第2話 棚卸しから始める
紙は、思ったより高価だった。
利三が持ってきた束を見て、俺は最初にそれを察した。十数枚。丁寧に揃えられている。この時代、紙は一枚ずつ数える価値のある資産だ。前の会社で、A4用紙を裏まで使えと言われて腹を立てていた自分を思い出した。
あの倹約は正しかったらしい。三百年ばかり早かっただけで。
「殿。それで、何をお書きになる」
利三が胡座のまま覗き込んでくる。遠慮という概念がない男だ。
俺は筆を持ったまま、少し考えた。
現状分析、と書いた。だが二行目が出てこない。
当たり前だ。俺は織田家について、教科書レベルのことしか知らない。この体――明智光秀の記憶は確かに流れ込んでくるが、それは水底の砂のようなもので、掻き回せば濁るだけだ。名前は出る。地名も出る。だが「今、丹波の兵糧が何俵あるか」は出てこない。
(そうか。俺は転生したんじゃない)
中途入社したんだ。
業界大手。急成長企業。四十八歳。役職は重臣。前任者の引き継ぎ資料は、なし。
背筋が冷えた。前世で最悪だった案件より条件が悪い。
「利三」
「は」
「明智の家は、いま何人だ」
利三が、露骨に眉を寄せた。
「……何人、とは」
「家臣が何人いる。足軽まで含めて。それと、扶持を出している者の数。書ける者と書けぬ者の別も」
沈黙が落ちた。
利三は俺の顔をまじまじと見た。熱で頭をやられたか、という顔だった。半分正解だ。
「殿がご存じないはずが」
「病み上がりだ。確かめたい」
我ながら苦しい言い訳だったが、利三は「……ふむ」と唸って腕を組んだ。そして、答えなかった。
その沈黙の途中で、また視界の隅が光った。
斎藤利三 四十二歳 明智家家老
【総評】実行の男。動き出しが異常に速い。
統率 78 │ 戦術 80
兵站財務 65 │ 政務実務 72
交渉外交 55 │ 人望 80
学習適応 70 │ 制度理解 25
◆特記事項
着手速度 95
書字 99
主への諫言 70
自分の限界の申告 6
固有スキル 〈執行〉
命ぜられたるものを、文句を言いながら
最短で形にする。
俺は、その板を上から順に読んだ。
統率七十八。戦術八十。悪くない。武辺で身を立ててきた男の数字だ。
制度理解、二十五。信長よりは高いが、褒められた数字ではない。まあいい。今から上げる。
着手速度、九十五。
(――これは、ありがたい)
前世の職場で、俺がいちばん欲しかった人材だ。企画を出すと「検討します」と言ったきり三ヶ月消える人間ばかりの中で、その日のうちに手を動かす奴が一人いれば、部署の生産性は倍になる。
書字、九十九。
(……字が上手いのか)
俺は、そこを読み飛ばした。
字が上手いことと、家の兵站が分からないことは、何の関係もない。少なくともこのときの俺は、そう思っていた。
この読み飛ばしを、俺は六日後に後悔することになる。
◇
問題は、最後の一行だった。
自分の限界の申告。六。
俺は、その数字を三度読み返した。
六十四年前、俺は同じ形の数字を見たことがある。
諸葛亮孔明。あの人の申告値も、一桁だった。そして俺は、それを直すのに十年かけた。
(――なるほど)
目の前で腕を組んでいるこの男は、たぶん一度も「できません」と言ったことがない。
言えないのではない。言うという選択肢が、頭の中にないのだ。
だから、限界が来たときに倒れる。倒れるまで、誰にも分からない。
◇
やがて、利三が口を開いた。
「正確には、わかりませぬ」
やはり、と思った。
「およそ、でよい」
「侍で二百と少し。足軽・小者を入れれば、千は超えましょう。丹波の陣に出ている者を数えれば、もっと」
「もっと、というのは千二百か、二千か」
「……そこまでは」
利三の声が硬くなった。責められていると思ったらしい。
俺は首を振った。
「叱っているのではない。誰も数えていないなら、それは誰の落ち度でもない」
これは本心だった。前の会社でもそうだった。「誰も把握していない数字」を見つけたとき、犯人を探すのが一番の愚策だ。犯人は制度であって、人ではない。人を責めれば、次から誰も数字を出さなくなる。
