第86話 志に仕える者
帰りの舟の上で、俺は一言も喋らなかった。
「殿。お加減が」
「大事ない」
「そうは見え申さぬ」
俺は、海を見ていた。
(志に仕える者は、主を殺すことがある)
元親の言葉が、頭から離れなかった。
(否定できるか)
俺は、上様に仕えている。だが、俺が守ろうとしているのは、上様本人ではない。織田家という組織だ。いや、もっと言えば――
その先を考えて、寒気を覚えた。
(戦が終わること、だ)
もし、上様が戦を終わらせない方向へ進んだら。もし、上様が織田家を割る方向へ動いたら。
(俺は、どうする)
俺は、その問いから逃げた。そんなことは起きない、と思おうとした。
だが、起きるかもしれない。
俺は、目を閉じた。舟が揺れるたびに、史実の光秀が亀山城で何を考えていたのかを、初めて、自分のこととして考えそうになった。
◇
堺に着いたのは、十一月だった。
宗易のもとを訪ねた。約束していたからだ。
茶室は、前と同じだった。二畳台目。宗易は、無言で茶を点てた。俺は飲み、しばらく黙っていた。
「日向守様。四国の値は、いかがになりましたか」
「下がりました」
「さようでございますか。――どなたの値が、でございましょう」
俺は、少し驚いた。
(誰の値、か)
「それがしの値かと存じます。四年、伝えて参ったことを、覆しましたゆえ。伝えた者の言葉は、もう信じられませぬ」
宗易は、茶碗を置いた。
「日向守様。それは、逆にございます。――日向守様の値は、上がっております」
「なにゆえでございましょうか」
「堺にも、話が届いております」
(速い)
土佐から戻って、まだ数日だ。
「何が、届いておりますか」
「日向守様が、上様の御意を曲げられたと。――そして、その責を紙に書いて、長宗我部様に渡されたと」
俺は、息を呑んだ。
(誰が、漏らした)
あの場にいたのは、俺と、利三と、元親だけだ。元親どのか。いや、違う。
(書付だ)
写しを、安土にも出している。元親にも渡した。どちらからでも、漏れる。
いや。
(漏れるように、作った)
記録は、残るために作る。残れば、いつか読まれる。俺が元親に言ったことが、俺に返ってきた。
「宗易どの。それは、それがしの値を上げますか」
「上げます。商人は、こう考えまする。『この方は、己の首を賭けて、約束を守ろうとされる』と」
「ですが、約束は守られておりませぬ。四国は、取り上げられます」
「さようでございましょう。――ですが、日向守様は、守ろうとされた。商いにおいては、結果と、姿勢は、別に測りまする。結果は、時の運にございます。――ですが、姿勢は、その方のものにございます」
俺は、腹の底で受けた。
(そうか)
俺は、ずっと結果を気にしていた。守れたか、守れなかったか。だが、見ている人は、どう振る舞ったかを見ている。約束の帳面に書かれるのは、結果の欄だけではないのだ。
「宗易どの。一つ、伺ってもよろしゅうございますか。――上様の値は、いかがでございますか」
「申せませぬ」
俺は、少し笑った。
「やはり」
「ですが、一つだけ」
茶碗を置いた。
「――堺は、備えを増やしております」
俺は、身を固くした。
「備え、と」
「何かが起きたときの備えにございます」
「何が、起きると」
「分かりませぬ。ですが、商人は、匂いを嗅ぎまする。――近ごろ、匂いがいたします」
「どのような」
「――張り詰めております。織田様の家中が」
「なにゆえ、そうお思いでございますか」
「買い物にございます。近ごろ、織田様のご家中が、堺で買われるものが変わっております。――茶器が、減っております」
「代わりに、何が」
「――薬にございます。金創の薬。腹の薬。眠りの薬。特に、眠りの薬が、よう売れます」
背筋が、冷えた。
(眠れていない)
織田家の家臣たちが、眠れなくなっている。疲れているのではない。張り詰めているのだ。
前世の会社で、同じことがあった。社長の決裁が速くなるほど、部長たちの机に胃薬が増えた。誰も、口には出さなかった。買い物だけが、正直だった。
「宗易どの。それは、いつ頃からでございますか」
「二年ほど前からでございましょうか」
(二年)
御馬揃えの、少し前だ。俺が丹波を片付け、荷を速くし、方面軍を繋いだ、その頃だ。
「日向守様。一つ、申し上げてよろしゅうございますか。――日向守様も、お求めになったほうがよろしゅうございます」
俺は、少し笑った。
「それがしは、眠れております」
「さようでございますか。――失礼ながら、お顔の色が」
俺は、自分の顔に触れた。
「日向守様。人は、己の疲れが分かりませぬ。他人のほうが、よう見えます。ゆえに、聞くのがよろしゅうございます」
「誰に、でございましょうか」
「――毎日、お顔を見る方に」
◇
その日、堺を出て、坂本へ戻った。
城に着いたのは、夜だった。煕子が、門で待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻った」
馬から降りた。そして――
(足が)
膝が、抜けた。
「あなた様ッ」
煕子が、駆け寄った。俺は、支えられた。
「大事ない」
「大事ないはずがございませぬ」
声が、鋭かった。この人が、こんな声を出すのは、珍しい。
その夜、床に伏せた。熱はなかった。だが、体が動かなかった。
薬師が呼ばれた。脈を取って、言った。
「日向守様。これは――疲れにございます」
俺は、少し笑った。
「それだけでございますか」
「それだけにございます。――ですが、七年前も、それだけにございました」
俺は、動きを止めた。
(七年前)
安土で倒れた、あの日。あのときも、この人は同じことを言った。疲れが呼び申す、と。
「先生。それがしは、また倒れましょうか」
「倒れられます」
「いつでございましょう」
「分かり申さぬ。ただ、一つだけ申せます。――前より、近うございます」
◇
その夜。煕子が、枕元に座った。
「あなた様。お尋ねしたきことがございます。――あと、何年でございますか」
俺は、しばらく答えられなかった。
「何の話だ」
「お分かりでございましょう。――あなた様が、走っておられる期限にございます」
俺は、天井を見た。
「分からぬ。前は、分かっていた。だが、今は分からぬ」
煕子は、しばらく黙っていた。
「あなた様。期限が分からぬのに、走り続けられるのですか。――それは、終わりのない走りでございます」
俺は、目を閉じた。
(そうだ)
六年前、俺には期限があった。天正十年六月二日。だが、それは崩れた。暦がずれ、形だけが残った。
(今、俺は何を目指している)
「煕子。止まったほうがよいか」
「止まれとは、申しませぬ。――ですが」
俺の手に、触れた。
「終わりを、決めてくださいませ。『ここまでやったら、終わり』と」
(佐久間様の言葉だ)
見極められぬゆえ、先に線を引いておく。俺は、家中に線を引かせ、玉に線を引かせ、自分には引いていない。
しばらく、天井を見ていた。
「煕子。線を引く。――上様と中将様が、別々に動く仕組みができたら。そこで、一度、止まる」
煕子は、頷いた。そして、その夜、俺の枕元に、一冊の帳面を置いていった。
開くと、最初の頁に、俺の顔色が、日付ごとに書いてあった。堺から戻った日の欄には、こうあった。
――白い。馬から降りられぬ。




