第73話 玉、十九
天正十一年、正月。
その話は、細川藤孝から来た。
文が届いたのは、松の内が明けた頃だった。
――日向守どのへ。
――年始のご挨拶、申し上げ候。
――ところで、ひとつ、内々に申し上げたきことあり。
俺は、その先を読んで、手が止まった。
――倅・与一郎のこと、いかがお思いか。
細川忠興。
藤孝の嫡男。
――二十歳になる。
そして、俺の娘・玉は、十九になっていた。
俺は、その文を、三日、書院に置いたままにした。
読み返しもしなかった。
利三が、心配して覗きに来た。
「殿。細川様の文は」
「読んだ」
「お返事は」
「まだだ」
俺は、筆を取らなかった。
◇
(――来た)
俺は、そう思っていた。
六年前、俺は玉に言った。
――近いうちに、話が来るやもしれぬ。
あのとき、玉は十三だった。
そして、こう問うた。
――その決まりは、わたくしを守るためのものですか。それとも、わたくしを使って織田の家を守るためのものですか。
(――俺は、まだ答えていない)
四日目の朝、俺は玉を呼んだ。
書院に入ってきた娘は、十九になっていた。
背筋が伸びている。目が、真っ直ぐこちらを見る。
六年前と、同じ目だ。
「父上。お呼びと伺いました」
「座れ」
俺は、文を出した。
そして、そのまま差し出した。
◇
玉は、少し驚いた顔をした。
「拝見してよろしいのですか」
「読め」
玉は、文を取った。
そして、読んだ。
読み終えて、しばらく動かなかった。
やがて、顔を上げた。
「父上」
「なんだ」
玉は、こう言った。
「お返事は、まだですね」
俺は、頷いた。
「なにゆえ、まだなのですか」
「おぬしに、話していなかったゆえだ」
玉の目が、動いた。
そして、少し――ほんの少しだけ、表情が緩んだ。
「覚えておられたのですね」
「覚えている」
俺は、言った。
「六年前、俺は約束した。話が来たら、最初におぬしに話すと」
◇
玉は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「父上。正直に伺います」
「言え」
「この縁組は、明智の家にとって、良いものですか」
俺は、答えた。
「良い」
「どのように」
俺は、正直に言った。
「細川は、名門。足利に仕えた家であり、公家との縁も深い」
「明智は――新参」
「上様に取り立てられて、まだ十五年ほど。由緒がない」
俺は、玉を見た。
「細川と縁組すれば、明智は名門と繋がる」
玉は、頷いた。
「織田の家にとっては」
「良い」
俺は、答えた。
「細川様は、丹後を預かっておられる。明智は、丹波と近江」
俺は、地図を出した。
「隣り合っておる」
「隣同士が縁組すれば、その一帯が固まる」
◇
玉は、地図を見た。
そして、こう言った。
「では、わたくしにとっては」
俺は、答えられなかった。
(――これだ)
六年前と、同じ問いだ。
俺は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「分からぬ」
玉は、動かなかった。
俺は、続けた。
「与一郎どのという方を、俺は何度か見ている」
「どのような方ですか」
俺は、正直に言った。
「短気だ」
玉の眉が、動いた。
「才はある。歌も詠む。茶も嗜む。武辺も、悪くない」
俺は、続けた。
「だが、癇が強い」
俺は、そこで筆を置いた。
「玉。俺が知っているのは、それだけだ」
「夫としてどうかは、知らぬ」
俺は、玉を見た。
「そして、それを知る手立ては、嫁いでみるまでない」
◇
玉は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「父上。ずるうございます」
俺は、少し笑った。
「そうか」
「はい」
玉は、真っ直ぐ言った。
「『分からぬ』と仰せになれば、わたくしは決められませぬ」
俺は、その言葉に、動きを止めた。
(――そうだ)
俺は、正直に言った。だが、正直であることは、優しさではない。
「分からない」と言われた側は、判断材料を持たないまま、決めさせられる。
(――これは、逃げだ)
俺は、六年前、茶々にも同じことをした。
――「姫様がお決めになることです」と。
(――ずるい答えです、と言われた)
◇
「玉」
「はい」
「すまぬ」
俺は、頭を下げた。
