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天才創業者・織田信長の下で潰れる前に、本能寺が起きない組織を作ります~MBAホルダー明智光秀の事業承継計画  作者: 東雲 諒杏
第八章 功のない者と、嫁ぐ者

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第75話 煕子の怒り


 坂本に戻った俺は、書付を書き直した。

 三日かけた。

 ――婚姻の儀、覚書。全十一箇条。

 六年前の五箇条が、十一になっていた。

 俺は、それを持って、玉のところへ行った。

 だが、玉はいなかった。

「お嬢様は、奥にございます」

 侍女が、そう言った。

「呼んでくれ」

「お方様と、ご一緒でございます」

 俺は、少し首を傾げた。

 奥へ行くと、煕子と玉が、向かい合って座っていた。

 二人とも、俺を見た。

 そして――

 (――何かあった)

 俺は、そう察した。

 空気が、違う。

「邪魔をしたか」

「いいえ」

 煕子が、そう言った。

 だが、声が、いつもと違った。


    ◇


「あなた様。お座りくださいませ」

 俺は、座った。

 煕子は、しばらく黙っていた。

 そして、こう言った。

「玉の縁組のことでございます」

「うむ」

「お聞かせいただけますか」

 俺は、書付を出した。

「書き直した。十一箇条になった」

 煕子は、その書付を取った。

 そして、読んだ。

 長いこと、読んでいた。

 やがて、顔を上げた。

 その顔を見て、俺は――

 (――怒っている)

 初めて、そう思った。

「あなた様」

「うむ」

「ひとつ、伺ってもよろしゅうございますか」

「言ってくれ」

 煕子は、書付を置いた。

 そして、こう言った。

「この書付に、玉の名は、幾つ出てまいりますか」


    ◇


 俺は、面食らった。

「名、とは」

「『玉』という名にございます」

 煕子は、静かに言った。

「この書付を、わたくしは読みました。十一箇条、全部でございます」

 この人は、続けた。

「『嫁ぐ者』とございます。『本人』とございます。『娘』ともございます」

 煕子は、俺を見た。

「けれど、『玉』とは、一度も書かれておりませぬ」

 俺は、答えられなかった。

 (――そうか)

 書付というのは、そういうものだ。

 誰にでも使えるように書く。だから、固有名詞を入れない。

 ――「嫁ぐ者」と書く。

 それが、正しい書き方だ。

「煕子。これは、決まりだ」

 俺は、そう言った。

「決まりは、誰にでも当てはまるように書かねばならぬ」

「玉のためだけの決まりなら、他の者には使えぬ」


    ◇


 煕子は、しばらく黙っていた。

 そして、こう言った。

「存じております」

 俺は、顔を上げた。

「わたくしとて、二十年、帳面をつけております」

 煕子は、言った。

「決まりの書き方くらい、分かります」

 この人は、書付を指した。

「わたくしが申しておるのは、そういうことではございませぬ」

 煕子は、俺を真っ直ぐ見た。

 そして、言った。

「あなた様は、玉と、何刻お話しになりましたか」

 俺は、動きを止めた。

「この一月にございます」

 煕子は、続けた。

「縁組の話が来てから、この一月」

 俺は、答えようとした。

 そして――

 (――数えられる)


    ◇


 一度だ。

 六年前の約束を果たすために呼んだ、あの一度だけ。

 その後、俺は安土へ行った。お市に会った。書付を書き直した。

 (――全部、玉のためだ)

 だが。

 (――玉と、話していない)

「一度だ」

 俺は、そう答えた。

 煕子は、頷いた。

「さようでございましょう」

 この人は、静かに言った。

「あなた様は、この一月、必死でございました」

 煕子は、続けた。

「安土へ行かれ、市どのに会われ、書付を書き直された」

 この人は、俺を見た。

「全部、玉のためでございましょう」

「そうだ」

「でしょうね」

 煕子は、そこで一度、息を吸った。

 そして、言った。

「あなた様。玉は、十九でございます」

 俺は、顔を上げた。

「あと数月で、この家を出ます」

 煕子は、言った。

「一生、帰ってまいりませぬ」


    ◇


 俺は、その言葉に、動けなくなった。

 (――一生)

