第77話 歌に詠みにくい話
天正十一年、二月。
俺は、丹後へ行った。細川藤孝に会うためだ。
坂本から丹波を抜け、山を越える。二日の道だ。丹波の道は、六年前より良くなっていた。道普請を続けた成果が、こういうときに分かる。荷が通る道は、人も通れる。
宮津の城で、迎えられた。
細川藤孝。五十になる。典雅な人だ。所作に隙がない。言葉遣いが、優雅すぎるほど優雅だ。足利の御所で育ち、公方様に仕え、公方様を見限って上様についた。そういう経歴の人が、こういう言葉遣いをするのだと、俺はこの人に会うたびに思う。
「日向守どの。よくぞお越しくださった」
「兵部大輔様。ご無沙汰しております」
まず、茶を飲んだ。
次に、歌の話をした。この冬の連歌の座のこと。都で流行っている歌のこと。藤孝は、俺が知らない歌人の名を、いくつも挙げた。俺は、この体の記憶を探りながら、相槌を打った。
半刻。
(本題に入らない)
俺は、しびれを切らしかけた。安土の評定なら、この間に三つは決まっている。だが、これがこの人のやり方だと知っていた。本題の前に、相手の器を測る。測り終えるまで、本題に触れない。
(待つしかない)
やがて、藤孝が言った。
「日向守どの。ひとつ、詠んでみられぬか」
俺は、面食らった。
「歌を、でございますか」
「さよう。題は、『縁』にてどうか」
(試されている)
この時代、教養は身分の証だ。歌が詠めるかどうかで、その人物が測られる。そして、この人は、その物差しの持ち主だ。
俺は、この体の記憶を探った。明智光秀は、歌を詠む。連歌の座にも出ている。指を折れば、五七五の型は出てくる。だが、俺自身は――前世でも、蜀でも――一度も詠んだことがない。型は体が覚えている。中身は、俺には作れない。
下手でも詠めば、この場は収まる。俺は、それを知っていた。
そして、正直に言うことにした。
「兵部大輔様。それがしは、下手にございます」
藤孝の眉が、動いた。
「ほう」
「ゆえに、詠みませぬ」
俺は、平伏した。
「代わりに、申し上げたきことがございます」
藤孝は、しばらく黙っていた。扇の骨を、指で一本ずつ確かめるように撫でている。
「日向守どの。それは、面白い」
「――と、申されますと」
「普通は、下手でも詠み申す。下手と申せば、見くびられるゆえ」
藤孝は、扇を開いた。
「そなたは、見くびられても構わぬと申されるか」
「構いませぬ」
「なにゆえ」
「歌が下手なことは、事実にございます。事実を隠せば、いずれ露見いたします。露見すれば、他のことも疑われまする」
これは、前世の営業部長の教えだった。分からないことを分かったふりで通すと、分かっていることまで疑われる。あの人は、社長に潰された。だが、教えは正しかった。
藤孝は、扇を閉じた。
「日向守どの。――倅のことでござるな」
「さようにございます」
俺は、書付を出した。二つある。
婚姻の儀、覚書。全十一箇条。
嫁ぐ者の覚。玉の書いたものだ。玉の名を、末尾に書いてある。
「お読みくださいませ」
藤孝は、両方を読んだ。驚くほど速く読む。この人は、公方様の文書を何百通と扱ってきた人だ。読む速さで、それが分かる。
玉の書付のところで、手が止まった。
「日向守どの。これは、どなたが」
「娘にございます」
「――十九、と伺い申したが」
「十九にございます」
「十九で、これを」
藤孝は、しばらく書付を見ていた。そして、扇で口元を隠した。
「これは――」
少し、間があった。
「――歌に詠みにくうござるな」
俺は、身構えた。
(反対の意だ)
俺は、この人の言葉遣いを知っている。丹波の国衆に「風雅の心が足りぬ」と言ったときは、使い物にならぬという意味だった。「歌に詠みにくい」は、賛成できない、だ。
「兵部大輔様。何がご不満でございましょうか」
藤孝は、扇を下ろした。
「不満ではござらぬ。――恐ろしいのでござる」
「恐ろしい、と」
「さよう」
藤孝は、書付を置いた。
「日向守どの。この覚書には、両家が敵となりし場合のことが書いてござる」
「書いております」
「なにゆえ、書かれた」
「起こりうるゆえにございます」
「起こると思うておられるか」
「思うておりませぬ。されど、起こらぬとも思うておりませぬ」
藤孝は、しばらく黙っていた。
「日向守どの。それを、婚姻の前に申されるのは――縁起が悪うござる」
俺は、平伏した。
「仰せの通りにございます」
「分かっておられて、なされるか」
「なします。なにゆえそれを言うのか、お聞きくださいませ」
俺は、話した。