「利三。棚卸しをする」
「たな……?」
「蔵にあるもの、田から上がるもの、人、馬、鉄砲、兵糧。ぜんぶ数えて紙に書く」
利三の顔に、初めて理解の色が差した。差した瞬間、げんなりした。
「蔵を、数えるので」
「蔵の中身をだ」
「……全部」
「全部だ」
利三は口を開けたまま、しばらく固まっていた。
そして、ぽつりと言った。
「殿。それは、戦の役に立ちますので」
いい質問だった。
俺は少し考えて、答えた。
「利三。おぬしは丹波で、兵糧が足りぬと思ったことがあるか」
利三の目が動いた。
「……ござる」
「そのとき、足りぬと分かったのは、いつだ」
しばらくの沈黙のあと、利三が低く言った。
「足りなくなってから、でござる」
「それだ」
俺は紙の上に、線を一本引いた。
「数えておけば、足りなくなる前に分かる。足りなくなる前に分かれば、手が打てる。戦に負ける理由の半分は、槍ではない。数えていないことだ」
利三は何も言わなかった。
言わないまま、しばらく俺の引いた線を見ていた。
そして立ち上がり、部屋を出ていきかけて、振り返った。
「殿」
「なんだ」
「病で、何かを拾ってこられたか」
心臓が跳ねた。
この男、勘が鋭すぎる。
「――夢を見た」
俺は正直に言った。嘘は、覚えておかねばならない量が増える。
「織田の家が、崩れる夢だ」
利三はまた、しばらく黙った。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「不吉な夢でござるな」
「ああ」
「……で、いつやりますので」
結局そこか。
俺は思わず笑った。笑ったら胸が痛んで、咳が出た。
◇
利三が去ったあと、俺は一人で紙に向かった。
書けることを書き出す。前の会社でも最初はいつもこれだった。分からないことを嘆く前に、分かっていることの輪郭を描く。輪郭が描ければ、穴の位置が見える。
――織田家。当主、織田信長。四十三歳。
筆が止まった。
四十三歳。
この数字が、俺の指を重くする。
六年後、この人は死ぬ。四十九で。
それは俺が知っている「歴史」だ。だが、それは同時に、この体が知らない未来でもある。
(……そもそも、なぜ俺は知っているんだ)
なぜ思い出せるのか、という話ではない。どこで仕入れたのか、という話だ。
筆を止めて、そこも棚卸しすることにした。人の数を数えろと言っておいて、自分の頭の中を数えないのは、筋が通らない。
出どころは、三つあった。
一つ目。教科書だ。
これは、粗い。年号と、結果しか書いていない。本能寺の変、天正十年。織田信長、明智光秀に討たれる。それだけだ。誰が何を思って何をしたかは、一行もない。
二つ目。大河ドラマだ。
実家では、日曜の夜八時にあれがついていた。母が好きだった。俺は宿題をしながら、片耳で聞いていた。四十年分ある。戦国ものは、五年に一度は回ってくる。そして戦国ものの年は、必ず本能寺をやる。
だから、顔と名前と関係は、頭に入っている。誰が誰の家臣で、誰と誰が仲が悪くて、誰がいつ死ぬか。
ただし、脚色が入っている。どこまでが史実で、どこからが脚本家の仕事かを、俺は区別できない。信長が女に胸の内を語る場面など、あれは誰も見ていないはずだ。
三つ目。これが、いちばん大きい。
学生時代にやり込んだ、戦国もののシミュレーションゲームだ。
大学の四年間、俺はあれに何百時間を捧げた。畿内から始めて、天下統一まで。武将を集め、城を落とし、内政を回す。就職活動の時期にもやっていた。落ちた面接の帰りに、部屋の暗がりで信長を動かしていた。
おかげで、この時代の地図が頭に入っている。城の位置。国と国の境。どの国が何万石か。誰が誰の与力だったか。俺が「丹波」と聞いてすぐに地形を思い浮かべられるのは、教科書のおかげではない。あのゲームのおかげだ。
そして、あのゲームには、能力値があった。
統率。武勇。知略。政治。数字が並んでいて、それを見て人を配置する。
(――待て)
俺は、そこで手を止めた。
安土で見た板を、思い出した。統率九十七。戦術九十九。制度理解十五。
(……似ている)
