第1話 両端を縛られた袋
明智光秀は、主君を殺した男である。
六年後に。
――つまり、まだ殺していない。
◇
これは、その六年で、俺がその主君の査定を見てしまう話だ。
意思決定速度 百
権限委譲 八
部下の可処分体力への配慮 一
――順に、話す。
◇
三日前、俺は死んだ。
二度目だった。
一度目は、会議室の隣の自席だった。
経営企画部。十七年目。役職は部長代理。この「代理」の二文字を、俺は十一年間外せなかった。
その夜、俺は三十七ページの資料を作っていた。タイトルは「意思決定プロセスの再設計に関する提言」。要するに、社長が全部を一人で決めるのをやめてください、という話だ。
三度突き返された。四度目に、社長はこう言った。
「仕組みで動く会社なんぞ、遅いんだよ」
反論は、頭の中に十二個あった。俺は一つも言わなかった。
代わりに五度目の資料を作り始めて、三十七ページ目を打ち終えたところで、胸の奥が妙な軋み方をした。
最後に思ったのは、家族のことでも、悔しさでもなかった。
(この資料、俺が死んだら誰も読まないな)
実に、俺らしい死に方だった。
◇
二度目は、寝床の上だった。
六十四歳。成都。
蜀漢皇帝・劉禅として、俺は六十四年生きた。
その六十四年で、俺がやったことは、たった一つだ。
――一人の男に、全部を背負わせないための仕組みを作った。
諸葛孔明という男がいた。天才だった。そして、俺が何もしなければ、五丈原で燃え尽きて死ぬはずの男だった。
俺は、あの人に休みを取らせた。
簡単なことではなかった。十年かかった。あの人は「臣が休めば、国が止まりまする」と本気で言う人だった。だから俺は、国が止まらない形を先に作った。誰が何を決めてよいかを紙に書き、決裁を分け、報告の様式を揃え、そして「できません」と言える場所を作った。
あの人は、六十を過ぎるまで生きた。
俺は、それでいいと思っている。
長安は取れなかった。天下も統一しなかった。
だが、俺が死んだ翌日も、朝議は予定どおり開かれたそうだ。
――そういう六十四年だった。
◇
六十四年、俺は人の記録を直してきた。
名のない者に、名を与えた。正しく呼ばれていない者の字を書いた。誤って書かれた男に、四つの字を渡した。
そして、自分のことは、一度も書かなかった。
だから最後に、震える手で一行だけ書いた。
――《まだ、書かれていない》
書き終えて、俺は目を閉じた。
六十四年分の、いい仕事だったと思う。
次に目を開けたとき、俺は板の間に寝ていた。
竹ではない、紙の匂いがした。
そして、女が一人、枕元にいた。
「殿。まだ、お休みください」
――殿。
陛下ではない。
俺は、そこで理解した。
(……また、か)
◇
女に、年号を聞いた。
天正四年、と返ってきた。
知らない年号だった。建安でも、建興でも、延熙でもない。
だが、俺は「天正」という響きを知っていた。一度目の人生で、教科書の隅に見た覚えがある。
そして、「殿」と呼ばれるこの体の名を、女が口にしたとき――
俺は、六年後に何が起きるかを思い出した。
明智日向守光秀。四十八歳。
丹波を攻めている途中で倒れ、三日、熱が下がらない。
妻の名は、煕子。
そして六年後、天正十年六月二日。この男は、京の本能寺を囲む。
俺は、そこで少し笑った。
喉が痛んだ。それでも笑った。
(――今度は、六年か)
六十四年あった前回ですら、十年かかった。
今度は、六年しかない。
◇
三日目の朝、俺は起き上がった。
止められた。熱は下がっていない。膝も笑っている。
それでも、俺は安土へ向かった。
理由は、一つだ。
六十四年で学んだことの中に、こういうものがある。
――新しい組織に入ったら、まず上を見に行け。
組織の形は、一番上にいる人間の形で決まる。その人が何を得意で、何を苦手で、何を我慢していて、何に気づいていないか。それが分からないうちに手を動かしても、全部空振りになる。
俺はそれを、蜀で三年無駄にして覚えた。
今度は、三年もない。
安土城の大広間は、広かった。
天井が高い。左右に、裃を着けた男たちが平伏している。
俺は、その中ほどで額を床につけていた。汗が板の間に落ちて、音を立てずに散った。
正面の上段に、男が一人。
黒の小袖。片膝を立てて座り、手をだらりと投げ出している。姿勢はまるで整っていない。それなのに、部屋の空気がその一点に吸い寄せられていた。
痩せている。中背。声は、意外なほど高い。
「日向守」
呼ばれた。
