第76話 玉の書いた紙
俺は、その紙を受け取った。
六年前、俺が渡した白紙の半分。玉が「嫁ぐ日までに書く」と言った、あの半分だ。裂いた縁が、六年のあいだに手擦れで丸くなっている。懐に入れて、何度も出し入れしたのだろう。
開いた。
冒頭に、五文字あった。
――嫁ぐ者の覚。
俺は、その五文字を見て、しばらく動けなかった。
(俺の書付と、対だ)
俺が書いたのは「婚姻の儀、覚書」だ。家が守るべきことを、十一箇条に書いた。取次役を置け、人質にするな、両家の約束は紙にせよ。全部、家の側の話だ。
玉が書いたのは、嫁ぐ本人が何をすべきか、だった。
俺は、読み始めた。
――一、嫁ぐ前に、婚家の内を知るべきこと。誰が実権を持つか。誰と誰が仲が悪いか。誰が金を握っておるか。これを知らずに嫁げば、何も見えぬまま日を過ごすことになる。
一条目で、唸った。
(実務的だ)
これは、俺が新しい組織に入るたびに最初にやることだ。前の会社でも、蜀でも、坂本でもやった。まず上を見に行け。組織の形は、一番上にいる人間の形で決まる。誰にも教えていない。教えていないのに、書いてある。
――二、嫁ぎ先で、己の役目を作るべきこと。嫁は、客ではない。役目がなければ、居場所がない。炊事でも、帳面でも、子の教えでもよい。人が困っておることを引き受けよ。
二条目で、少し笑った。
(役目書だ)
この娘は、俺が家中に配った役目書の考え方を、そのまま自分の身に当てはめている。役目のない者は、家中にいても家中の者ではない。滝川様の「便利な者は、いざというとき居場所がない」を、まだ十九のこの娘は、嫁の側から見て書いている。
――三、実家の話を、婚家でしすぎぬこと。「明智では」と申せば、婚家の者は面白く思わぬ。良きことは、由来を言わずに使うべし。
三条目で、手が止まった。
(――PMIだ)
丹波で、俺が国衆に対してやったことと同じだ。服属した家に、こちらのやり方を押し付けない。良いものは、由来を言わずに広める。「明智のやり方だ」と言った瞬間に、相手は従わされたと感じる。
(誰も、教えていない)
俺は、丹波の覚を家中に読ませていない。この娘は、家中の話を拾って、自分で組み立てた。
――四、婚家の悪しきことを、実家に告げぬこと。ただし、命に関わることは除く。告げれば、実家は動く。実家が動けば、両家が揉める。嫁の役目は、揉め事を運ぶことではない。
俺は、四条目を、長いこと見ていた。
(厳しい)
これは、玉自身を縛る条文だ。困っても実家に言わない、と自分で決めている。親としては、読みたくない一行だった。
だが、その下に、小さく書き足してある。
――ただし、右の定めは、父上の覚書と噛み合わぬ。
顔を上げた。
「玉」
「はい」
「ここに、俺の覚書と噛み合わぬと書いてある」
「書きました」
玉は、頷いた。少しも臆していない。
「父上の覚書には、『取次役を置き、何かあれば実家に知らせる』とございます」
俺は、自分の書付を開いた。五箇条目。
――実家・婚家の双方に取次役を置き、互いにその存在を明らかにすること。
嫁いだ娘が孤立しないための仕組みだ。お市どのの話を聞いて、書いた。小谷が落ちるまで、織田と浅井のあいだには、お市の身の上を伝える者が一人もいなかった。
だが、玉は、それを「揉め事を運ぶ道」と見た。
「玉。おぬしは、取次役に反対か」
「いいえ。必要だと存じます」
玉は、首を振った。
「ただ、何を伝えて、何を伝えぬかを、決めておかねばなりませぬ」
俺は、身を乗り出した。
「どう決める」
玉は、紙の続きを指した。
――五、取次役に伝えるべきは、次の三つに限る。一つ、命に関わること。二つ、両家の間に関わること。三つ、当人が「伝えよ」と申したこと。右の三つ以外は、伝えぬこと。
俺は、その条文を読んで、しばらく動けなかった。
取次役は、放っておけば何でも報告する。奥方様が泣いておられた。夫君と口論なさった。飯を残された。そういうことまで、実家に届く。届けば、親は動く。
(親は、動いてしまう)
うちの娘に何をした、と。そして、両家が揉める。取次役は、娘を守るために置いた。その取次役が、娘を危うくする。
「玉。この三つ目だが」
「はい」
「『当人が伝えよと申したこと』。――これは、おぬしが決めるということか」
「そうでございます」
俺は、その意味を、ようやく理解した。
(主導権だ)
俺の書付では、取次役は「家」のためのものだ。玉の書付では、取次役は「本人」のためのものになる。何を伝えるかを、本人が決める。同じ仕組みが、誰の手に握らせるかで、別のものになる。
俺は、二十年前の会社を思い出した。人事部が作った相談窓口。相談した内容は、そのまま上司に伝わった。誰も、二度と相談しなかった。
