠陥を隠している。
そして隠されている間に、組織はどんどん大きくなる。信長の頭に入りきる限界を、とっくに超えているはずだ。
いつか、必ず、処理落ちする。
俺は筆を置いた。
手の中の紙が、やけに重く感じた。
これは、俺が十七年間見てきたものだ。名前も業種も規模も違うが、構造は同じだ。天才が引っ張る組織。その天才に全部が集まる仕組み。誰も止めない。誰も止められない。止めようとする者は「遅い」と言われる。
そして、ある日、天才が倒れる。
俺の前の会社は、それで終わった。
この国の場合は、終わり方がもう少し派手なだけだ。京の寺が燃えて、そのあと十年、戦が続く。
「殿。まだ起きておられるので」
襖の向こうから利三の声がした。呆れている。
「もう寝る」
「その言葉、三度目でござる」
俺は苦笑して、紙を畳んだ。
立ち上がりかけて、ふと手が止まる。
畳んだ紙の端に、書き足していないことがひとつあった。
この組織には、後継者がいる。
織田信忠。今年、十九か二十。
去年、家督を譲られている。つまり書類上は、この巨大組織の当主は既に信忠なのだ。
書類上は。
俺は、その二文字をしばらく見ていた。
(――肩書きだけ渡して、権限を渡していない)
どこかで見た。何度も見た。
社長を退いて会長に退いた創業者が、結局全部決めている会社。名刺だけ立派な二代目。会議で発言せず、父の顔色を窺う後継者。
その会社が、どうなったかも知っている。
◇
もう一つ、書いておかねばならないことがあった。
――この家は、何で人を測っているか。
答えは、すぐに出た。戦功だ。首の数、落とした城、切り取った石高。それだけである。
(――一本しかない)
前の世で、俺は同じ形の会社をいくつも見た。
工場ごとに粗利を出させ、粗利だけで評価する。すると工場長は粗利を守るために安い注文を断る。営業は数量で評価されるから、安くても取ってくる。同じ会社の中で、二つの部署が正反対の方向へ全力で走る。
そして双方が、こう言うのだ。
――「業績が悪いから、皆が苛立っておるのです」
――「景気が戻れば、この諍いも収まりましょう」
俺は、その台詞を三つの会社で聞いた。そして三つとも、景気が戻っても諍いは収まらなかった。
(――業績のせいではない)
測り方が違う者どうしは、仲良くできない。仲が悪いのではない。それぞれが、自分の物差しで正しいことをしているだけだ。
俺は紙に、四つ書いた。
――一、費え。いくらかかるか。
――二、速さ。いつ届くか。
――三、蓄え。どれだけ寝かせているか。
――四、切れなさ。止まらずに続くか。
前の世の終わりごろ、俺はこの四つを並べた図をよく見ていた。費用だけを追うと、必ずどこかで人が死ぬ。速さだけを追うと、金が死ぬ。四つ同時に見る者がいなければ、組織は片肺で走る。
(――この家には、一つ目すらない)
戦功は、この四つのどれでもなかった。
◇
俺は紙を開き直し、円の中心の点の隣に、もうひとつ小さな点を打った。
――信忠。
線は、まだ一本も繋がっていなかった。