 この時代、嫁いだ娘が実家に戻ることは、ほとんどない。

 離縁でもなければ。

 ――つまり、不幸でもなければ。

「あなた様は、玉を守るための決まりを、十一箇条もお作りになりました」

 煕子は、言った。

「立派なことでございます」

 この人は、少し目を伏せた。

「けれど――」

「あと数月しかないのでございますよ」

 煕子の声が、初めて、揺れた。

「その数月を、書付に使われるのですか」

 俺は、答えられなかった。

「あなた様が守ろうとしておられるのは、二十年後の玉でございます」

 煕子は、言った。

「今の玉ではございませぬ」


    ◇


 俺は、平伏しそうになった。

 だが、煕子が続けた。

「あなた様。わたくしは、六年前に死ぬはずでございました」

 俺は、顔を上げた。

「あのとき、あなた様は決まりをお作りになりました。桶の水を替え、部屋を分け、看る者を四人に定めて」

 煕子は、続けた。

「それで、わたくしは生きております」

 この人は、俺を見た。

「けれど」

 煕子は、こう言った。

「あのとき、あなた様は、部屋に入ってこられませんでした」

 俺は、動きを止めた。

「ご自分でお作りになった決まりゆえ、と」

 煕子は、言った。

「障子の外に、毎晩座っておられました」

 この人は、少し笑った。

「嬉しゅうございました」


    ◇


 俺は、その「嬉しゅうございました」の後を、待った。

 煕子は、こう言った。

「けれど、寂しゅうございました」

 俺は、答えられなかった。

 煕子は、続けた。

「あなた様は、いつもそうでございます」

 この人は、言った。

「人を守るための決まりを作り、その決まりのために、人から離れられます」

 煕子は、俺を見た。

「それは、優しさでございましょうか」

 部屋が、静かになった。

 玉は、何も言わなかった。

 ただ、俺を見ていた。

 俺は――

 (――言い返せない)

 俺は、しばらく黙っていた。

 そして、言った。

「煕子。俺は、逃げていた」

 煕子は、答えなかった。

「決まりを作るのは、易しい」

 俺は、続けた。

「紙に向かえばよい。相手の顔を見ずに済む」

 俺は、拳を握った。

「話すのは、難しい」


    ◇


 俺は、顔を上げた。

「玉と話せば、俺は、この縁組が正しいかどうかを、もう一度考えねばならぬ」

 俺は、言った。

「それが、怖かった」

 煕子は、しばらく黙っていた。

 そして、こう言った。

「あなた様」

「うむ」

「ようやく、まことのことを仰せになりました」

 俺は、玉を見た。

 この娘は、ずっと黙っていた。

「玉」

「はい」

「話をしよう」

 玉は、少し首を傾げた。

「何のお話でございますか」

 俺は、答えた。

「決まらぬ話だ」

 その日から、俺は毎晩、玉と話した。

 書付の話は、しなかった。

 代わりに、こんな話をした。

 ――玉が小さかった頃のこと。

 俺は、この体の記憶を辿った。

 断片的だった。だが、いくつか出てきた。

 三つの頃、蔵に入り込んで米俵の上で眠っていたこと。

 五つの頃、字を教えろとせがんで、母を困らせたこと。


    ◇


「父上。よく覚えておられますね」

 玉が、そう言った。

 俺は、答えた。

「思い出した」

「忘れておられたのですか」

「忘れていた」

 俺は、正直に言った。

「六年前に、病んでからな」

 玉は、しばらく黙っていた。

 そして、こう言った。

「父上。伺ってもよろしいですか」

「なんだ」

「父上は、あの病で、何を拾ってこられたのですか」

 俺は、動きを止めた。

 (――上様と、同じことを聞く)

 俺は、しばらく答えを探した。

 そして、言った。

「怖さだ」

 玉が、顔を上げた。

「怖さ、でございますか」

「そうだ」

 俺は、続けた。

「病む前の俺は、何も怖くなかった。上様に仕え、丹波を攻め、それで良いと思っていた」

「病んで、目が覚めたとき、全部が怖くなった」


    ◇


 玉は、しばらく黙っていた。

 そして、こう言った。

「何が、いちばん怖いのですか」

 俺は、答えた。

「間に合わぬことだ」

「俺は、いろいろ作った。書付を作り、決まりを作り、仕組みを作った」

「だが、全部、間に合うかどうか分からぬ」

 俺は、玉を見た。

「波多野どのには、間に合わなんだ。荒木どのにも、間に合わなんだ」

 俺は、拳を握った。

「佐久間様には、ぎりぎりだった」

 玉は、しばらく黙っていた。

 そして、こう言った。

「父上」

「なんだ」

「わたくしには、間に合っております」

 俺は、顔を上げた。

 玉は、少し笑っていた。

「六年前、父上は白紙をくださいました」

 この娘は、言った。

「あれから、六年ございました」


    ◇


 玉は、懐から紙を出した。

 半分に裂かれた、あの白紙だった。

 もう、白紙ではなかった。

 びっしりと、字が書いてある。

「玉。これは」

「わたくしが書いたものでございます」

 玉は、それを差し出した。

「父上に、お渡しいたします」


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