「玉。よく書いた」
玉は、少し目を伏せた。
「――まだ、続きがございます」
俺は、紙をめくった。
――六、子ができたるとき。
その一行で、手が止まった。
――子は、婚家の子である。それは動かぬ。されど、母は、母である。それも動かぬ。両家が敵となりし場合、母は子と共にあるべし。
俺は、その三行を、二度読んだ。
(決めている)
俺が、六年かけて答えを出せなかった問いだ。子を置いて実家に戻るか。子と共に残るか。お市どのは、「どちらも失う」と言った。俺は、その言葉を書付に写しただけで、その先を書けなかった。
この娘は、決めている。
「玉。なぜ、こう決めた」
玉は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「決めておかねば、その場で迷いますゆえ」
俺は、動きを止めた。
(佐久間様の言葉と、同じだ)
退き口の講義で、あの人が言った。退くべきときは、その場では見極められぬ。見極められぬゆえ、先に線を引いておく。
「玉。おぬし、佐久間様の講義を聞いたか」
玉は、少し笑った。
「障子の外で、聞いておりました。家中の者が、皆、話しておりましたゆえ。『先に決めておけば、迷わぬ』と」
俺は、思わず笑った。佐久間様の講義は、若い家臣向けだった。障子の外に、十九の娘が座っていたとは、誰も思っていない。
笑ったあとで、笑えなくなった。
「玉。これは、辛い決めごとだ」
「存じております」
「子と共に残るということは――」
言葉を切った。その先を、俺は言えなかった。
玉が、代わりに言った。
「死ぬかもしれぬ、ということでございます」
俺は、答えられなかった。
「父上。わたくしは、市どののお話を伺いました」
「――いつだ」
「母上から」
俺は、煕子を見た。この人は、部屋の隅で、目を伏せていた。
「煕子。話していたのか」
「話しておりました」
煕子は、顔を上げた。
「あなた様は、話されませぬゆえ」
俺は、平伏しそうになった。
(そうか)
俺は、お市に会った。話を聞いた。書付に書いた。写しを取った。だが、玉には、一度も話していない。書付を通じてしか、伝えていなかった。娘に。
(煕子が、繋いでいた)
俺が書いて、煕子が話した。そうやって、この家は動いていた。俺はその半分しか知らなかった。
「玉。市どのの話を聞いて、なぜこう決めた」
玉は、しばらく黙っていた。
「市どのは、生きておられます。三人の娘御と共に、生きておられます」
俺は、頷いた。
「けれど、男子は」
玉は、そこで言葉を切った。
俺は、その先を言わせなかった。
「玉。それは、市どのの咎ではない」
「存じております」
玉は、頷いた。
「ゆえに、決めておくのでございます。――誰の咎でもないことが起きるゆえ」
俺は、その紙を、そっと畳んだ。
誰の咎でもないことが起きる。だから、備える。俺が二十年かけて言おうとしていることを、この娘は、一枚の紙の六条目で言った。
「玉。この紙を、写してよいか」
「どうぞ」
「他の者にも、読ませたい」
玉は、少し驚いた顔をした。
「他の者、と申されますと」
「――嫁ぐ娘、全員にだ」
玉は、しばらく黙っていた。それから、言った。
「父上。一つだけ、条件がございます」
「なんだ」
「書いた者の名を、書いてくださいませ」
俺は、少し驚いた。
「半兵衛様は、名を書かぬと申された。『竹中半兵衛の策』になれば、皆が真似をするゆえ、と」
玉は、少し考えた。
「それは、策だからでございましょう」
俺は、顔を上げた。
「これは、策ではございませぬ。――これは、生き方でございます」
玉は、続けた。
「生き方には、書いた者の名が要ります。名がなければ、誰も信じませぬ」
俺は、動けなかった。
(そうか)
半兵衛の書付は、技術だった。誰が書いたかより、中身が大事だ。名を消せば、誰の策でもない策になって、誰でも使える。
だが、玉の書付は違う。「こう生きた者がいる」ということ自体が、内容なのだ。名を消せば、ただの説教になる。名があれば、十九の娘が、嫁ぐ前にこれを書いた、という事実が残る。それが、次に嫁ぐ娘の背中を押す。
「玉。分かった。――名を書く」
玉は、頷いた。そして、少し笑った。
「父上」
「なんだ」
「白紙の、もう半分は」
俺は、動きを止めた。
(俺の半分だ)
六年前、俺が受け取った、あの半分。書院の文箱の底に、あのまま入っている。
(まだ、白紙だ)
「嫁ぐまでに、お書きくださいませ」
「――何を書けばよい」
玉は、少し首を傾げた。煕子と同じ角度だった。
「父上が、わたくしに約束できることを」