玉が、驚いた顔をした。
「父上」
「俺は、逃げた」
俺は、顔を上げた。
「分からぬと言えば、正直に見える。だが、おぬしに決めさせておるだけだ」
俺は、言った。
「言い直す」
俺は、背筋を伸ばした。
そして、言った。
「玉。俺は、この縁組を受けたいと思っている」
玉の目が、動いた。
「理由は、三つある」
俺は、指を立てた。
「ひとつ。明智と細川が繋がれば、丹波と丹後が固まる。それは、この一帯の民のためになる」
「ふたつ。細川藤孝どのは、道理の分かる方だ。娘を粗略に扱う家ではない」
「みっつ」
俺は、少し間を置いた。
「俺は、細川の家に、明智の目を入れておきたい」
◇
玉が、顔を上げた。
「目、と」
「そうだ」
俺は、正直に言った。
「細川様は、常に半歩引いておられる。いざというとき、どちらにつくか分からぬ」
俺は、続けた。
「ゆえに、繋いでおきたい」
俺は、玉を見た。
「これは、おぬしを使うということだ」
部屋が、静かになった。
玉は、しばらく動かなかった。
やがて、こう言った。
「父上」
「なんだ」
「ようやく、正直に仰せになりましたね」
俺は、答えられなかった。
玉は、続けた。
「六年前、わたくしは伺いました。この決まりは、わたくしを守るためか、わたくしを使うためかと」
「覚えている」
「父上は、『両方だ』と仰せられました」
玉は、言った。
「あのときは、逃げだと思いました」
◇
俺は、顔を上げた。
玉は、こちらを見ていた。
「けれど、六年考えて、分かりました」
この娘は、言った。
「両方なのは、まことでございます」
玉は、続けた。
「わたくしを守ることと、使うことは、別のことではございませぬ」
俺は、その言葉を、腹の底で受けた。
「わたくしが細川で大事にされれば、明智と細川は固くなります」
玉は、言った。
「わたくしが粗略に扱われれば、両家は割れます」
この娘は、少し笑った。
「ならば、わたくしを守ることが、家のためでございます」
俺は、しばらく動けなかった。
(――こいつは)
十九で、そこまで見ている。
「玉」
「はい」
「一つだけ、言っておく」
俺は、言った。
「その理屈は、正しい。だが、危うい」
玉の目が、動いた。
「なぜでございます」
「家のためになるから守られる、というのは、家のためにならなくなれば守られぬということだ」
◇
玉は、動きを止めた。
俺は、続けた。
「もし、明智と細川が敵になれば」
「おぬしは、たちまち邪魔になる」
部屋が、静かになった。
「それが、市どのに起きたことだ」
玉は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「父上。ならば、いかがすればよいのですか」
俺は、答えた。
「先に、決めておく」
俺は、書付を出した。
六年前に書いた、五箇条の覚書だ。
「両家が敵になったとき、おぬしをどうするか。それを、婚姻の前に決めておく」
玉は、その書付を見た。
そして、こう言った。
「父上。これは、六年前のものですね」
「そうだ」
「穴が、七つございました」
「覚えている」
俺は、言った。
「埋めた」
◇
俺は、新しい書付を出した。
六年、書き足し続けたものだ。
玉は、それを読んだ。
長いこと、読んでいた。
そして、顔を上げた。
「父上」
「なんだ」
玉は、こう言った。
「まだ、穴がございます」
俺は、少し笑った。
「言え」
玉は、書付を指した。
「ここに、『両家が敵となりし場合、玉は明智へ戻す』とございます」
「ある」
「誰が、戻すのですか」
俺は、動きを止めた。
玉は、続けた。
「明智が、細川に戻せと申しても、細川が拒めば、それまでです」
この娘は、言った。
「力ずくで取り返しますか」
俺は、答えられなかった。
玉は、続けた。
「そして、もう一つ」
この娘は、書付を置いた。
「両家が敵になったとき、明智に戻ることが、わたくしにとって良いことでしょうか」
俺は、顔を上げた。
「どういう意味だ」
玉は、こう言った。
「わたくしに、子がおれば」
◇
俺は、息を呑んだ。
「その子は、細川の子でございます」
玉は、静かに言った。
「わたくしが明智に戻れば、子は置いていくことになります」
この娘は、俺を見た。
「それは、守られたことになりますか」




