第74話 市どのの答え
俺は、玉の問いに答えられなかった。
三日、考えた。
そして――
(――俺には、分からぬ)
俺は、そう認めた。
俺は、経験がない。
嫁いだこともない。子を置いて実家に戻ったこともない。
(――知っている者に、聞くしかない)
俺は、安土へ行った。
そして、面会を願い出た。
――お市どのに。
六年ぶりだった。
お市は、三十半ばを過ぎていた。
今度は、御簾がなかった。
最初から、顔が見えた。
「日向守どの。久しゅうございます」
「ご無沙汰しております」
俺は、平伏した。
視界の隅を、意識した。
――やはり、板は浮かばない。
(――なぜだ)
六年前と、同じだ。
この人にだけ、能力の板が出ない。
俺は、その理由を、まだ掴めていなかった。
◇
「日向守どの。何用でございましょう」
俺は、平伏した。
そして、正直に言った。
「娘の縁組のことにございます」
お市の目が、動いた。
「ご息女の」
「はい」
俺は、顔を上げた。
「細川の家より、話が参りました」
お市は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「めでたきことにございます」
「さようでございましょうか」
俺は、そう問うた。
お市の眉が、動いた。
「めでたくないと」
俺は、答えた。
「分かりませぬ」
俺は、玉との話を、そのまま伝えた。
六年前の問い。今回の縁組。書付の五箇条。
そして――
「娘に、こう問われました」
「『両家が敵になったとき、明智に戻ることが、わたくしにとって良いことでしょうか』と」
俺は、続けた。
「『子がおれば、置いていくことになります』と」
◇
お市は、動かなかった。
長い沈黙があった。
やがて、この人は言った。
「日向守どの」
「は」
「ご息女は、聡いお方でございますね」
俺は、頷いた。
「親に似ぬほどに」
お市は、少し笑った。
そして、笑いを収めて、こう言った。
「お答えいたします」
「わたくしは、三人の娘を連れて小谷を出ました」
お市は、静かに言った。
「連れて出られたのは、娘だからでございます」
俺は、顔を上げた。
「と、申されますと」
「男子であれば、連れては出られませぬ」
俺は、その言葉に、背筋が冷えた。
(――そうだ)
浅井長政には、男子がいた。
万福丸。
――小谷が落ちた後、殺されている。
「万福丸様は」
「申しませぬ」
お市は、そう言った。
声は、平坦だった。
だが。
(――手が、動いた)
膝の上の手が、わずかに動いた。
◇
俺は、平伏した。
「申し訳ございませぬ」
「よろしいのです」
お市は、言った。
「日向守どのは、答えを求めておられます」
この人は、続けた。
「ならば、答えねばなりませぬ」
お市は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守どの。ご息女の問いに、答えはございませぬ」
俺は、顔を上げた。
「子を置いて戻れば、母は生きます。されど、母ではなくなります」
お市は、静かに言った。
「子と共に残れば、母のままです。されど、生きられませぬ」
この人は、俺を見た。
「どちらも、失うのです」
◇
俺は、答えられなかった。
お市は、続けた。
「ゆえに、その問いに答えを出そうとなさってはなりませぬ」
俺は、顔を上げた。
「では、いかがすれば」
お市は、こう言った。
「そうならぬようになさいませ」
俺は、動きを止めた。
「両家が敵になったとき、どうするか」
お市は、言った。
「それを考えるのは、大事なことでございます」
この人は、続けた。
「けれど、それは最後の手立てにございます」
お市は、俺を見た。
「日向守どのは、最後の手立てばかりお考えです」
俺は、その言葉に、頭を殴られたような気がした。
(――そうだ)
俺は、ずっとそうしてきた。
――倒れたときのために、書付を作る。
――負けたときのために、退き口を学ぶ。
――上様がおられなくなったときのために、仕組みを作る。
全部、最悪への備えだ。
(――そして)
