第87話 取次の筋目
天正十一年、十二月。
十日ほど寝込み、起き上がった。
利三が、監視するようになった。
「殿。今日は、書付は三枚まで」
「何を言っている」
「お方様の申しつけにござる」
俺は、額を押さえた。
「利三。おぬし、どちらの家臣だ」
「お方様にござる」
平然と言った。
◇
寝ている間に、考えていた。
(取次の仕組みだ)
長宗我部の件で、俺は思い知った。取次役は、方針が変わった瞬間、嘘つきになる。
(これは、俺だけの問題ではない)
俺は、書き出した。織田家で、取次をしている者。
明智日向守――長宗我部。羽柴筑前守――毛利。滝川左近将監――関東の諸家。丹羽五郎左衛門――若狭、丹後の国衆。柴田修理亮――北陸の諸家。
(全員だ)
背筋が冷えた。方面軍の長は、全員が取次役だ。そして、全員が、同じ危うさを抱えている。主君が方針を変えれば、嘘つきになる。
(嘘つきになった者は、どうなる)
元親の話を思い出した。阿波の取次役は、国衆の側についた。そして、死んだ。
(離反だ)
その二文字を書き、その下に書いた。
――離反は、忠義の欠如ではない。信用を失った者が、居場所を求めた結果である。
二行を、長いこと見ていた。
(波多野秀治も、そうだったのか)
波多野は、丹波の国衆をまとめる立場にいた。丹波における、織田の取次役のようなものだ。そして、俺が説明しなかった。家中に説明できなくなった。
(荒木村重も)
村重は、摂津の国衆をまとめていた。同じ立場だ。そして、疑われた。説明する材料が、なかった。
俺が「裏切り」として書付に書いてきた三つの名前が、同じ一つの形に並んだ。
◇
筆を取り、書き始めた。
――取次の筋目、改定之覚。
五つにした。
――一、取次を務むる者を、書き記すこと。
誰が、どこの取次かを、明文化する。今は、なんとなく決まっている。俺が長宗我部の取次なのも、利三の縁からだ。なんとなく、が危ない。
――二、取次を通じて伝えたることは、必ず紙に残すこと。写しを三つ作り、一つを上様に、一つを相手方に、一つを取次が持つこと。
この条を書きながら、官兵衛の言葉を思い出していた。他家に、写しを置かれることにござる、と。分散だ。
――三、方針を変ゆる場合、まず取次に告げること。
これが、核心だ。書き足した。
――取次が相手方より先に知らざれば、取次の信は死す。信を失いたる取次は、もはや取次の用をなさず。
――四、方針を変ゆる場合、その理由を取次に示すこと。
この条で、手が止まった。
(これは、通らぬかもしれぬ)
主君が、家臣に理由を説明する。この時代の常識では、ありえない。だが、理由がなければ、取次は相手に説明できない。説明できない取次は、相手から「お前は何も知らされていない」と見られる。それは、信を失うのと同じだ。
――五、取次を替ゆる場合、前の取次より次の取次へ、書付を引き継ぐこと。
人が変われば、関係が切れる。それを防ぐには、書付を渡すしかない。
五箇条を書き終えて、しばらく見ていた。
(足りない)
何かが、抜けている。三日、考えた。
(取次が、断れるようにせねばならぬ)
六条目を書いた。
――六、取次は、伝ゆることを断ることができる。ただし、断りたる理由を書き記し、上様に出すこと。
書きながら、震えた。
(これは、危険だ)
家臣が、主君の命令を断る権利を持つ。統制の否定に見える。
だが、俺は実際にやった。「来年までは兵を進めてよい」を、俺は伝えなかった。そして、上様は許した。許したなら、条文にできる。俺一人が許されたのなら、それはただの気まぐれだ。誰でも許されるなら、それは決まりだ。
◇
書付をまとめ、安土へ持って行った。
信長は、読んだ。四条目で、指が止まった。
「日向守。これは、わしに理由を言えと申すか」
「さようにございます」
長い沈黙。
「日向守。おぬし、増長しておるぞ」
「申し訳ございませぬ」
「――だが、理屈は、通っておる」
俺は、顔を上げた。
「日向守。わしが四国の方針を変えたとき、おぬしに理由を申したな。三つ、申した。――なぜ、申したと思う」
答えられなかった。
「――おぬしが、聞いたゆえだ」
俺は、動きを止めた。
(そうだ)
俺は「理由をお聞かせ願えませぬか」と聞いた。そして、この人は答えた。聞かなければ、答えなかった。
「上様。なにゆえ、聞かねば申されぬのでございましょうか」
「――面倒だからだ」
俺は、笑いそうになった。
「それだけでございますか」
「それだけだ。一日に百決める。全部に理由を申しておれば、日が暮れる」
「仰せの通りにございます。――ゆえに、重き裁可のみで結構にございます」
「重き、とは」
「取次を通す裁可にございます。取次を通す裁可は、外の家に関わりまする。外の家は、上様のお心を知りませぬ。――ゆえに、理由が要りまする」
信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。おぬし、この六条目だが」
(来た)
「これは、認められぬ。皆が断るようになる」
「断りませぬ」
「なぜ言える」
「理由を書かねばならぬゆえにございます。上様。人は、面倒なことは避けまする。断るには、理由を書かねばならぬ。書けば、上様に読まれる。――ならば、大抵の者は、断りませぬ。そして、それでも断る者は、よほどの理由があるということにございます」
信長は、書付を見ていた。長いこと、見ていた。
「日向守。おぬし、わしを操ろうとしておるな」
俺は、額を畳につけた。
(ばれている)
当然だ。
「申し訳ございませぬ」
「認めるか」
「認めまする」
長い沈黙のあとで、この人は言った。
「顔を上げよ。――日向守。おぬしが操ろうとするのは、構わぬ。なぜなら、下手だからだ。操ろうとしておることを、隠しておらぬ。隠さぬ者は、大したことはできぬ」
俺は、少し笑った。
「仰せの通りにございます」
「――だが。上手い者もおる」
俺は、顔を上げた。
(誰だ)
信長は、それ以上言わなかった。播磨の方角を見たわけでもない。だが、俺には、その名が聞こえた気がした。
「六条目は、認めぬ。代わりに、こうする」
筆を取り、六条目に線を引いた。横に、書いた。
――取次は、伝ゆることに異を申すことができる。異を申したる後、なお命ぜられたるときは、伝えること。
(変えられた)
「断ることができる」ではない。「異を申すことができる」だ。そして、それでも命じられたら、従う。
「上様。ありがたく存じます」
「おぬしの案より、弱いぞ」
「弱うございます。――ですが、通りまする。六条目のままなら、諸将は使いませぬ。『断る』は、重うございますゆえ。――ですが、『異を申す』ならば、使えまする」
信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。おぬし、これを狙っておったな」
俺は、平伏し、答えなかった。
六条目は、最初から、削られるために書いた。削られた跡に、この人自身の筆で「異を申す」が残る。上様が書いた条文は、上様が守る。俺が書いた条文より、はるかに強い。
信長は、少し笑ったようだった。
「――やはり、下手ではないかもしれぬ」
◇
その日、『取次の筋目、改定之覚』は、朱印を得た。
舟の上で、利三が言った。
「殿。通り申したな」
「通った」
俺は、書付を見ていた。
(だが、遅い)
波多野には、間に合わなかった。村重にも、間に合わなかった。長宗我部には――間に合ったか。まだ、分からなかった。
「利三。これは、いつから使える」
「すぐにでも」
「では、最初に使う」
「どこにでございます」
「――四国だ」