浅井長政とお市のこと。織田と浅井のあいだに、決め事が一つもなかったこと。小谷が落ちた日、お市と娘たちをどうするか、誰も決めていなかったこと。お市が生きたのは、上様がその場でそう決めたからにすぎないこと。そして、男子は、誰も決めなかったから死んだこと。
藤孝は、黙って聞いていた。扇は、膝の上で止まっていた。
俺が話し終えると、この人は言った。
「日向守どの。そなた、市どのに会われたか」
「会いました」
「何度」
「二度にございます」
藤孝は、しばらく黙っていた。
「それがしも、会うたことがござる。――嫁がれる前にな。足利の御所で、一度」
この人は、少し目を伏せた。
「明るいお方であった」
俺は、その言葉を聞いていた。
「あの頃、それがしは足利に仕えており申した。公方様がおられ、諸家が集まり、歌の座がござった。――皆、明るゅうござった」
藤孝は、しばらく黙っていた。
「今、その者どもは、どこにおる」
俺は、答えられなかった。
「浅井備前守どのは、滅び申した」
藤孝は、指を折った。
「朝倉どのも、滅び申した。三好左京大夫どの――義継どのも。松永弾正どのも。荒木どのも」
指が、五本折れた。
俺は、その五本を見ていた。
(――三好)
この家は、俺が転生する三年前に終わっている。この体の記憶にも薄い。だが、この人には、指を折るほど近い名らしい。
「兵部大輔様。三好様は、どのようなお方でございましたか」
藤孝は、少し目を伏せた。
「――座におられた。歌を詠まれた。それだけにござる」
この人は、続けた。
「それだけの方が、二十六で腹を召された。若狭の細川と、三好と、どこで分かれたのかは、それがしにも分かり申さぬ」
俺は、その一言を書き留めたくなった。
(――どこで分かれたのか、分からない)
滅んだ側と残った側の差は、後からでも説明がつかないことがある。
説明がつかないから、残った側は、いつまでも半歩引いている。
「――そして、公方様は、備後におられる」
足利義昭。十五代の将軍である。
滅んではいない。滅んではいないが、京にはおられぬ。
(――いちばん、始末に困る形だ)
俺は、寒気を覚えた。
(この人は)
全部、見てきた。歌の座に集まった者たちが、一人ずつ消えていくのを、見てきた。繁栄も、滅亡も。
(だから、半歩引いている)
この人の優雅さは、飾りではない。半歩引いた場所から世を見るための、距離の取り方だ。
「兵部大輔様。――なにゆえ、細川の家は残っておられるのでございましょうか」
藤孝は、しばらく黙っていた。
「決めなんだゆえにござる」
俺は、顔を上げた。
「決めれば、どちらかにつく。どちらかにつけば、負けたときに滅び申す。――ゆえに、決めなんだ」
俺は、その言葉を、しばらく考えた。
(そうか)
この人は、決断を避けることで生き延びてきた。公方様と上様のあいだで、最後まで態度を明かさず、明かしたときには、もう勝敗が見えていた。それは、卑怯ではない。
(生存戦略だ)
そして、俺は、拳を握った。
(俺は、この人の家に娘を送る)
決めない家に、決めた娘を送る。
「兵部大輔様。一つだけ、お約束いただきとうございます」
「何でござろう」
俺は、顔を上げた。
「明智と細川が敵となりし場合。――玉を、殺さぬと」
部屋が、静まり返った。
藤孝は、動かなかった。扇も動かなかった。庭の梅の枝が、風で一度、揺れた。
長い沈黙のあとで、この人は言った。
「日向守どの。それは、約束できかね申す」
俺は、その答えを予想していた。
(正直だ)
この人は、嘘をつかない。「約束する」と言えば、この場は収まる。収めないところが、この人だ。
「なにゆえ、でございましょうか」
「それがしが決めることではないゆえにござる」
「――と、申されますと」
「倅にござる」
藤孝は、言った。
「玉どのの夫となるのは、与一郎にござる。それがしではござらぬ」
俺は、動きを止めた。
(そうだ)
俺は、藤孝と交渉している。家と家の話だ。だが、玉が嫁ぐのは、忠興のところだ。玉が朝起きて顔を合わせるのは、藤孝ではない。当事者は、忠興だ。
俺は、また同じ間違いをしていた。橋の話を、橋の両岸だけでしている。
「兵部大輔様。与一郎様に、お会いしとうございます」
藤孝の扇が、止まった。
「倅に、でござるか」
「はい」
「なにゆえ」
「当人と、話さねばなりませぬ。娘とも、話しました。婿とも、話しまする」
藤孝は、しばらく黙っていた。それから、扇で口元を隠したまま、言った。
「日向守どの。そなた、面倒なお方にござるな」
俺は、少し笑った。
「よく言われます」
藤孝は、扇を開いた。
「呼び申そう。――ただし、覚悟なされよ」
「――は」
「倅は、短気にござる」




