第72話 退き口の講義
天正十年、十二月。
坂本城の広間に、明智家の者が集まった。
三十人ほど。
上座に、俺が座った。
そして、その正面に――佐久間信盛が座った。
空気は、悪かった。
当然だ。
追放された男が、明智家の広間で上座に近い位置にいる。
家中の者は、誰も口を開かなかった。
俺は、その空気を承知で、口を開いた。
「今日より、佐久間右衛門尉様に、退き口を習う」
ざわり、と広間が動いた。
「それがしも、習う」
俺は、平伏した。
家中の全員の前で。
「佐久間様。お教えくださいませ」
佐久間は、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと、こう言った。
「日向守どの。おやめなされ」
「なぜでございます」
「それがしは、教える身分ではござらぬ」
◇
俺は、顔を上げた。
そして、言った。
「佐久間様。ここは、明智の家にございます」
俺は、続けた。
「明智の家では、教える者の身分は問いませぬ」
俺は、家中を見回した。
「船頭に湖のことを習いました。馬飼いに馬のことを習いました。侍女に城内のことを習いました」
俺は、佐久間を見た。
「今日は、退き方を習いまする」
佐久間信盛は、長いこと黙っていた。
やがて、深く息を吸った。
そして――
背筋が、伸びた。
「では、申す」
声が、変わっていた。
掠れていない。
「退き口とは、何か」
佐久間は、そう問うた。
誰も、答えなかった。
「逃げることではござらぬ」
この人は、言った。
「逃げるなら、誰でもできる。走れば良い」
佐久間は、続けた。
「退き口とは、負けを小さくすることにござる」
◇
俺は、書き取り始めた。
佐久間は、続けた。
「戦は、勝つか負けるかにござる。だが、負け方には、幅がござる」
この人は、指を広げた。
「兵を全部失う負けもあれば、二割で済む負けもある」
佐久間は、言った。
「その差を作るのが、退き口にござる」
「では、何が要るか」
佐久間は、そう問うた。
そして、自分で答えた。
「三つにござる」
この人は、指を三本立てた。
「ひとつ。いつ退くかを、先に決めておくこと」
俺は、書き取った。
「ふたつ。どこへ退くかを、先に決めておくこと」
「みっつ」
佐久間は、少し間を置いた。
「誰が最後に残るかを、先に決めておくこと」
◇
俺は、その三つ目に、手が止まった。
(――誰が残るか)
殿だ。
最後尾に残って、敵を食い止める役。
――死ぬ確率が、いちばん高い。
「佐久間様」
「なんでござる」
「それを、先に決めるのでございますか」
「決め申す」
佐久間は、あっさり言った。
「決めておかねば、その場で押し付け合いになり申す」
広間が、静まり返った。
佐久間は、続けた。
「戦が崩れたとき、皆、我先に逃げ申す」
この人は、言った。
「そのとき『誰か残れ』と言うても、誰も残らぬ」
佐久間は、俺を見た。
「ゆえに、戦を始める前に決めておく」
◇
俺は、書き取りながら、震えていた。
(――これは)
これは、退却の話ではない。
――責任の話だ。
誰が最後に残るか。
それを事前に決めるということは、誰が犠牲になるかを事前に決めるということだ。
(――そして、それを本人が承知している)
「佐久間様」
俺は、聞いた。
「金ヶ崎の折、殿を務められたのは」
「池田どのと、それがしと――」
佐久間は、少し言葉を切った。
「そして、木下藤吉郎どのにござる」
俺は、書き取る手を止めた。
(――秀吉だ)
「日向守どの」
「は」
「あのとき、木下どのは、まだ何者でもござらなんだ」
佐久間は、言った。
「それが、殿を志願された」
俺は、顔を上げた。
「志願、でございますか」
「さよう」
佐久間は、頷いた。
そして、少し笑った。
「あれは、恐ろしい男にござる」
◇
俺は、その話を書き取りながら、考えていた。
(――計算だ)
殿は、死ぬ確率が高い。
だが、生きて戻れば、これ以上ない功になる。
――家柄のない男が、一気に上がる手だ。