なぜか俺は、それが自分のことだと分かった。
「話の続きは」
俺の口が、勝手に動いた。
「……恐れながら、丹波の儀につきましては」
声が掠れた。そこで止まった。
止まったまま、俺は上段の男を見上げていた。
この顔を、俺は知っている。一度目の人生で、教科書で、大河ドラマで、札で、銅像で。
織田信長。
そして俺は、この男を六年後に殺す男だ。
◇
ピ、と。
視界の隅で、何かが光った。
半透明の板が、空中に浮かんでいた。
俺は、それを見て――
(ああ)
少しだけ、安堵した。
六十四年、俺はこの板と付き合ってきた。人事考課表。一度目の人生で毎年つくらされ、二度目の人生で毎日使った道具。
これが出るなら、やりようがある。
織田信長 四十三歳 織田家当主
【総評】創業者。余人をもって代え難い。
統率 97 │ 戦術 99
兵站財務 90 │ 政務実務 80
交渉外交 75 │ 人望 85
学習適応 95 │ 制度理解 15
◆特記事項
意思決定速度 100
権限委譲 8
感情コスト認識 4
部下の可処分体力への配慮 1
安堵は、三秒で消えた。
◇
統率九十七。戦術九十九。学習適応九十五。
化け物だ。孔明ですら、ここまでの数字は持っていなかった。
だが俺の目は、そこを素通りしていた。
制度理解、十五。
権限委譲、八。
部下の可処分体力への配慮、一。
俺は、その三行を三度読み返した。
そして、自分が何を見ているのかを理解した。
――これは、診断書だ。
この人は、自分の速さで全部を回している。回せてしまっている。だから仕組みが要らない。要らないと本気で思っている。
そして、部下がその速さについていけずに削れていることに、気づいていない。
(……前の会社の社長と、同じだ)
いや。
あの社長は、六十八だった。この人は、四十三だ。
あと二十年以上、この速度で走り続けるつもりでいる。
◇
俺は、そこで、もっと悪いことに気づいた。
六十四年前、俺は皇帝だった。
この板で誰かの数字を見て、まずいと思えば、俺が動かせた。配置を変え、役目を分け、休ませることができた。上にいたからだ。
今の俺は、家臣だ。
この板は見える。だが、動かせない。
見えるのに、動かせない。
(――これは)
俺は、平伏したまま、指先が冷たくなるのを感じていた。
(――前回より、きつい)
「日向守」
上段から、声が降ってきた。
顔を上げると、信長がこちらを見ていた。眠たげな目だった。だがその目は、俺の額の汗も、震える指も、掠れた声も、全部数え終わった後の目だった。
「顔色が悪いぞ」
……見えていたのか。
じゃあ、なぜ最後まで報告させた。
「熱か」
「……三日ほど、下がりませぬ」
「休め」
その言葉に、俺は一瞬、救われかけた。
この人は、部下を見ていないわけではないのだ。ちゃんと気づいていて、ちゃんと――
「三日でな」
……三日。
俺は、平伏したまま、頭の中で数えた。
熱が下がるのに三日。膝が戻るのに三日。丹波へ戻る道が二日。
(――足りぬ)
そして、気づいた。
(――この人は、日数を値切っている)
病人相手に、値切る人がいるとは思わなかった。
◇
三日で治る熱の話をしているのではない、とは思わなかったらしい。
いや。違う。
この人はきっと、三日で治せると思っている。自分がそうだから。
(――特記事項、部下の可処分体力への配慮。一)
この数字は、正しい。
驚くほど、正しい。
俺は、そこで一つ、確信した。
この人は、悪人ではない。
孔明も、そうだった。あの人も部下を潰した。悪意など一つもなく、ただ自分の基準で走って、ついてこられない者を置き去りにした。
だから、直せる。
六十四年前も、そうやって直した。
立ち上がろうとした。膝が抜けた。
誰かが俺の名を呼んだ。「殿!」という濁った大声だった。板の間が、ゆっくりと近づいてきた。
倒れる間際、俺の頭に流れ込んできたものがあった。
炎だった。
夜。京。寺。燃えている。
その炎の前に立っているのは――俺だ。
◇
目を覚ましたのは、湖の匂いのする部屋だった。
障子の向こうで水音がしている。波の音だ。海ではない。もっと穏やかで、閉じた水の音。
琵琶湖。ここは坂本。
枕元に、猪首の男が胡座をかいていた。太い眉。日に焼けた顔。俺が目を開けたのを見ると、その顔がわずかに歪んだ。安堵を隠しそこねた男の顔だった。
「殿。四日でござる」
「……四日」
「四日、寝ておられた。安土から運ばれて」
斎藤利三。
名前が、するりと出てきた。俺の家老だ。俺の――明智光秀の。
