第79話 白紙の半分
天正十一年、三月。
輿入れは、四月と決まった。
支度が、始まった。
輿入れというのは、想像を絶する事業だった。
まず、支度金。次に、調度。箪笥、鏡台、衣装、書物、茶道具。そして、人。侍女、乳母、供の侍。数えてみると、全部で四十人を超えた。
前世で言えば、子会社の設立だ。資本金を積み、什器を揃え、四十人を出向させる。しかも、出向先は、いつ敵になるか分からない会社だ。
「利三。この者たちは、どうなる」
「どう、と申されますと」
「嫁いだ後だ。そのまま、細川の家に仕えるのか」
「さようで。明智の家臣ではなくなり申す」
俺は、その言葉に引っかかった。
(なくなる)
四十人が、他家の家臣になる。
「利三。この者たちの扶持は」
「細川様が出されまする」
「では、この者たちは、細川の者か」
利三は、少し考えた。
「そうとも、言えませぬ。出は明智にござる。ですが、仕えるは細川」
俺は、書付を置いた。
(中途半端だ)
どちらの家中でもない。扶持は細川からもらい、腹の中は明智に向いている、と両家から思われる。
(両家が敵になれば、真っ先に疑われる)
丹波で見た。降った国衆の家中で、旧主に近い者が、真っ先に斬られた。斬られた者が本当に旧主に近かったかどうかは、誰も確かめなかった。
俺は、その日、玉を呼んだ。
「玉。連れて行く者を、選べ」
「既に、選んでおります」
「全部か」
「侍女は」
玉は、名簿を出した。俺は、それを見た。名前の横に、生まれと、年と、できることが書いてある。俺の役目書と同じ様式だった。
「玉。この者たちだが。――皆、字が書けるな」
玉は、少し笑った。
「教えましたゆえ」
四年前、玉が字を教え始めた侍女たちだ。あの中から、選んでいる。
「なぜ、字の書ける者を」
「書けねば、困りますゆえ。帳面をつけるにも、文を書くにも」
当然のように言う。俺は、頷いた。それから、聞いた。
「他に、理由はあるか」
玉は、しばらく黙っていた。
「ございます」
名簿を指した。
「この者たちが、細川の家で字を教えれば――細川の奥にも、書ける者が増えまする」
俺は、動けなかった。
(こいつは)
単なる侍女の人選ではない。技術の移転だ。玉は、自分が嫁ぐことを、そういう機会だと考えている。
「玉。それは、細川の家のためか」
「両方でございます。細川の奥が良うなれば、わたくしも楽になります」
玉は、少し笑った。
「――そして、明智の書き方が、細川にも広まります」
三条目に書いてあった。良きことは、由来を言わずに使うべし。この娘は、書いた通りにやる。
◇
その日、書院に戻って、白紙を出した。
六年前の、あの半分。文箱の底で、少し黄ばんでいる。まだ、何も書いていない。
(何を書く)
筆を取った。そして、止まった。
――父上が、わたくしに約束できることを。
(約束)
何が約束できるか。守る、と書けるか。
(書けない)
俺は、丹後まで行って、藤孝に「玉を殺さぬと約束してほしい」と頼んだ。断られた。それがしが決めることではない、と。正しい断り方だった。
(俺自身も、約束できぬ)
両家が敵になれば、玉は危うくなる。俺は、それを止められるかどうか分からない。子ができれば、玉は子と共に残ると決めている。俺は、それも止められない。
筆を置いた。
(俺は、無力だ)
二十年、仕組みを作ってきた。役目書。決めてはならぬ事の覚。取次の筋目。どれも、家を守る仕組みだ。娘を守る仕組みは、一つもない。作れない。娘は、明智の家の外に出ていく。俺の仕組みの、外だ。
◇
その夜、庭に出た。
月が出ていた。三月の夜は、まだ冷える。
しばらくすると、後ろで足音がした。
「あなた様」
煕子だった。
「書けませぬか」
「書けぬ」
俺は、正直に言った。煕子は、隣に座った。少し離れて、いつもの距離で。
「何を書こうとしておられます」
「約束だ。玉が、そう言った。『父上が、わたくしに約束できることを書け』と」
「さようでございますか」
煕子は、月を見た。
「あなた様。約束とは、何でございましょう」
俺は、少し考えた。
「守ると誓うことだ」
「守れなければ」
「嘘になる」
煕子は、しばらく黙っていた。
「ならば、守れることだけをお書きになればよろしゅうございます」
「守れることが、ないのだ。玉を守ると書けば、嘘になる。細川の家のことは、俺には決められぬ」
「さようでございましょう」
煕子は、頷いた。この人は、いつも、俺の言うことをまず認める。認めてから、次の問いを置く。
「では、あなた様が、ご自分でできることは」
