第85話 悪しき知らせ
天正十一年、十月。
再び、土佐へ渡った。
今度は、供を減らした。利三と、数人だけだ。
利三は、出発前から険しい顔をしていた。
「殿。それがしも参りまする」
「来なくてよい」
「参りまする」
譲らなかった。
「利三。おぬしは、石谷の縁がある。今回の話は、その縁を壊す」
利三は、しばらく黙っていた。
「――ゆえに、参りまする」
◇
舟の上で、利三が言った。
「殿。もし斬られたら、いかがなさる」
「斬られる」
「それだけにござるか」
俺は、少し笑った。
「他に、どうしようもない。――利三。俺が斬られたら、坂本を頼む」
「お断り申す」
「なぜだ」
「殿が斬られたら、それがしも斬られておりましょう」
俺は、思わず笑った。
「それもそうだ」
海は、荒れていた。舟が揺れるたびに、懐の書付を押さえた。上様に出した写し、元親に渡す写し、俺が持つ写し。三つ作った。三つ目が、俺の首だ。
◇
岡豊城に着いたのは、十月の半ばだった。
元親は、すぐに会ってくれた。俺の顔を見て、言った。
「――悪しき知らせにござるな」
「さようにございます」
元親は、しばらく黙っていた。
「人払いを」
家臣が下がった。俺と、利三と、元親だけが残った。
「申されよ」
俺は、書付を出し、そのまま読み上げた。
「上様の御意にございます。『四国は与えぬ。土佐と、阿波の南のみとする』」
部屋が、静まり返った。
元親は、動かなかった。顔色も、変わらなかった。だが、膝の上の手が、白くなっていた。
「そして、それがしからのお願いがございます。『これ以上、兵を進めるな』と」
「日向守どの。上様は、そう仰せられたか」
「違いまする」
眉が、動いた。
「上様は、『来年までは兵を進めてよい』と仰せられました。――それを、それがしが変えました」
空気が、変わった。
「なにゆえ」
「取り上げると決まっておる土地のために、兵を死なせとうございませぬゆえ」
長い沈黙。
「日向守どの。貴殿は、上様の御意を曲げられたか」
「曲げました」
「咎められぬのか」
「許されました。――ただし、紙に書けと仰せられました」
俺は、もう一枚の書付を出した。伝える内容が、全部書いてある。末尾に、こうある。
――右、明智日向守が長宗我部宮内少輔に伝えし内容なり。上様の御意と異なるところあり。その責は、明智日向守にあり。
元親は、受け取り、読んだ。長いこと、読んでいた。
「日向守どの。これは、貴殿の首にござるな」
「さようにございます」
「なにゆえ、これをそれがしに渡される」
「お怒りを、それがしに向けていただきとうございます。上様をお恨みになれば、戦になりまする。――それがしをお恨みになれば、それがし一人で済みまする」
元親は、動きを止めた。
「日向守どの。貴殿は、それがしを見くびっておられるか」
俺は、動きを止めた。
「それがしが、貴殿一人を恨んで済ませると、お思いか」
声が、低くなっていた。
「四年にござる。四年、こちらは兵を出し、人を死なせ申した。その全部が、無駄になり申す。――それを、貴殿一人の首で済ませと」
書付を、叩いた。
「――安すぎ申す」
俺は、額を畳につけたまま、動けなかった。
(その通りだ)
俺の首では、足りない。四年分の兵の命に、俺の首一つは釣り合わない。俺は、自分の首を高く見積もりすぎていた。
「顔を上げられよ」
顔を上げた。
「日向守どの。それがしは、貴殿を恨んでおり申さぬ」
「なにゆえ、でございましょうか」
「貴殿が、来られたゆえにござる。使者でも良かった。文でも良かった。――だが、貴殿は来られた。そして、上様の御意を曲げて、こちらの兵を惜しまれた。その責を、紙に書いて、こちらに渡された。――これは、恨む相手のすることではござらぬ」
俺は、しばらく黙っていた。
「宮内少輔様。いかがなさいますか」
「――分かり申さぬ。従うか、戦うか。今は、決められ申さぬ。ただ、一つだけ申せることがござる。――兵は、止め申す」
俺は、深く平伏した。
「ありがたく存じます」
「礼を申されるな。これは、こちらのためにござる。取り上げられる土地のために、これ以上人を死なせとうござらぬ」
俺は、顔を上げた。
「宮内少輔様。一つ、お願いがございます」
新しい書付を出した。白紙だ。
「これに、宮内少輔様のお言葉を書いていただきとうございます。四国について、宮内少輔様が何をお望みか。――そして、何ならば呑めるか」
「それを、上様に見せられるか」
「見せまする」
「意味があると」
「分かりませぬ。上様が、お読みになるかどうかも分かりませぬ。――ですが、書いておけば、残りまする。残っておれば、いつか誰かが読みまする」
「日向守どの。貴殿は、紙を信じておられるな」
「信じております」
「なにゆえ」
「――人は、死にますゆえ。それがしは、いずれ死にまする。上様も、宮内少輔様も。ですが、紙は残りまする。残っておれば、次の者が読めまする」
元親は、長いこと黙っていた。そして、筆を取った。
「書き申そう」
三つ、書いた。
――一、土佐は、長宗我部が治める。これは譲れぬ。
――二、阿波の南は、土佐の食を支える地なり。これも譲れぬ。
――三、讃岐と伊予については、話し合いに応ずる。
「宮内少輔様。三つ目は」
「譲り申す。――ただし、条件がござる。今、讃岐と伊予におる、こちらに従うた国衆にござる。あの者どもの所領を、安堵していただきたい」
俺は、動けなかった。
(そこか)
この人が守ろうとしているのは、自分の領地ではない。自分に従った者たちだ。
「なにゆえ、その者どもを」
「こちらに従うたゆえにござる。従うたゆえに、滅ぼされるのでは、道理が立ち申さぬ。――そして、それがしは、二度と信じられ申さぬ」
俺は、深く平伏した。
(取次役だ)
この人も、織田と四国の国衆のあいだに立つ、取次役なのだ。そして、俺と同じことを案じている。自分の言葉を信じて従った者を、自分の言葉で裏切ることを。
「宮内少輔様。それは、必ずお伝えいたします。――そして、通らねば、何度でも、申し上げまする」
◇
その夜。
また酒を飲んだ。あまり話さなかった。
「日向守どの。貴殿は、なにゆえ、そこまでなさる」
俺は、少し考えた。
「――怖いゆえにございます」
「怖い、と」
「織田家が割れるのが、怖うございます。割れれば、また戦が続きまする。百年、戦が続きました。それが、ようやく終わりかけております。――ここで割れれば、また百年にございます」
元親は、しばらく黙っていた。
「日向守どの。それは、上様のお考えにござるか」
「違いまする。それがしの考えにございます」
元親は、盃を置いた。
「ならば、貴殿は――織田家の家臣ではござらぬな」
俺は、動きを止めた。
「貴殿が仕えておるのは、上様ではござらぬ。――『戦が終わること』にござる」
俺は、答えられなかった。
(そうか)
この人は、俺自身より正確に、俺を見ている。
(俺は、何に仕えている)
元親は、静かに言った。
「日向守どの。それは、危のうござる。人に仕える者は、その人が死ねば終わり申す。――だが、志に仕える者は」
盃を取った。
「――主を、殺すことがござる」




