第81話 土佐の男
――娘を嫁がせた。橋の設計に、本人を入れた。
――そして、俺は四年前から、土佐との橋になっていた。
――上様が方針を変えれば、嘘をつくのは俺である。
天正十一年、五月。
玉が嫁いで、一月が過ぎた。
坂本は、静かだった。奥から字を教える声が聞こえない。侍女たちが帳面を突き合わせる声も、四十人分、減った。静かなのは良いことだと、二十年前の俺なら思っただろう。今は、静かな廊下を歩くたびに、何かが欠けている音を聞いている気がした。
その静けさを破ったのは、斎藤利三だった。
「殿。折り入って、お願いがござる」
この男が「折り入って」と言うのは、珍しい。文句なら日に三度は言う。願いは、七年でこれが二度目だ。
俺は、筆を置いた。
「言え」
利三は、しばらく黙っていた。眉のあいだに、縦の皺が寄っている。
「――四国のことにござる」
俺は、少し身構えた。
四国。土佐の長宗我部元親が、急速に勢力を伸ばしている。阿波を取り、讃岐を取り、伊予へ手を伸ばしている。四国を、統一しかけている。
「利三。おぬし、長宗我部と縁があったな」
「ござる。妹が、石谷の家に嫁いでおり申す」
石谷家。足利の旧臣で、土佐に縁がある。その縁を通じて、長宗我部と繋がっている。
「で、何の願いだ」
利三は、書状を出した。
「土佐より、文が参り申した」
受け取った。文は、丁寧だった。
――明智日向守様へ。長宗我部宮内少輔元親にござる。かねてより、上様への取次、ありがたく存じ候。
その一行で、手が止まった。
(取次)
「利三。俺は、長宗我部の取次をしておるのか」
「しておられます。四年ほど前より」
当然のように言う。
俺は、この体の記憶を探った。
(ある)
長宗我部から織田家への使者が来る。それを俺が受けて、上様に取り次ぐ。そういう役目を、いつのまにか担っている。「いつのまにか」というところが、俺の背中を冷やした。
「利三。なぜ、俺なのだ」
「それがしの縁ゆえかと。石谷の家を通じて、話が参りまする。――そして、殿が上様に近いゆえ」
俺は、書状を見た。
(そうか)
これは、非公式な経路だ。役目書にも、織田家の覚にも、どこにも書いていない。長宗我部から見れば、織田家への窓口は俺だ。
(窓口は、俺一人だ)
窓口が一人しかない組織を、前世で見た。担当者が辞めた瞬間に、取引先との十年分の経緯が消えた。引き継ぎ資料は、なかった。頭の中にしかなかったからだ。
文の続きを読んだ。
――このたび、伊予へ兵を進め候。四国は、いずれ一つに相成るべく候。その折には、上様の御下知に従い、四国の儀を仰せつかりたく存じ候。
三行を、長いこと見ていた。
要するに、こういうことだ。四国は自力で統一する。統一した後、織田家の一員として四国を任せてほしい。
「利三。上様は、これを認めておられるのか」
「四年前に、認めておられます」
「どういう形でだ」
利三は、古い書状の写しを出した。
――四国の儀、切り取り次第。
(切り取り次第)
自分で取った分は、自分のものにしてよい。
「利三。これは、上様のお言葉か」
「さようで」
「文書はあるか」
利三は、困った顔をした。
「このような写しはござるが。――正式な朱印状は、ござらぬ」
俺は、動きを止めた。
(ない)
四国の統一を認める、という重大な約束。それが、文書として残っていない。
「では、長宗我部は何を根拠にしておる」
「殿のお言葉にござる。殿が、『上様はお認めになった』と伝えられました」
俺は、しばらく動けなかった。
(俺が、口頭で伝えた)
この体は、そうしている。四年前、上様の言葉を受けて、長宗我部にそう伝えた。そして、それが全てだ。紙はない。あるのは、俺の言葉だけだ。
「利三。これは、危ない」
「と、申されますと」
「上様が、お考えを変えられたら、どうなる」
利三の顔が、こわばった。
「上様は、そのようなことは」
「なさる」
俺は、はっきり言った。
「上様は、状況が変われば、方針を変えられる。そして、そのとき――長宗我部から見れば、俺が嘘をついたことになる」
利三は、しばらく黙っていた。
「殿。それは――それがしの縁が、招いたことにござる」
声が掠れていた。
「違う」
「されど」
「利三。聞け」
俺は、書状を叩いた。