俺は、拳を握った。
(――最悪が来ないようにする努力を、していない)
◇
「市どの」
「はい」
「両家が敵にならぬようにするには、いかがすればよろしいのでしょうか」
お市は、少し笑った。
「難しいことではございませぬ」
「と、申されますと」
この人は、こう言った。
「行き来をなさいませ」
俺は、面食らった。
「行き来、でございますか」
「はい」
お市は、続けた。
「浅井と織田が敵になった折、両家の間に、行き来がございませんでした」
この人は、言った。
「兄は、備前守どのに会いに来られませんでした」
お市は、続けた。
「備前守どのも、兄のもとへは行かれませんでした」
◇
俺は、書き取り始めた。
「使者はございました。文もございました」
お市は、言った。
「けれど、会うてはおられませぬ」
この人は、少し目を伏せた。
「三年、囲まれておりました間も、一度も」
俺は、その言葉を書き取りながら、考えていた。
(――当たり前だ)
敵対している両家の当主が、直接会うことはない。
だが。
(――敵対する前は)
俺は、顔を上げた。
「市どの。婚姻の後、両家は行き来しておられましたか」
お市は、こう答えた。
「しておりませぬ」
「わたくしが嫁いだ後、兄が小谷に来たことは、一度もございませぬ」
お市は、言った。
「備前守どのが、岐阜に行かれたこともございませぬ」
この人は、続けた。
「使者だけが、行き来しておりました」
◇
俺は、筆を止めた。
(――そうか)
婚姻は、契約だ。
契約を結んだ後、両家は「繋がった」と思う。
だが。
(――繋がっているのは、女一人だ)
当主同士は、会わない。
家臣同士も、行き来しない。
――繋がりは、一本の細い糸だけだ。
(――その糸が切れれば、終わる)
俺は、平伏した。
「市どの。お教え、ありがたく存じます」
「お役に立ちましたか」
「立ちました」
俺は、顔を上げた。
「書付を、書き直しまする」
お市は、少し笑った。
そして、こう言った。
「日向守どの。ひとつ、伺ってもよろしゅうございますか」
「なんなりと」
「六年前、わたくしは兄への言伝を頼みました」
俺は、頷いた。
「『茶々が、大きくなりました』と」
「覚えておられますか」
「覚えております」
◇
お市は、こう言った。
「兄は、何と申しておりました」
俺は、答えた。
「何も、仰せられませなんだ」
お市の目が、動いた。
「ただ」
「しばらく、黙っておられました」
お市は、しばらく動かなかった。
やがて、こう言った。
「さようでございますか」
この人は、少し目を伏せた。
「兄らしゅうございます」
俺は、その言葉を聞いて、あることを言おうか迷った。
そして、言うことにした。
「市どの」
「はい」
「一つだけ、申し上げてよろしゅうございますか」
「どうぞ」
俺は、言った。
「六年前、上様は、それがしにこう問われました」
お市が、顔を上げた。
「『あれは、わしを恨んでおると思うか』と」
◇
お市は、動かなかった。
「それがしは、こうお答えいたしました」
俺は、言った。
「『市どのは、上様のもとへ来られました。他へ行くこともできたはずにございます』と」
お市は、しばらく黙っていた。
やがて、こう言った。
「日向守どの」
「は」
「それは、余計なことでございます」
俺は、平伏した。
「申し訳ございませぬ」
「いいえ」
お市は、少し首を振った。
そして、こう言った。
「余計なことでございますが」
この人は、庭を見た。
「嬉しゅうございました」
その帰り道。
俺は、書付を握りしめていた。
(――行き来だ)
俺は、そう思った。
制度は、書いて終わりではない。
――使い続けなければ、意味がない。
俺は、馬上で書付を開いた。
そして、六箇条目を書いた。
――一、婚姻の後、両家は年に一度、当主が直に行き来すること。
俺は、その一行を見た。
(――これは、面倒だ)
当主同士が、毎年会う。
――手間がかかる。
(――だが)
俺は、筆を止めた。
(――手間をかけている間は、敵にならぬ)




