第88話 三七郎の舟
天正十二年、二月。
俺は、伊勢にいた。織田信孝に会うためだ。
信孝は、二十六になっていた。六年前の御馬揃えで見たときより、体が厚くなっている。そして、目つきが変わった。
「日向守どの。よう参られた」
声も、落ち着いていた。
板が、浮かんだ。
織田信孝 二十六歳
統率72│戦術75│政務実務65
交渉外交60│人望65│制度理解50
◆特記事項
面目への敏感さ 92
序列意識 88
忍耐 45
(上がっている)
六年前の忍耐は、二十五だった。倍近い。面目への敏感さは、変わっていない。この人は、面目を捨てたのではない。面目のために、待つことを覚えた。
「三七郎様。舟のこと、伺っております」
信孝は、少し笑った。
「日向守どののお言葉ゆえにござる。『誰もやっておらぬことで、なくてはならぬものを探せ』と」
俺は、覚えていた。六年前、信孝への返事に書いた。
「それで、舟を」
「さよう。織田家には、舟がござらぬ。正しくは、まとまった舟がござらぬ」
信孝は、地図を広げた。
「日向守どの。織田家は、陸では強うござる。ですが、海では、毛利に劣り申す」
(その通りだ)
毛利水軍。村上水軍。瀬戸内の海は、毛利のものだ。
「六年、集め申した。――三百を、超え申した」
俺は、目を見開いた。
「三百」
「ただし、大船は少のうござる」
「三七郎様。舟を集めるには、費えがかかりましょう」
「かかり申す」
「どうやって」
「――買うており申さぬ」
俺は、顔を上げた。
「伊勢の海の者と、話をつけ申した。あの者どもは、舟を持っており申す。漁の舟、荷の舟。――それを、いざというときに出させる」
俺は、唸った。
(動員だ)
所有せず、動員する。費用が、桁違いに安い。
「三七郎様。海の者は、承知したのでございますか」
「しており申す。代わりに、こちらは海賊を追い払っており申す。あの者どもは、海賊に困っており申した。それを、こちらが片付けた。――ゆえに、舟を出す」
俺は、深く感心した。
(良い仕組みだ)
一方的な徴発ではない。交換だ。安全を提供し、対価として動員力を得る。取り上げないから、続く。
翌日、信孝は俺を湊へ連れて行った。
舟は、なかった。
いや、あった。漁に出ている舟が、沖に点々と浮かんでいる。荷を積んだ舟が、湊を出入りしている。どれも、長宗我部の舟でも、織田の舟でもない。伊勢の海の者の舟だ。
「日向守どの。あれが、三百のうちの、今日の分にござる」
俺は、しばらく沖を見ていた。
(見えない)
三百艘は、どこにも並んでいない。並べれば、毛利に見える。並べなければ、漁師の舟だ。いざというときにだけ、集まる。集まるまでは、この海で飯を食っている。
「三七郎様。これは、帳面がなければ、数えられませぬな」
「ござる」
信孝は、懐から書付を出した。湊ごとに、舟の数と、持ち主の名と、いつ話をつけたかが書いてある。俺の荷の覚と、同じ様式だった。三沢の書付が、いつのまにか、伊勢の海まで来ている。
「三七郎様。これは、お一人でお考えになりましたか」
「さよう。――いや」
目を伏せた。
「日向守どのの、書付を読み申した。丹波の御仕置きの覚にござる。上様より、写しを頂き申した。あれに、こう書いてござった。『降った村の道を直せば、隣の村が見ておる』と。――それを、海でやり申した。海賊を追い払えば、海の者が見ておる。そして、次の湊が、話に乗り申す」
俺は、しばらく黙っていた。そして、平伏した。
「三七郎様。お見事にございます」
「やめられよ。日向守どのの受け売りにござる」
「受け売りではございませぬ。それがしは、村の道を直しました。三七郎様は、海賊を追い払われました。――同じではございませぬ」
書いたのは俺だ。だが、海に持ち込むには、海を知っていなければならない。俺は、海を知らない。この人は、六年、伊勢の湊を回った。それは、丹波の覚には書いていない。
信孝は、しばらく黙っていた。
「日向守どの。一つ、伺ってよろしいか。――四国のことにござる」
(来た)
「伺っております」
「それがしが、任されるとか」
「そう伺っております」
「日向守どのは、それを喜んでおられぬな」
俺は、平伏した。
「申し訳ございませぬ」
「謝られることではござらぬ。日向守どのは、長宗我部の取次にござろう。――そして、上様の御意を曲げられたことも、存じており申す」
「どこで、お聞きになりました」
「堺にござる。舟のことで、よう行き申すゆえ」
(やはり、堺だ)
「日向守どの。それがしは、四国を取り申す。上様の御意にござれば。――だが、取り方は、こちらで決めさせていただきたい。長宗我部を、滅ぼしとうござらぬ」
俺は、動けなかった。
「三七郎様。それは」
「日向守どの。それがしは、伊勢を継ぎ申した。神戸の家を継ぎ、伊勢の者どもを使うており申す。伊勢の者は、それがしを『織田から来た者』と見ており申した」
「今は、いかがでございますか」
「少しは、変わり申した。――六年、かかり申した。そして、その六年で、分かり申した。――滅ぼした土地は、治まらぬ」
俺は、深く頷いた。服属と統合は違う。俺が紙に書いたことを、この人は、六年の身で知った。
「日向守どの。それがしは、四国を取り申す。だが、長宗我部を残す」
「上様は、お認めになりましょうか」
「分かり申さぬ。――ゆえに、日向守どのにお願いがござる。取次を、続けていただきたい」
俺は、動きを止めた。
「三七郎様。それがしは」
「存じており申す。上様は、日向守どのと長宗我部が近すぎることを、案じておられる。ゆえに、それがしに任されたのでござろう。――だが、それがしは、長宗我部を知り申さぬ。知らぬ者と、話はできぬ。日向守どの。取次を、引き継がせていただきたい」
(引き継ぎ)
俺が、五条目に書いたことだ。
「三七郎様。『取次の筋目、改定之覚』を、ご存じでございますか」
「知り申さぬ」
俺は、書付を出した。信孝は、読んだ。五条目のところで、顔を上げた。
「日向守どの。これは」
「先月、朱印を頂きました」
「――ならば、話が早い」
◇
その日から三日、信孝と話した。元親のこと。四国の情勢。讃岐と伊予の国衆のこと。俺の持っている書付を、全部、写させた。上様に出した分。元親に渡した分。元親が書いた三箇条。
「三七郎様。宮内少輔どのは、こう申しておられました。『こちらに従うた国衆の所領を、安堵していただきたい』と」
信孝は、その書付を読んだ。
「――これは、呑めると存ずる」
「まことでございますか」
「まことにござる。むしろ、こちらの助けになり申す。国衆を残せば、こちらは治めやすうござる。新たに人を置けば、六年かかり申す。――それがしが、伊勢でかかった年数にござる」
俺は、深く頷いた。
(経験だ)
この人は、自分が苦労した六年から、そう判断している。誰かに教わったのではない。
「三七郎様。取次、引き継がせていただきます。――ただし、一つだけ、お願いがございます。宮内少輔どのに、一度、お会いくださいませ」
「戦の前にでござるか」
「はい。上様が、それがしに仰せられました。――『顔を見ぬ相手と、約束をするな』と」
信孝は、しばらく黙っていた。それから、地図の上の土佐を、指で押さえた。
「――舟なら、ござる」