「これは、仕組みの話だ。取次というものは、こういう危うさを必ず持つ」
指を二本、立てた。
「取次は、二つの家の間に立つ。片方の言葉を、もう片方に伝える。そのとき、取次は、伝えた言葉に責を負う。上様が『切り取り次第』と仰せられた。それを、俺が伝えた。――伝えた者は、俺だ」
「殿。ならば、いかがすれば」
「――紙にする」
◇
その日から動いた。
まず、これまでのやり取りを全部、書き出した。四年分。誰が、いつ、何を伝えたか。記憶と、断片的な書状から起こした。三日かかった。三日のうち、二日は、この体の記憶が濁っていて使い物にならず、利三と石谷家の文箱を漁った。
それを持って、安土へ登った。
信長は、書付を読んだ。速い。
指が、止まった。
「日向守。これは、何だ」
「長宗我部との、四年分のやり取りにございます」
「なぜ、これを持ってきた」
「お確かめいただきとうございます。――それがしが、間違って伝えておらぬかを」
信長は、しばらく黙っていた。書付をめくり、一行を読み上げた。
「『四国の儀、切り取り次第』。――これは、わしが申したか」
「申されました」
「いつだ」
「四年前の、七月にございます」
信長は、考えていた。
「――覚えておらぬ」
俺は、動きを止めた。
(覚えていない)
佐久間信盛の三十年を、十九か条で書き起こした人が。四年前の一言を、覚えていない。
「上様。お忘れでございますか」
「忘れた」
あっさりと言った。
「日向守。わしは、一日に幾つ決めておると思う」
答えられなかった。
「百は決めておる。四年で、幾つになる」
頭の中で計算した。
(十四万)
俺は、しばらく動けなかった。
(覚えていられるはずがない)
佐久間の三十年を覚えていたのは、佐久間を「見ていた」からだ。見ていた者のことは、忘れない。だが、日々の裁可は、この人の頭を通り過ぎて、流れていく。流れた先に、紙がない。
「上様。ゆえに、書いていただきとうございます」
眉が、動いた。
「書く、と」
「重き裁可は、紙になさいませ」
「面倒だ」
「面倒にございます」
俺は、認めた。
「ですが、上様がお忘れになったとき、家臣は困りまする」
信長は、書付を膝に置いた。
「日向守。それは、わしを縛るということだぞ」
「さようにございます」
「認めるか」
「認めまする。――ですが、上様」
顔を上げた。
「縛られておらぬ言葉は、家臣にとって、命綱にはなりませぬ」
信長の目が、動いた。
「長宗我部は、上様のお言葉を頼りに、四国を切り取っております。その言葉が、いつでも変わりうるものであれば――あの者は、いずれ、頼れぬと悟りまする」
長い沈黙があった。
「日向守。おぬし、四国をどう思う」
(質問が、変わった)
この人は、追い詰められると、問いを変える。変えた問いのほうが、たいてい本題だ。
「遠うございます」
「それだけか」
「遠い、というのが、全部にございます。四国は、海を隔てております。兵を送るにも、荷を送るにも、舟が要ります。舟は、天候に左右されまする。――ゆえに、直に治めるのは、費えが高うございます」
「日向守。おぬしは、長宗我部に任せよと申すか」
「そのほうが、安うございます」
「安ければ良いのか」
少し考えて、正直に言った。
「安いことは、大事にございます。上様。天下は、広うございます。西に毛利。東に北条。北に上杉。南に島津。全部を、直に治めることはできませぬ。――ゆえに、任せる者を作らねばなりませぬ。そして、任せるには、約束が要りまする。約束が守られると分かれば、人は従いまする。守られぬと分かれば、離れまする」
長い沈黙。
「日向守。書付を置いていけ。――考える」
(即断されなかった)
この人が「考える」と言うのは、珍しい。意思決定速度百の人が、自分の速さを、一度止めた。
退がろうとしたとき、声がかかった。
「日向守。おぬし、長宗我部に会うたことはあるか」
「ございませぬ。文だけにございます」
信長は、しばらく黙っていた。
「――会うてこい」
俺は、顔を上げた。
「土佐へ、でございますか」
「そうだ。――顔を見ぬ相手と、約束をするな」
俺は、平伏した。
四年、顔を見ぬ相手と約束をしてきたのは、俺だ。それを、この人に言われた。




