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天才創業者・織田信長の下で潰れる前に、本能寺が起きない組織を作ります~MBAホルダー明智光秀の事業承継計画  作者: 東雲 諒杏
第九章 取次の筋目

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第86話 志に仕える者


 帰りの舟の上で、俺は一言も喋らなかった。

「殿。お加減が」

「大事ない」

「そうは見え申さぬ」

 俺は、海を見ていた。

 (志に仕える者は、主を殺すことがある)

 元親の言葉が、頭から離れなかった。

 (否定できるか)

 俺は、上様に仕えている。だが、俺が守ろうとしているのは、上様本人ではない。織田家という組織だ。いや、もっと言えば――

 その先を考えて、寒気を覚えた。

 (戦が終わること、だ)

 もし、上様が戦を終わらせない方向へ進んだら。もし、上様が織田家を割る方向へ動いたら。

 (俺は、どうする)

 俺は、その問いから逃げた。そんなことは起きない、と思おうとした。

 だが、起きるかもしれない。

 俺は、目を閉じた。舟が揺れるたびに、史実の光秀が亀山城で何を考えていたのかを、初めて、自分のこととして考えそうになった。


    ◇


 堺に着いたのは、十一月だった。

 宗易のもとを訪ねた。約束していたからだ。

 茶室は、前と同じだった。二畳台目。宗易は、無言で茶を点てた。俺は飲み、しばらく黙っていた。

「日向守様。四国の値は、いかがになりましたか」

「下がりました」

「さようでございますか。――どなたの値が、でございましょう」

 俺は、少し驚いた。

 (誰の値、か)

「それがしの値かと存じます。四年、伝えて参ったことを、覆しましたゆえ。伝えた者の言葉は、もう信じられませぬ」

 宗易は、茶碗を置いた。

「日向守様。それは、逆にございます。――日向守様の値は、上がっております」

「なにゆえでございましょうか」

「堺にも、話が届いております」

 (速い)

 土佐から戻って、まだ数日だ。

「何が、届いておりますか」

「日向守様が、上様の御意を曲げられたと。――そして、その責を紙に書いて、長宗我部様に渡されたと」

 俺は、息を呑んだ。

 (誰が、漏らした)

 あの場にいたのは、俺と、利三と、元親だけだ。元親どのか。いや、違う。

 (書付だ)

 写しを、安土にも出している。元親にも渡した。どちらからでも、漏れる。

 いや。

 (漏れるように、作った)

 記録は、残るために作る。残れば、いつか読まれる。俺が元親に言ったことが、俺に返ってきた。

「宗易どの。それは、それがしの値を上げますか」

「上げます。商人は、こう考えまする。『この方は、己の首を賭けて、約束を守ろうとされる』と」

「ですが、約束は守られておりませぬ。四国は、取り上げられます」

「さようでございましょう。――ですが、日向守様は、守ろうとされた。商いにおいては、結果と、姿勢は、別に測りまする。結果は、時の運にございます。――ですが、姿勢は、その方のものにございます」

 俺は、腹の底で受けた。

 (そうか)

 俺は、ずっと結果を気にしていた。守れたか、守れなかったか。だが、見ている人は、どう振る舞ったかを見ている。約束の帳面に書かれるのは、結果の欄だけではないのだ。

「宗易どの。一つ、伺ってもよろしゅうございますか。――上様の値は、いかがでございますか」

「申せませぬ」

 俺は、少し笑った。

「やはり」

「ですが、一つだけ」

 茶碗を置いた。

「――堺は、備えを増やしております」

 俺は、身を固くした。

「備え、と」

「何かが起きたときの備えにございます」

「何が、起きると」

「分かりませぬ。ですが、商人は、匂いを嗅ぎまする。――近ごろ、匂いがいたします」

「どのような」

「――張り詰めております。織田様の家中が」

「なにゆえ、そうお思いでございますか」

「買い物にございます。近ごろ、織田様のご家中が、堺で買われるものが変わっております。――茶器が、減っております」

「代わりに、何が」

「――薬にございます。金創の薬。腹の薬。眠りの薬。特に、眠りの薬が、よう売れます」

 背筋が、冷えた。

 (眠れていない)

