第78話 与一郎という若者
細川忠興は、二十歳だった。
部屋に入ってきたとき、俺は少し驚いた。
(美しい)
この時代、若い武士を美しいと思うことは、そう珍しくない。だが、この男は、群を抜いていた。整った顔立ち。姿勢が良い。所作も、父に似て優雅だ。
「細川与一郎にござる」
声も、良かった。
だが。
(目が)
落ち着きがない。視線が、細かく動く。俺を見て、父を見て、床を見て、また俺を見る。まるで、部屋のどこに敵がいるかを探している目だ。
視界の隅で、板が浮かんだ。
細川忠興 二十歳
統率60│戦術75│政務実務55
交渉外交45│人望50│学習適応70
◆特記事項
癇癪 95
教養 80
玉への勝率 0
俺は、最後の項目で、目を疑った。
(勝率、零)
まだ会ってもいないはずだが。この板は、ときどき、俺より先のことを知っている。
「明智日向守にござる」
俺は、平伏した。忠興は、慌てて平伏を返した。
「こ、これはご丁寧に」
俺は、顔を上げた。半刻の歌の話は、この若者には要らないだろう。単刀直入に言った。
「与一郎様。娘のことにございます」
忠興の顔が、赤くなった。
(ああ)
俺は、少し安心した。この反応は、悪くない。
「伺い申した。父より、聞いており申す」
「いかがお考えでございますか」
忠興は、しばらく黙っていた。
「父が決めることにござる」
俺は、少し眉を寄せた。
「与一郎様のお考えを、伺っております」
「それがしの考えは――」
口ごもった。
「――ござらぬ」
俺は、黙った。
(嘘だ)
この男は、考えを持っている。持っているが、言わない。
(なぜだ)
俺は、藤孝を見た。この人は、扇で口元を隠していた。目は、息子ではなく、俺を見ていた。
(父の前だからか)
二十年前、坂本に来たばかりの信忠と同じだ。父の顔色を見て、自分の考えを言わない。言えば、父の考えと違うかもしれない。違えば、叱られる。ならば、言わない。
「兵部大輔様」
「は」
俺は、平伏した。
「与一郎様と、二人で話させていただけませぬか」
藤孝の扇が、止まった。
「二人で、と」
「はい。――父御の前では、話せぬこともございましょう」
藤孝は、しばらく俺を見ていた。それから、扇を閉じた。
「日向守どの。そなたは、まことに面倒なお方にござるな」
この人は、立ち上がった。部屋を出る前に、息子を見た。
「与一郎。無礼のなきように」
忠興は、平伏した。
◇
二人になった。
俺は、しばらく黙っていた。忠興も、黙っていた。沈黙が、長く続いた。忠興の指が、袴の膝のあたりを、細かく叩いている。
やがて、俺は言った。
「与一郎様。酒は、召されますか」
忠興は、面食らった顔をした。
「――は」
「お飲みになりますか」
「た、嗜み申す」
「では、飲みましょう」
俺は、そう言って、酒を頼んだ。
二十年前、面談で誰も本音を言わなかったとき、俺は場所を書院から庭に変えた。今日は、庭がない。ならば、盃だ。
二杯目で、忠興が口を開いた。
「日向守どの。一つ、伺ってよろしいか」
「なんなりと」
忠興は、言いにくそうにした。
「玉どのは、どのようなお方にござるか」
俺は、少し笑った。
「難しゅうございます」
忠興の顔が、こわばった。
「難しい、と」
「はい。理屈をこねまする」
「理屈」
「それがしの申すことに、いちいち穴を見つけまする」
忠興は、しばらく黙っていた。
「それは――厄介にござるな」
「厄介にございます」
「日向守どのは、どうなされる」
「負けまする」
忠興が、動きを止めた。
「負ける、と」
「はい。親でございますが、負けまする。だいたい、娘のほうが正しゅうございますゆえ」
俺は、盃を置いた。
嫁ぐ者の覚の五条目を思い出していた。あれで、俺は負けた。取次役の主導権を、家から本人へ移された。反論は、思いつかなかった。
「日向守どの。それは、恥ずかしゅうござらぬか」
「恥ずかしゅうございます」
「では、なにゆえ認められる」
「認めねば、次から言うてくれませぬゆえ」
忠興は、動きを止めた。
「与一郎様。それがしは、家中の者にも同じことを申しております。『間違いを申せ』と。『咎めぬ』と。――ですが、一度でも咎めれば、二度と言うてくれませぬ」
