第82話 海を渡る
天正十一年、六月。
俺は、堺にいた。土佐へ渡るためだ。舟の手配に、数日かかる。
堺は初めてではない。だが、今回はゆっくり見る時間があった。
町が、違う。
城下町ではない。武士が威張っていない。道が広く、家が整い、そして――金の匂いがする。荷を運ぶ者が、武士を避けない。武士のほうが、荷を避けている。
「利三。この町は、誰のものだ」
「町衆のものにござる。会合衆と申す者どもが、寄り合いで決めており申す」
「寄り合いで、決める。――当主は、おらぬのか」
「おり申さぬ」
(合議制だ)
この時代の日本で、これは珍しい。武家は当主が決める。寺は住職が決める。だが、この町は、誰も一人では決めない。
舟の手配を待つあいだ、俺は町を歩いた。
湊には、見たことのない大きさの船が着いていた。南蛮の船だ。荷を下ろす者たちが、明の言葉と、堺の言葉と、俺には分からない言葉を、混ぜて叫んでいる。誰も、それを不思議がっていない。
通りの角ごとに、木戸があった。夜には閉めるのだという。町の周りには、濠が巡らせてある。武士のいない町が、武士の町より、堅い。
「利三。この濠は、誰が掘った」
「町衆が、銭を出し合うて」
「守るのも、町衆か」
「傭いの者を、置いており申す。――寄り合いで決めた銭で」
俺は、しばらく濠を見ていた。
(守る者と、決める者が、同じだ)
織田家は、守る者が決める。上様が決め、上様の兵が守る。この町は、決める者が守る。守るために銭を出す者が、その銭の使い道を決める。どちらが速いかは、明らかだ。どちらが長く続くかは、この濠が答えている。
◇
その日、俺は宗易という茶人に会った。
千宗易。堺の商人であり、茶の湯の名手だという。六十を過ぎている。
茶室は、小さかった。二畳台目。
(狭い)
膝が触れそうだ。逃げ場がない。前世の会議室は、広いほど話が薄くなった。この部屋の狭さは、その逆のために作られている気がした。
宗易は、無言で茶を点てた。所作が、恐ろしく静かだった。音がしない。いや、音はする。だが、その音が全部、意図されているように聞こえた。
茶を飲んだ。
「結構にございます」
宗易は、頷いた。何も言わなかった。
俺は、待った。やはり、何も言わない。この人は、こちらを見ていない。茶碗を見ている。
四半刻ほど、経った。俺のほうが、先に折れた。
「宗易どの。お尋ねしたきことがございます」
宗易は、初めてこちらを見た。
「どうぞ」
「堺は、なにゆえ、当主を置かぬのでございましょうか」
「――間違えるゆえにございます」
「間違える、と」
「人は、間違えまする。一人で決めれば、その一人が間違えたとき、町が滅びます。ゆえに、寄り合いで決めまする。――遅うございます。されど、滅びませぬ」
俺は、その言葉を、しばらく考えた。
(速さと、安全)
交換だ。合議は遅いが、致命的な誤りを防ぐ。独裁は速いが、一度の誤りで全部を失う。織田家は、後者だ。速さが宝で、宝が一つしかない。
「宗易どの。遅いことで、損をされたことは」
「ございます。幾度も、商機を逃しております。――ですが、堺は残っております」
(残っている)
応仁の乱を越え、戦国を越え、この町は残っている。速く決める大名たちが、次々に滅ぶ中で。
「もう一つ、伺ってよろしゅうございますか。――取引の相手を、どう選ばれます。信じられるかどうかを、どう測られますか」
「――約束を、幾つ守ったか」
俺は、身を乗り出した。
「数えておられますか」
「数えております。帳面に」
少し、笑いそうになった。
(ここにも、帳面がある)
「それは、金の帳面とは別に」
「別にございます。金の貸し借りは、金の帳面に。――約束の貸し借りは、別の帳面に」
(約束の貸し借り)
俺は、その言葉を、頭の中で二度、繰り返した。
「どのように書かれますか」
「『いつ、誰が、何を約したか』。そして、『守ったか、守らなんだか』」
「守らなんだ者は、いかがなされます」
「取引を、減らします。――やめませぬ。減らします」
「なにゆえ、やめられませぬ」
「一度で見切れば、間違えますゆえ。守れなんだ理由が、あるかもしれませぬ。ゆえに、減らして、様子を見まする」
俺は、腹の底で受けた。
(段階がある)
信じるか、信じないか、ではない。どれだけ信じるかを、少しずつ調整する。これは、性格ではなく、制度だ。
「宗易どの。織田家は、その帳面に、どう書かれておりますか」
宗易は、初めて、少しだけ笑った。
「日向守様。それは、申せませぬ」
「申せませぬか」
「申せませぬ。――ですが、一つだけ」
茶碗を置いた。
「上様は、約束を守られます。――ただ、約束をなさらぬことが、多うございます」
俺は、動きを止めた。
(そうか)
この人は、正確に見ている。上様は嘘をつかない。約束したことは守る。だが、そもそも約束をしない。
「切り取り次第」は、約束ではない。許可だ。
「宗易どの。許しと、約束の違いは、何でございましょうか」
「――取り消せるかどうかにございます。許しは、出した者が取り消せます。約束は、双方が納得せねば、取り消せませぬ」
俺は、平伏した。
この二畳で聞いたことは、たぶん、安土の大広間で十年聞くより多い。
退がろうとしたとき、宗易が言った。
「日向守様。土佐へ行かれるとか」
「ご存じでございますか」
「堺にござれば」
堺は、何でも知っている。舟の手配を頼んだ時点で、俺の行き先は町中に知れている。
「長宗我部様は、何を求めておられましょう」
俺は、答えた。
「四国を、任されることかと」
宗易は、首を振った。
「それは、手立てにございます。目当ては、別にございましょう」
「何だと、お考えでございますか」
「――土佐の者が、飢えぬことにございましょう。土佐は、貧しゅうございます。山が多く、田が少ない。ゆえに、外へ出るしかございませぬ。阿波も、讃岐も、豊かにございます」
俺は、頭の中に地図を広げた。
(そうか)
長宗我部の四国統一は、野心ではない。生存だ。土佐だけでは、食えない。だから、外へ出る。
「ならば、四国を取り上げれば」
「土佐へ、戻るしかございませぬ。――そして、土佐だけでは、食えませぬ」
(戦うしかなくなる)
四国を取り上げられれば、長宗我部は死ぬ。ならば、抵抗する。それは忠義の問題ではない。生きるか、死ぬかだ。
俺は、深く平伏した。
「宗易どの。まことに、ありがたく存じます」
「日向守様。一つ、お願いがございます」
「は」
「土佐から戻られましたら、また茶を」
この人は、少し笑った。
「――その折、四国の値が、いくらになったかを伺いたく存じます」




