第80話 橋の設計に、本人を加える
天正十一年、四月。
輿入れの日が、来た。
朝から、坂本城は騒がしかった。四十人の供が、支度を整えている。箪笥が運ばれ、輿が磨かれ、馬が引かれる。廊下を、誰かが走っている。走るな、と言う者もいない。
俺は、書院にいた。
何もすることがなかった。二十年、この家に何かすることがなかった日は、一日もなかった。今日が、初めてだ。
「殿。お支度は」
「俺は、行かぬ」
この時代、父が輿入れに同行することはない。城の門で見送る。それで終わりだ。
「利三。酒はあるか」
「まだ、朝にござる」
◇
辰の刻。
行列が、整った。
俺は、門の前に立った。煕子が、隣にいた。
家中の者が、並んでいた。全員だ。三沢も、秀満も、蔵の鍵を預かっていた家の若い者も、およしも、たきも。誰も命じていない。役目書に「輿入れの見送り」という項目はない。
玉が、奥から出てきた。
白い小袖に、打掛。髪を結い上げている。
俺は、その姿を見て、思った。
(知らない女だ)
昨日まで、書院で書付を突き合わせていた娘とは、別人に見えた。俺は、この娘を六年しか知らない。この体は十九年知っている。だが、この体の記憶にも、この姿はない。
玉は、俺の前に来た。そして、平伏した。
「父上。長らく、お世話になりました」
声が、静かだった。
俺は、答えようとした。声が出なかった。
しばらく、そのまま立っていた。家中の者が、見ている。
煕子が、俺の袖を、そっと引いた。
俺は、我に返った。
「玉」
「はい」
言葉を探した。用意していなかった。二十年、書付を用意せずに人前に立ったことはない。
「――字を、書き続けよ」
玉が、顔を上げた。少し、驚いた顔をしていた。
「毎日でなくてよい。三日に一度でもよい。――何でもよいから、書き留めよ」
玉は、しばらく黙っていた。
「父上らしゅうございます」
俺は、少し笑った。
「他に、思いつかぬ」
「いいえ」
玉は、首を振った。
「良いお言葉でございます。――書いておけば、忘れませぬゆえ」
◇
玉は、次に煕子の前へ行った。そして、平伏した。
「母上」
「はい」
煕子は、微笑んでいた。
玉が、何か言おうとした。言えなかった。肩が、震えていた。俺の前では震えなかった肩が、母の前で震えている。
煕子は、そっと手を伸ばした。玉の頭に触れた。
「玉。帳面を、つけなさい」
俺は、その言葉に驚いた。俺と、同じことを言っている。
「家の入り用を、毎日つけなさい。二十年つければ、家のことが全部分かります」
玉は、顔を上げた。
「母上。二十年、つけられました」
「つけました」
「何が、分かりましたか」
煕子は、少し考えた。
「――誰が、困っているかが」
俺は、隣で聞いていた。
(そうだ)
あの帳面の最後には、人の名前が書いてあった。八助、子が生まれる。長次、足を痛める。米の値段の隣に、人の名前。
(二十年、見ていた)
俺が三沢に「見えるようにする」と言った、あれを、この人は二十年前からやっていた。誰にも言わずに。
玉は、深く平伏した。そして、立ち上がった。
輿に、乗った。
行列が、動き始めた。
◇
俺は、門の前に立ったまま、見送った。
輿が、坂を下っていく。琵琶湖が、朝の光で光っていた。行列は、湖沿いの道を北へ向かう。丹後まで、三日の旅だ。丹波の道普請が、こういうときに効く。
行列が見えなくなるまで、俺は立っていた。
家中の者は、少しずつ散っていった。煕子だけが、隣に残っていた。
「あなた様」
「うむ」
「泣かれませぬのですね」
「泣かぬ」
しばらく、二人とも黙っていた。
「煕子。――俺は、間違えたか」
煕子は、すぐには答えなかった。
「分かりませぬ」
俺は、少し笑った。
「正直だな」
「はい」
煕子は、湖を見ていた。
「あなた様。ひとつ、申し上げてよろしゅうございますか」
「言ってくれ」
「あの子は、幸せになると存じます」
「なぜ、そう思う」
煕子は、少し笑った。
「――負けぬ子でございますゆえ」
◇
俺は、その日、書院に籠った。
書付を広げた。婚姻の儀、覚書。全十一箇条。嫁ぐ者の覚。明智玉、著。
二つを並べた。その下に、新しい紙を置いた。
――人を橋にするな、と六年前に書いた。
――だが、今の世で、人を橋にせずに家を結ぶ道を、俺は知らぬ。ゆえに、こう書き直す。
筆を止めた。しばらく考えて、書いた。
――人を橋にするなら、その者を、橋の設計に加えよ。
その一行を見た。
(これだ)
六年前、俺は「橋が落ちないようにする仕掛け」を考えた。取次役。人質の禁止。約束の紙。だが、その仕掛けを考えていたのは、俺だけだった。橋にされる本人は、蚊帳の外だった。
(煕子に、言われた)
六年前、あの人は言った。橋であることを前提にしたお話でございます、と。
――玉は、自ら『嫁ぐ者の覚』を書いた。それは、俺の覚書と噛み合わぬところがあった。噛み合わぬゆえに、良い。
――二つの覚書が噛み合わぬのは、立場が違うゆえである。立場が違えば、見えるものが違う。片方だけで作れば、必ず片方が抜ける。
そこで、筆が止まった。
(これは、婚姻だけの話ではない)
新しい行を書いた。
――丹波の国衆の書付も、同じである。俺は、国衆の一覧を作った。だが、国衆自身に書かせたことはない。
その一行を見て、唸った。