忠興は、しばらく盃を見ていた。
「――それがしは、できぬかもしれ申さぬ」
「と、申されますと」
忠興は、目を伏せた。
「それがしは、癇が強うござる」
俺は、驚いた。
(自分で言うのか)
板に癇癪九十五と出ている。だが、それを本人が言うとは思わなかった。
「父にも、よう叱られ申す。腹が立つと、抑えが利かぬ」
忠興は、盃を握った。指の関節が白くなった。
「――刀を抜きかけたことも、ござる」
俺は、しばらく黙っていた。
それから、聞いた。
「与一郎様。腹が立つのは、どういうときでございますか」
忠興は、少し考えた。
「見くびられたときにござる」
俺は、書き取るように、頭に留めた。
「他には」
「思うようにならぬとき。――そして、恥をかいたとき」
三つ。俺は、頷いた。
「与一郎様。それは、癇癪ではございませぬ」
忠興が、顔を上げた。
「――誇りにございます」
忠興は、動かなかった。
「見くびられて腹が立つのは、己を高く見ておられるゆえ。思うようにならぬと腹が立つのは、思う通りにする力があるゆえ。恥をかいて腹が立つのは、恥を知っておられるゆえ」
俺は、盃を置いた。
「ですが。――誇りは、刀を抜かせまする。そして、抜いた刀は、たいてい、いちばん近い者に向きまする」
部屋が、静かになった。
いちばん近い者。玉だ。それを、俺も忠興も、口に出さなかった。
やがて、忠興は言った。
「日向守どの。――それがしに、玉どのを渡してよろしいのか」
俺は、すぐには答えなかった。
(良い問いだ)
この男は、自分の危うさを知っている。知っていて、それでも問うている。危うさを知らない者より、はるかに良い。上様は、二十年前、自分の危うさを知らなかった。
「一つ、お願いがございます」
「何にござる」
「怒られたら、部屋を出てくださいませ」
忠興が、目を瞬いた。
「腹が立ったら、その場を離れてくださいませ。半刻でよろしゅうございます。庭に出るなり、馬を走らせるなり」
「――それだけにござるか」
「それだけにございます」
俺は、続けた。
「与一郎様。癇は、直りませぬ。五十になっても、直りませぬ。――それがしも、直っておりませぬ」
忠興が、顔を上げた。
「日向守どのが」
「はい」
「そのようには、見え申さぬ」
俺は、少し笑った。
「離れておりますゆえ。腹が立つと、それがしは書付を書きまする。紙に向かえば、相手の顔が見えませぬ」
三十七ページの資料は、そうやって書いた。社長の顔が見えない場所で。あれは、たぶん、五度目の癇癪だった。
忠興は、しばらく考えていた。
「それは、逃げではござらぬか」
俺は、動きを止めた。
(突いてきた)
この男、頭は悪くない。教養八十は、飾りではない。
「逃げにございます」
俺は、認めた。
「ですが。――逃げねば、斬りまする」
忠興は、答えなかった。
「与一郎様。人は、直りませぬ。ですが、逃げ方は覚えられまする。――それだけで、人は死なずに済みまする」
俺は、盃を空けた。
◇
その夜、遅く。
忠興は、ずいぶん飲んだ。父がいないところで飲む酒は、進むらしい。
酔った勢いで、こう言った。
「日向守どの。それがし、歌を詠み申す」
「伺いましょう」
忠興は、しばらく考えた。庭の梅を見て、詠んだ。
俺は、その歌を聞いて、黙った。
(上手い)
素人の俺にも、分かった。型が整っているだけではない。この若者が、盃の上で俺に言えなかったことが、三十一文字の中に入っていた。
「与一郎様。お見事にございます」
「いや、拙うござる」
忠興は、赤くなった。それから、俺を見ずに、言った。
「玉どのは、歌を詠まれるか」
「詠みまする」
「上手にござるか」
俺は、少し考えた。それから、正直に言った。
「それがしよりは」
忠興は、しばらく黙っていた。
「日向守どの。玉どのに、お伝え願いたい」
俺は、顔を上げた。
忠興は、少し目を伏せて、言った。
「――『歌を、教えていただきたい』と」
俺は、盃を置いた。
(勝率、零)
板は、正しい。だが、この男は、負けることから始めようとしている。それは、たぶん、悪いことではない。