俺は、しばらく考えた。
(俺が、できること)
細川の家のことは、決められない。玉のことも、決められない。俺にできるのは、俺の側のことだけだ。明智の家がすること。俺自身がすること。
(そうか)
約束とは、相手の運命を引き受けることではない。自分の行いを縛ることだ。十二条の覚と同じだ。他人を動かす条文は書けない。自分を縛る条文なら、書ける。
俺は、立ち上がった。
◇
書院に戻り、筆を取った。
――玉へ。父が、約束できることを書く。
――一、年に一度、必ず会いに行く。
その一行を見た。
(これは、できる)
丹後まで二日。年に一度なら、必ず行ける。
――二、文を出す。月に一度。返事が来ずとも、出し続ける。
これも、できる。返事が来なくても、と書いたのは、返事を求めれば、それが玉の負担になるからだ。
――三、おぬしが困っておると聞いても、細川の家に口を出さぬ。ただし、命に関わるときは除く。
三条目を書きながら、手が震えた。
(これは、辛い)
娘が困っていると聞いても、動かない。親として、いちばんやりたくないことだ。
だが、動けば、両家が揉める。玉自身が、四条目にそう書いた。嫁の役目は、揉め事を運ぶことではない。ならば、父の役目は、揉め事を受け取らないことだ。
――四、明智と細川が敵となりし場合。
そこで、筆が止まった。
しばらく、動けなかった。
この一行の先に、何を書くか。俺は、六年前から知っている。本能寺が起きれば、明智の縁者は全員が滅ぶ。玉は、細川の家で幽閉される。史実では、そうなった。
書いた。
――父は、おぬしを助けに行かぬ。
目を閉じた。
(これが、まことだ)
助けに行けば、明智の兵が細川に攻め入ることになる。それは、玉を人質にした戦になる。そして、そのとき、玉は真っ先に殺される。助けに行くことが、殺すことになる。
続きを書いた。
――代わりに、父はおぬしの名を汚さぬ。
その意味を、書き足した。
――もし父が、上様に背くことがあれば。
手が止まった。
(書くのか)
これは、危険な文言だ。誰かに見られれば、それだけで謀反の証拠になる。「もし」と書いてあっても、読む者は「もし」を読まない。
(だが)
これを書かなければ、四条目は嘘になる。名を汚さぬ、とは、こういうことだ。
筆を進めた。
――もし父が、上様に背くことがあれば、おぬしは父を捨てよ。細川の家に、父を討てと申せ。それが、おぬしが生き延びる唯一の道である。
書き終えて、筆を落とした。
手が、震えていた。
(これを、渡すのか)
娘に、「俺を捨てろ」と書いた紙を渡す。
(酷い)
だが、これが、俺にできる唯一のことだ。細川の家に、明智の娘を殺さぬ理由を、先に渡しておく。娘が父を捨てた、という事実を、紙で作っておく。
最後の一行を書いた。
――五、父は、上様に背かぬようにする。
その一行を見た。
(「背かない」ではない)
「背かないようにする」だ。努力目標だ。
(それしか、書けない)
六年前の俺なら、「背かぬ」と書いただろう。今は書けない。荒木どのに間に合わなかった。波多野どのに間に合わなかった。人は、追い詰められれば、背く。俺も、人だ。だから、「ようにする」としか書けない。
◇
翌朝。
俺は、玉を呼んだ。そして、その紙を渡した。
玉は、受け取って、読んだ。長いこと、読んでいた。四条目のところで、読む速さが落ちたのが分かった。
やがて、顔を上げた。目が、赤かった。
「父上」
「なんだ」
「四条目は、いただけませぬ」
「――なぜだ」
「『父を捨てよ』とございます。わたくしは、捨てませぬ」
「捨てねば、死ぬ」
「存じております」
玉は、紙を膝に置いた。
「父上。書き換えていただけませぬか」
「どう書き換える」
玉は、しばらく考えた。
「『捨ててもよい』と」
俺は、動きを止めた。
「『捨てよ』では、命でございます。『捨ててもよい』であれば、選べます」
玉は、俺を見た。
「――わたくしに、選ばせてくださいませ」
俺は、しばらく答えられなかった。
(そうか)
俺は、また同じことをしていた。守るために、決めてしまう。本人から、選ぶ権利を奪う。取次役のときと同じだ。あのとき玉は「当人が伝えよと申したこと」と書いて、主導権を本人に戻した。今、また戻された。
勝率、零。板は正しい。
筆を取り、書き直した。
――四、明智と細川が敵となりし場合、おぬしは父を捨ててもよい。誰も、それを咎めぬ。父も、咎めぬ。
玉は、その紙を受け取った。
「父上。ありがとうございます」
紙を懐に入れ、少し笑った。
「――一生、持っております」




