第84話 方針が、変わる
天正十一年、九月。
土佐から戻り、安土へ登った。
報告は、長くなった。土佐の様子。元親の人柄。四国の情勢。宗易の言った、土佐の田の少なさ。
「上様。宮内少輔どのは、四国を取れねば、土佐だけでは食えぬと申しておりました」
信長は、黙って聞いていた。話し終えると、言った。
「日向守。おぬし、あの男が好きか」
俺は、面食らった。そして、正直に答えた。
「好きにございます。誠のあるお方かと存じます」
「――それは、危ういな。好きな相手のことは、甘く見る」
「仰せの通りかと存じます」
「日向守。わしは、四国のことを考えた。――そして、方針を変える」
その言葉を、体の芯で受けた。
(来た)
覚悟はしていた。実際に聞くと、腹の底が冷えた。
「お聞かせくださいませ」
信長は、地図を広げ、四国を指した。
「長宗我部に、四国は与えぬ。土佐と、阿波の南。それだけとする。――残りは、こちらで取る」
俺は、しばらく答えられなかった。
「上様。理由を、お聞かせ願えませぬか」
「理由を聞くか」
「伺いとうございます。――宮内少輔どのに、伝えねばなりませぬゆえ」
信長は、しばらく黙っていた。それから、指を立てた。
「三つある。ひとつ。四国が一つになれば、強くなりすぎる。毛利と組まれれば、西が固まる。厄介だ」
俺は、書き取った。
「ふたつ。――三七郎に、役を与える」
(信孝様)
舟を集めていると聞いた。そういうことか。俺は、複雑な気持ちになった。役のない者を放っておけば次はもっと大きな独断をする、と進言したのは、俺だ。そして、四国が役になった。
「三つ目は」
信長は、しばらく黙っていた。
「――日向守。おぬしだ」
俺は、動きを止めた。
「おぬしは、長宗我部の取次をしておる。そして、あの男を好いておる。――このまま四国を与えれば、おぬしと長宗我部は、強く結びつく」
俺は、平伏した。
(そこか)
これは、俺への牽制だ。
「上様。それがしを、疑っておられますか」
「疑っておらぬ。――だが、疑わずに済む形にしておくのが、良い」
俺は、腹の底で受けた。
(正しい)
疑いが生じてから対処するより、疑いが生じない形にしておくほうがいい。前世なら、利益相反の回避と言う。俺が上様に教えてきたことを、上様が俺に使った。
「上様。仰せ、承りました。――ですが、一つだけ、お願いがございます」
「申せ」
「それがしに、伝えさせてくださいませ」
眉が、動いた。
「使者を出せばよかろう」
「それでは、済みませぬ。四年、それがしが伝えて参りました。その四年の言葉を、覆すのでございます。――使者では、済みませぬ」
「日向守。斬られるぞ」
「斬られましょう」
「それでも行くか」
「参ります」
「なぜだ」
「それが、取次の役目にございますゆえ。取次は、良き知らせだけを運ぶ役ではございませぬ。悪しき知らせを運ぶのも、取次にございます。――そして、悪しき知らせほど、直に伝えねばなりませぬ」
信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。一つ、聞く。――おぬしは、この決めを、正しいと思うか」
俺は、しばらく答えられなかった。
(正直に言うか)
腹を決めた。
「半分は、正しいと存じます」
「半分か」
「四国が一つになれば強くなりすぎる。それは、正しゅうございます。――ですが、取り上げれば、必ず抵抗いたします。土佐だけでは、食えませぬ。ゆえに、あの者は死ぬ気で戦いまする。――そして、その戦は、長うございます」
「どれほど長い」
「三年、あるいは五年。四国は、山が多うございます。そして、海を渡らねばなりませぬ。上様。その三年、四国に兵を割くことになりまする。――その間、東国はいかがなさいますか」
目が、動いた。
「東国、と」
「北条がおります。上杉がおります。武田は弱っておりますが、まだ滅んでおりませぬ。――そして、徳川様がおられます」
「日向守。おぬし、何が言いたい」
「――四国は、後回しになさいませ」
部屋が、静かになった。
「四国を取るのは、いつでもできまする。ですが、東国は、今しかございませぬ。武田が弱っております。今なら、少ない兵で片付きまする」