似ているどころではない。あれは、あのゲームの武将画面そのものだ。
背筋が、少し寒くなった。二度目の人生で、俺はあの板を人事考課表だと思っていた。前の会社で毎年つくらされたやつだと。だが、もっと前に、俺は同じ形のものを何百時間も眺めていた。
(――俺の頭が、そういう形をしているだけかもしれん)
そう考えると、少し落ち着いた。同時に、警戒もした。
数字は、便利だ。便利すぎる。あのゲームでは、統率九十九の武将に兵を預ければ勝った。だが、ここは違う。
――ゲームの中の信長は、本能寺に向かって走っていた。そして俺は、その男を動かして天下を取った。
――今の俺は、その男の家臣で、しかも動かせない。
そこを間違えたら、死ぬ。
俺は、紙にこう書いた。
――知識の等級。
――一、確かなもの。年号と、大きな出来事。誰がいつ死ぬか。教科書の分。
――二、あやしいもの。人柄、逸話、言い回し。大河ドラマの分。半分は、脚本家が作った。
――三、当てにならぬもの。数字と、細かい配置。ゲームの分。地形は使える。数字は使えぬ。
書いてみて、自分で少し笑った。
これは、前の会社でよくやった作業だ。会議で誰かが数字を出してくる。そのとき最初にやるのは、その数字の出どころを聞くことだった。実測か、推計か、伝聞か。出どころによって、扱いが変わる。
それを、自分の記憶にやっている。
(――俺は、どこまでいっても、こういう男らしい)
一つ、はっきりしたことがある。
俺が知っているのは、「何が起きたか」だけだ。「なぜ起きたか」は、知らない。教科書にも、ドラマにも、ゲームにも、書いていなかった。
なぜ光秀が謀反を起こしたか。あのゲームには、その項目すらなかった。武将には忠誠という数字があって、それが下がると裏切る。それだけだ。
(――忠誠、か)
数字が下がる理由を、あのゲームは教えてくれなかった。
そして今、俺は、その数字が下がっていく側の人間として、ここに座っている。
問題は、俺の知識がどこまで細かいかだ。
試しに、思い出そうとしてみた。
本能寺。天正十年六月二日。明智光秀が信長を襲う。信長は寺で自害。同じ夜、嫡男の織田信忠も二条御所で死ぬ。
――そこだ。
筆先が、紙の上で止まった。
信忠も死ぬ。
前世で読んだどの本にも、それは一行だけ書いてあった。「信忠もまた討たれた」と。だが経営の目で見れば、その一行こそが致命傷だ。
創業者と、後継者。
同じ夜に、同じ町で、同時に失われた。
もし信忠が生きていれば、織田家は割れなかった可能性がある。跡目を巡って家臣が争うこともなく、天下は――
ぞわり、と腕の毛が立った。
(本能寺の変で崩れたのは、信長を失ったからじゃない)
トップと後継者を、同時に失ったからだ。
現代の言葉で言えば、これはキーマンリスクの最悪の形だ。社長と副社長が同じ飛行機に乗って墜落する。だからどこの会社も、役員は別便に分けて乗る。そんな初歩の初歩を、この国で最も進んだ組織がやっていない。
俺は紙に、大きく二文字を書いた。
――同乗。
その下に、線を引いた。
やるべきことが、ひとつ見えた。
信長を守るだけでは足りない。信忠を、育てて、離す。
難易度は、正直、絶望的だった。俺はただの家臣だ。他家の後継者教育に口を出す立場ではない。今の俺にできるのは、蔵の米を数えることくらいだ。
だが前の会社で、俺は学んでいた。
でかい改革は、でかいところから始めると必ず潰れる。役員会に三十七ページを持っていって死ぬのだ。
始めるなら、自分の手が届く場所からだ。
俺は紙をめくり、新しい一枚の右上に書いた。
――坂本城、棚卸し。
その隣に、小さく書き足した。
――〆切 天正十年六月二日。
六年。
紙の上に置いた指が、まだ少し震えていた。熱のせいか、それ以外かは分からなかった。
障子の向こうで、また咳が聞こえた。
俺のものではない。
顔を上げた。水音に混じって、それは二度、三度と続いた。
軽い咳だった。乾いていて、遠慮がちで、すぐに収まった。
だからこそ、俺はそれを聞き逃さなかった。
天正四年。
この年に、明智光秀の妻は死ぬ。