服属と統合の五つの物差しも、俺が作った。国衆の側から見た物差しは、一つもない。波多野に「説明しなかった」と詫び状に書いた。だが、説明は、こちらから向こうへ一方向だ。向こうから、こちらへ。それを、まだ一度もやっていない。
(やってみるか)
丹波の国衆に、こう聞く。「明智に従うにあたって、そちらが守ってほしいことを書け」と。
(危険だ)
要求が出てくる。応えられないものも出てくる。応えられないと言えば、それが離反の理由になる。
(だが)
筆を置いた。
(言わせなければ、腹に溜まる)
腹に溜まったものは、いつか、別の形で出てくる。荒木どのが、そうだった。
◇
その夜。
俺は、久しぶりに一人で酒を飲んだ。
利三が、心配して覗きに来た。
「殿」
「飲むか」
「いただき申す」
この男は、座った。しばらく、黙って飲んでいた。
「殿。お嬢様は、良いお方でござった」
「うむ」
「それがし、字を教わり申した」
俺は、顔を上げた。
「おぬしが」
「は」
利三は、照れくさそうに言った。
「書は、若い頃に少々やり申したが。女子の書は、また別にござる」
「習ったのか」
「習い申した。――三年ほど前にござる。お嬢様が、家中の者に教えておられた折。『利三も来い』と」
俺は、しばらく黙っていた。
(知らなかった)
俺の知らないところで、この家は動いていた。娘が、家老に字を教えていた。家老が、娘に習っていた。俺は、そのころ、京と安土と丹波を回っていた。
(俺は、何を見ていた)
「利三。俺は、家のことを、知らなすぎた」
利三は、答えなかった。
しばらくして、言った。
「殿。それは、当たり前でござる」
「当たり前か」
「当たり前にござる。殿は、丹波と京と安土を回っておられる。家の内におられる時が、幾日ござる」
俺は、答えられなかった。数えてみれば、月に五日もない。
「ゆえに、お方様がおられます。ゆえに、お嬢様がおられました」
利三は、盃を空けた。
「それでよろしゅうござる」
俺は、しばらく黙っていた。
それでよろしい、と利三は言う。だが、俺は、それを知らなかった。知らないまま「それでよい」と言う資格は、俺にはない。
「利三。一つ、頼みがある」
「なんでござる」
「俺が知らぬことを、月に一度、教えてくれ」
利三は、面食らった顔をした。
「知らぬこと、と申されますと」
「何でもよい。家中で誰が困っているか。誰と誰が仲が悪いか。誰の子が生まれたか。――書付に載らぬことだ」
利三は、しばらく黙っていた。
「殿。それは、お方様のなさっておることにござる」
「知っている。だが、煕子は、俺に言わぬ」
「なにゆえ」
「――俺が、聞かぬゆえだ」
利三は、しばらく俺を見ていた。それから、盃を置いた。
「――で、いつやりますので」
俺は、笑った。この男は、こういうときに、段取りの話をする。
◇
その夜、遅く。
俺は、書院で書付を片付けていた。
廊下に、足音がした。煕子だった。
「あなた様。まだ起きておられます」
「今、終わる」
俺は、書付を畳んだ。
「あなた様。ひとつ、お渡ししたいものがございます」
この人が出したのは、帳面だった。
二十年つけている、あの帳面。――いや、違う。綴じ紐が新しい。
「煕子。これは」
「新しいものでございます。玉に、同じものを持たせました。――そして、これは、あなた様に」
俺は、帳面を開いた。
白紙だった。
最初のページに、一行だけ書いてあった。
――知らねば、困りますでしょう。
俺は、その一行を、長いこと見ていた。
今日、玉に「書き留めよ」と言った。煕子は「帳面をつけなさい」と言った。そして夜、俺は利三に「教えてくれ」と頼んだ。その全部を、この人は、たぶん朝から知っていた。
白紙の帳面は、二冊目だ。一冊目は、玉にもらった。今度は、妻からだ。
(俺は、書かされてばかりだ)
筆を取った。そして、最初の行に、書いた。
――四月。玉、丹後へ。利三、玉に字を習うていた。俺は、知らなんだ。
◇
書き終えて、二冊目の帳面を閉じた。
そして、別の紙を出した。数えるための紙だ。
転生して、七年。
――丹波、片づいた。四十二家。離反、なし。
――煕子、生きている。七年、生きている。
――中将様、独自判断二十二から六十二へ。父からの自立、十五から四十五へ。
――『決めてはならぬ事の覚』十二条。上様の朱印あり。
――玉、嫁いだ。覚書十一箇条つき。
七つの形を、また数えた。
――説明されぬまま、動かされる。崩れた。「なぜ」の欄が、家中と丹波に入った。
――疲れを、言えない。崩れていない。誰も言わぬ。
――約束が、記録されていない。半分、崩れた。丹波と婚姻は紙になった。四国は、なっておらぬ。
――方針の変更を、当人が最後に知る。崩れていない。
――誰が何を決めてよいか、書いていない。崩れた。十二条ができた。
――主君と後継者が、同じ場所で無防備になる。崩れていない。
――諸将が、互いを知らない。半分、崩れた。荷の覚が回っている。
(――崩れたのが二つ。半分が二つ。残り三つ)
板が出た。
織田家 一人依存度 六十一%
(――二十六、下がった)
俺は、その数字を長いこと見ていた。
(――六年後の六月二日は、去年、過ぎた)
期限が消えて、一年になる。期限が消えたのに、俺はまだ数えている。
(――なぜ数える)
答えは、たぶんこうだ。
――日付は消えた。だが、形は消えていない。
俺は、帳面を二冊、並べて置いた。
玉にもらった白紙と、煕子にもらった白紙。
(――どちらも、俺が書く番だ)