「日向守。おぬし、長宗我部を庇っておるな」
「庇っております」
「認めるか」
「認めまする。ですが、それだけではございませぬ。上様。順番の話にございます。四国と東国、どちらを先にするか。――それがしは、東国が先と存じます」
信長は、地図を見ていた。長いこと、見ていた。
「日向守。――四国は、来年だ。今年は、東国をやる」
俺は、平伏した。
(延びた)
一年。一年、稼いだ。だが、方針は変わらない。
「上様。長宗我部には、何と伝えましょうか」
「そのまま伝えよ。『四国は与えぬ。土佐と阿波の南のみとする』。――『ただし、来年までは、兵を進めてよい』」
俺は、しばらく動けなかった。
(残酷だ)
取り上げると決めておいて、進ませる。進めば進むほど、取り上げられる分が増える。取り上げるまでのあいだに死ぬ兵は、何のために死ぬのか。
「上様。――それは、伝えられませぬ」
目が、動いた。
「なんだと」
「『来年までは進んでよい』とは、申せませぬ」
「なぜだ」
「兵が、死にますゆえ。取り上げると決まっておる土地のために、兵が死にまする。――それを承知で伝えるのは、それがしにはできませぬ」
長い沈黙があった。俺は、額を畳につけたまま、待った。
(斬られるか)
そう思った。
「日向守。顔を上げよ」
顔を上げた。信長は、こちらを見ていた。その目に――
(何だ)
怒りではなかった。面白がっているように見えた。
「日向守。おぬし、わしの命を断るか」
「断りませぬ」
「今、断ったではないか」
「断っておりませぬ。――伝え方を、変えさせていただきとうございます」
「どう変える」
「『四国は与えぬ』と伝えまする。そして、『これ以上、兵を進めるな』と伝えまする」
「それは、わしの申したことと違うぞ」
「違いまする。ですが、上様のお考えには沿うております。上様が四国を取り上げられるのは、長宗我部が強くなりすぎるゆえ。――ならば、これ以上進ませぬほうが、上様のお為にございます」
信長は、しばらく俺を見ていた。そして、突然、笑った。珍しいことだった。
「日向守。おぬし、わしの言葉を勝手に直しておるぞ」
「申し訳ございませぬ」
「許す。――ただし、紙に書け」
俺は、動きを止めた。
「おぬしが長宗我部に何を伝えたか、紙に書いて、わしに出せ。――そして、写しを長宗我部にも渡せ」
(そうか)
これは、俺を縛るものだ。だが同時に、俺を守るものだ。伝えた内容が紙に残れば、後から「そんなことは言っていない」と言われずに済む。上様からも。元親からも。
「上様。ありがたく存じます」
「礼を言われる筋合いではない」
「いえ。――上様が、初めて、紙をお使いになりました」
信長は、眉を寄せた。だが、何も言わなかった。
◇
安土を出る道で、俺は妙な既視感に襲われていた。
(――どこかで、見た)
半刻ほど歩いて、思い当たった。
前の世で、これには名前がついていた。
――消える人参。
商いを考える者が、工場へ来て言う。この新しい品は、これだけ売れる見込みです。工場は、その数字を信じて、機械を入れ替え、人を集め、試作を回す。
半年後、商いの者がまた来て言う。見込みが下がりました。
一年後、また来て言う。この品は、やめます。
工場は、動いた分だけ損をする。次に商いの者が来ても、誰も本気にしない。三度それが続くと、工場は動かなくなる。動かない工場を、商いの者は「保守的だ」と呼ぶ。
(――同じだ)
四年前、上様は「切り取り次第」と言われた。長宗我部は、それを信じて兵を出した。
今、方針が変わった。
(――そして、次に何を言っても、あの人はもう本気にしない)
俺は、道の途中で足を止めた。
(――責められるのは、伝えた者だ)
工場が恨むのは、社長ではない。数字を持ってきた商いの者だ。顔が見えるからだ。
俺は、懐の書付を押さえた。
そこには、こう書いてある。――その責は、明智日向守にあり。
(――正しい書き方だ)
だが、正しいだけでは足りない。
俺は、その場でもう一行、頭の中で書いた。
――消える人参を防ぐには、人参を出すときに、消える見込みも一緒に出すことである。
「必ず取れる」と言わず、「取れぬ場合は、こうする」を先に書いておく。
そうすれば、消えても、嘘にはならない。