その隣に、もう一つ人影があった。
女だ。三日前、俺に「まだ、お休みください」と言った人。
俺の妻。名を、煕子という。
彼女は何も言わず、白湯の椀を差し出した。受け取ろうとした指先が触れたとき、俺は気づいた。
この人の手も、熱い。
煕子は微笑んで、手を引いた。そして小さく、咳をした。
◇
俺は、その音を知っていた。
乾いていて、短くて、二度で止まる咳。本人が「大したことはない」と言い、周りもそう信じる咳。
六十四年前、俺はこの咳を、五丈原へ発つ前の孔明から聞いた。
あのときは、間に合った。
十年かけて仕組みを作り、無理やり休ませ、寿命を延ばした。
だが、頭の中に、日付が浮かんだ。
天正四年。
明智光秀の妻・煕子は、この年に病没する。
――今年だ。
十年どころではない。
俺は、白湯の椀を持ったまま動けなかった。
利三が怪訝そうに眉を寄せた。
「殿。いかがなされた」
俺は答えなかった。答えられるはずがなかった。
◇
頭の中で、日付が二つ、重なって鳴っていた。
妻が死ぬまで、数月。
主君が死ぬまで、六年。
そして俺は、その両方の間に挟まれて寝ている。
(――袋だな)
俺は、ぼんやりとそう思った。
両端を縛られた袋。上からも下からも押されて、逃げ場がない。
前の会社で、俺はこれだった。社長と現場の間に立って、両方から押されて、最後は自分が破れた。
二度目の人生では、俺は上にいた。押す側だった。だから、押される側の苦しさを忘れていないつもりでいた。
三度目で、また袋に戻された。
だが。
俺は、天井を見上げたまま、こう考えていた。
(前の袋とは、一つだけ違う)
◇
一度目の俺は、何も知らなかった。
二度目の俺は、皇帝だった。誰も止められなかったから、六十四年かけて自分で全部やった。
今度の俺は、下にいる。
――下にいる者が、上を変える方法を、俺は六十四年で学んでしまった。
俺は、そこでようやく、本当に恐ろしいものが何かを理解した。
安土で見た、あの画面だ。
制度理解、十五。権限委譲、八。
あれは、一人の男の欠点ではない。
あれは、織田家という組織そのものの診断書だ。
意思決定は、たった一人に集中している。後継者は当主でありながら決裁権を持たない。古参は成果が落ちれば切られ、外様は面子を潰されて離れる。そして家臣たちは、限界を超えた命令を「限界です」と言えないまま処理し続けている。
――俺が、一度目の人生で見た光景そのままだ。
あの会社は、社長が倒れた翌年に崩れた。
なら、織田家は。
天下を統一する寸前まで来た組織が、その頂点にいる男を一夜で失ったら。
◇
(……本能寺は、俺の恨みで起きるんじゃない)
組織が限界に達して爆発する。その爆心地に、たまたま俺が立たされているだけだ。
だとすれば、俺が謀反を思いとどまったところで意味がない。俺が耐えれば、次は誰かが同じ場所に立つ。
止めるべきは、俺の心ではない。
「利三」
「は」
「紙と、筆を」
利三の眉が、露骨に寄った。
「殿。まだ起き上がるのは」
「頼む」
しばらく睨み合った後、利三はため息をついて立ち上がった。「……で、いつやりますので」と、なぜか実行を前提にした問い方をして。
◇
俺は天井を見上げた。
やることは、多い。
後継者に決裁を教える。古参に新しい役割を与える。外様の面子を守る。人を橋にするなら、制度で支える。そして――上司に、部下が壊れるということを教える。
どれ一つとして、一人でできることではない。
だが今の俺には、二つ、持っているものがある。
一つは、締切だ。天正十年、六月二日。
もう一つは、六十四年分の失敗の記憶だ。
紙が来た。
俺は、三日前に書いた一行を思い出した。
――《まだ、書かれていない》
あれは、俺自身のことだった。
今度は、違うものを書く。
◇
差し出された紙の一枚目に、俺は最初の一行を書いた。
――織田家、現状分析。
手が震えて、字が歪んだ。
三日前に書いたときと、同じくらい下手だった。
障子の向こうで、煕子がまた、小さく咳をした。
俺は、筆を止めた。
そして、書きかけの一行を、線で消した。
代わりに、こう書いた。
――一、妻を死なせない。
――――――――――
【あとがき】
この物語は、謀反人が主君を説得する話ではありません。
信長がいなくても動く織田家を作る話です。
光秀に残された時間は、六年。
次回、第2話「棚卸しから始める」。まず、家の中身を数えるところから始めます。