 織田家の家臣たちが、眠れなくなっている。疲れているのではない。張り詰めているのだ。

 前世の会社で、同じことがあった。社長の決裁が速くなるほど、部長たちの机に胃薬が増えた。誰も、口には出さなかった。買い物だけが、正直だった。

「宗易どの。それは、いつ頃からでございますか」

「二年ほど前からでございましょうか」

 (二年)

 御馬揃えの、少し前だ。俺が丹波を片付け、荷を速くし、方面軍を繋いだ、その頃だ。

「日向守様。一つ、申し上げてよろしゅうございますか。――日向守様も、お求めになったほうがよろしゅうございます」

 俺は、少し笑った。

「それがしは、眠れております」

「さようでございますか。――失礼ながら、お顔の色が」

 俺は、自分の顔に触れた。

「日向守様。人は、己の疲れが分かりませぬ。他人のほうが、よう見えます。ゆえに、聞くのがよろしゅうございます」

「誰に、でございましょうか」

「――毎日、お顔を見る方に」


    ◇


 その日、堺を出て、坂本へ戻った。

 城に着いたのは、夜だった。煕子が、門で待っていた。

「お帰りなさいませ」

「ただいま戻った」

 馬から降りた。そして――

 (足が)

 膝が、抜けた。

「あなた様ッ」

 煕子が、駆け寄った。俺は、支えられた。

「大事ない」

「大事ないはずがございませぬ」

 声が、鋭かった。この人が、こんな声を出すのは、珍しい。

 その夜、床に伏せた。熱はなかった。だが、体が動かなかった。

 薬師が呼ばれた。脈を取って、言った。

「日向守様。これは――疲れにございます」

 俺は、少し笑った。

「それだけでございますか」

「それだけにございます。――ですが、七年前も、それだけにございました」

 俺は、動きを止めた。

 (七年前)

 安土で倒れた、あの日。あのときも、この人は同じことを言った。疲れが呼び申す、と。

「先生。それがしは、また倒れましょうか」

「倒れられます」

「いつでございましょう」

「分かり申さぬ。ただ、一つだけ申せます。――前より、近うございます」


    ◇


 その夜。煕子が、枕元に座った。

「あなた様。お尋ねしたきことがございます。――あと、何年でございますか」

 俺は、しばらく答えられなかった。

「何の話だ」

「お分かりでございましょう。――あなた様が、走っておられる期限にございます」

 俺は、天井を見た。

「分からぬ。前は、分かっていた。だが、今は分からぬ」

 煕子は、しばらく黙っていた。

「あなた様。期限が分からぬのに、走り続けられるのですか。――それは、終わりのない走りでございます」

 俺は、目を閉じた。

 (そうだ)

 六年前、俺には期限があった。天正十年六月二日。だが、それは崩れた。暦がずれ、形だけが残った。

 (今、俺は何を目指している)

「煕子。止まったほうがよいか」

「止まれとは、申しませぬ。――ですが」

 俺の手に、触れた。

「終わりを、決めてくださいませ。『ここまでやったら、終わり』と」

 (佐久間様の言葉だ)

 見極められぬゆえ、先に線を引いておく。俺は、家中に線を引かせ、玉に線を引かせ、自分には引いていない。

 しばらく、天井を見ていた。

「煕子。線を引く。――上様と中将様が、別々に動く仕組みができたら。そこで、一度、止まる」

 煕子は、頷いた。そして、その夜、俺の枕元に、一冊の帳面を置いていった。

 開くと、最初の頁に、俺の顔色が、日付ごとに書いてあった。堺から戻った日の欄には、こうあった。

 ――白い。馬から降りられぬ。


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