第83話 姫若子
天正十一年、七月。
俺は、土佐にいた。
岡豊城。長宗我部の本拠だ。山城だった。険しい。登りながら、息を切らしていた。
「殿。お休みくださいませ」
「大事ない」
「五十四にござる」
「五十五だ」
利三は、渋い顔をした。歳を一つ間違えるほど、この男は俺を心配している。
城で迎えたのは、四十半ばの男だった。色が白い。背は高いが、線が細い。武将というより、僧か学者に見えた。
「長宗我部宮内少輔にござる」
声も、静かだった。
板が、浮かんだ。
長宗我部元親 四十五歳
統率88│戦術90│兵站財務75
政務実務80│交渉外交78│人望82
◆特記事項
動員力 95
面子への敏感さ 85
妥協 25
(妥協、二十五)
低い。
「明智日向守にございます」
平伏し、平伏を返された。
「四年、文を交わしており申した」
「ようやく、お会いでき申した」
その日、長く話した。最初は、儀礼的な話だった。土佐の気候。海の幸。京の様子。だが、夕方になって、元親が言った。
「日向守どの。なにゆえ、来られた」
「上様のご命にございます。『顔を見ぬ相手と、約束をするな』と」
元親の目が、動いた。
「上様は、それがしと約束をなさるおつもりか」
俺は、答えられなかった。
(分からない)
上様は「考える」と言った。それだけだ。
用意していた答えが、三つあった。どれも、この人には通じないと思った。
「宮内少輔様。正直に申し上げます。――分かりませぬ」
元親は、動きを止めた。
「上様は、『考える』と仰せられました。そして――四年前の『切り取り次第』は、お忘れでございました」
部屋の空気が、変わった。元親の顔から、静けさが消えた。
「忘れた、と申されたか」
「申されました。一日に百を決めておられます。四年で、十四万にございます」
元親は、しばらく黙っていた。
「日向守どの。なにゆえ、それを申される」
「隠せば、後で困りますゆえ」
元親は、俺を見ていた。その目が、鋭くなっていた。
「日向守どの。それがしは、四年、貴殿の言葉を信じて参った。『上様はお認めになった』と。それを頼りに、阿波を取り、讃岐を取り申した」
「申し訳ございませぬ」
「謝られても、困り申す。――兵が、死んでおり申す」
俺は、額を畳につけた。
長い沈黙があった。
「顔を上げられよ」
俺は、顔を上げた。
「日向守どの。貴殿を責めても、詮なきこと。――取次とは、そういうものにござる」
「と、申されますと」
「それがしも、取次を使い申す。阿波の国衆に、こちらの意を伝える者がおり申す。――そして、それがしが方針を変えれば、その者は、嘘つきになり申す」
俺は、動けなかった。
(同じことをしている)
「宮内少輔様。その者は、どうなりました」
「――離れ申した」
元親は、目を伏せた。
「その者は、阿波の者にござった。こちらの意を、国衆に伝え続けており申した。それが、こちらが方針を変えた折、国衆から『お前は嘘をついたのか』と責められ申した。――そして、その者は、国衆の側についた。こちらと、戦い申した。そして、死に申した」
部屋が、静かになった。
「宮内少輔様。その者を、恨んでおられますか」
「恨んでおり申さぬ。――こちらが、悪うござる。こちらが方針を変えた。それは、必要であったゆえにござる。だが、変えたことを、その者に先に伝えなんだ。――国衆から聞いて、知り申した」
俺は、腹の底で受けた。
(そこか)
方針を変えること自体は、避けられない。だが、誰が先に知るか。取次役が、当事者から聞いて初めて方針変更を知る。そのとき、取次役の信用は死ぬ。
俺は、平伏した。
「宮内少輔様。お願いがございます。――上様が方針を変えられた場合、それがしが先に知る仕組みを作りとうございます」
「それは、こちらに関わりのないことにござる」
「ございます。それがしが先に知れば、宮内少輔様にも先にお伝えできます。――兵を出す前に、お伝えできます」
元親の目が、動いた。
「今、宮内少輔様は、伊予へ兵を進めておられます。もし上様が方針を変えられたなら、その兵は無駄になりまする。――兵が、死にまする」
長い沈黙。
「日向守どの。貴殿は、変わったお方にござるな。こちらの兵を、案じられる。取次とは、本来、こちらを織田に従わせる役にござろう。――なにゆえ、こちらの側に立たれる」
俺は、しばらく考えた。
「それが、それがしの役目と存じますゆえ」
元親の眉が、動いた。
「取次の役目は、どちらの側にも立たぬことにございます。――正しくは、両方の側に立つことにございます。織田の意を、宮内少輔様に伝えます。同時に、宮内少輔様の意を、上様にお伝えします。片方だけを伝える者は、取次ではございませぬ。――ただの、使者にございます」
「日向守どの。それは、危のうござるな。両方の側に立てば、両方から、疑われ申す」
「存じております」
「それでも、なされるか」
「なします。他に、道がございませぬゆえ」
元親は、しばらく俺を見ていた。
「日向守どの。貴殿は、なにゆえ、そこまでなさる」
「――織田家が、割れぬようにするためにございます」
「割れると、思われるか」
「思うております。上様は、お一人にございます。その一人が消えたとき、この家は割れまする。――そして、割れた織田家は、四国にも押し寄せまする」
長い沈黙。
「日向守どの。それは、上様に申されたか」
「申しました」
元親は、目を見開いた。
「斬られなんだか」
俺は、少し笑った。
「斬られておりませぬ」
「上様は、面白いお方にござるな」
「面白うございます」
「――そして、恐ろしい」
「恐ろしゅうございます」
◇
その夜、俺は元親と酒を飲んだ。この人は、あまり飲まなかった。だが、話した。土佐のこと。父のこと。若い頃のこと。
「日向守どの。それがしは、若い頃『姫若子』と呼ばれており申した。色が白く、線が細く、物を言わなんだゆえ。家中の者は、皆、それがしを見限っており申した」
「いつ、変わられました」
「二十二の折。初陣にござる。――槍の持ち方を、家臣に聞き申した」
元親は、少し笑った。
「二十二にて、槍の持ち方を」
俺は、胸が動いた。
(恥を、承知で聞いた)
「そして、勝ち申した。それから、誰も『姫若子』とは申さぬ。――だが、それがしは、覚えており申す。見限られた日のことを。――四十年、覚えており申す」
俺は、その言葉で、あることを理解した。
(面子への敏感さ、八十五)
この人が面子を重んじるのは、性格ではない。四十年前の記憶だ。
盃を置いた。
(もし、四国を取り上げられたら)
この人は、また見限られたと感じる。四十年前と、同じように。そして今度は、槍の持ち方を聞く相手がいない。