(――そして、生きて戻った)
俺は、筆を止めた。
(――止まれば終わりだと、あの男は言った)
――あの日から、走り続けている。
講義は、三刻に及んだ。
佐久間信盛は、話し続けた。
どこで踏みとどまるか。どこで捨てるか。
橋の落とし方。焼き払う順番。負傷者の扱い。
そして――
「いちばん難しいのは、これにござる」
佐久間は、最後にそう言った。
「いつ退くと決めるか、にござる」
◇
「早すぎれば、勝てる戦を捨て申す」
この人は、言った。
「遅すぎれば、退けなくなり申す」
佐久間は、続けた。
「そして、この見極めは、教えられ申さぬ」
俺は、顔を上げた。
「教えられませぬか」
「教えられ申さぬ」
佐久間は、はっきり言った。
「ゆえに、決めておく」
俺は、その意味を、しばらく考えた。
そして、理解した。
「佐久間様。それは」
俺は、言った。
「見極められぬゆえ、先に線を引いておくということでございますか」
佐久間の目が、動いた。
「さよう」
この人は、頷いた。
「『兵が三割減ったら退く』と、先に決めておく」
佐久間は、続けた。
「その場で考えれば、必ず迷い申す。迷えば、遅れ申す」
◇
俺は、書付に書いた。
――判断が難しいものは、その場で判断してはならぬ。
――先に、線を引いておく。
俺は、その二行を見た。
(――これは、退却だけの話ではない)
講義が終わった後。
家中の者は、しばらく誰も動かなかった。
やがて、三沢が手を挙げた。
「佐久間様。お尋ねしてよろしゅうございますか」
佐久間が、顔を上げた。
「何なりと」
「荷にも、使えまするか」
俺は、思わず身を乗り出した。
(――良い問いだ)
佐久間は、少し考えた。
そして、こう言った。
「使えると存ずる」
「どのように」
「荷が遅れたとき、いつ『間に合わぬ』と決めるか」
佐久間は、言った。
「それを、先に決めておけば良い」
◇
三沢の目が、光った。
「佐久間様。それがしの書付を、見ていただけませぬか」
「拝見いたす」
三沢が、書付を出した。
佐久間は、それを読んだ。
そして――
しばらく、動かなかった。
「これは」
「荷の記録にございます」
「何年分にござる」
「六年分にございます」
佐久間信盛は、その書付を、長いこと見ていた。
やがて、顔を上げた。
「日向守どの」
「は」
「これは、恐ろしいものにござるな」
俺は、少し笑った。
「皆、そう申されます」
佐久間は、書付をめくった。
「六年分の荷の動きが、全部書いてある」
この人は、言った。
「ならば、どこで遅れるかが、分かり申す」
佐久間は、顔を上げた。
「遅れる前に、決められ申す」
◇
その日から、佐久間信盛は変わった。
毎日、三沢と話すようになった。
そして、書き始めた。
――退き口の覚。
最初は、戦の話だった。
だが、三沢と話すうちに、内容が広がっていった。
――荷が間に合わぬときの決まり。
――普請が遅れたときの決まり。
――兵糧が足りぬときの決まり。
一月ほど経った頃。
利三が、書院に来た。
「殿」
「なんだ」
「家中の者が、妙なことを申しております」
「何だ」
利三は、少し困った顔をした。
「『佐久間様は、いつ帰られるのか』と」
俺は、筆を止めた。
「帰れ、ということか」
「違い申す」
利三は、首を振った。
「帰られては困る、と」
俺は、顔を上げた。
利三は、少し笑っていた。
「若い者が、講義を待っており申す」
◇
俺は、その夜、佐久間の部屋を訪ねた。
この人は、書いていた。
灯りの下で、書付に向かっていた。
「佐久間様」
「おお。日向守どの」
俺は、座った。
そして、こう言った。
「家中の者が、申しております」
「何と」
俺は、言った。
「『佐久間様に、帰られては困る』と」
佐久間信盛は、筆を止めた。
そして、しばらく動かなかった。
やがて、こう言った。
「日向守どの」
「は」
「それは、まことか」
「まことにございます」
佐久間は、書付を見た。
そして、少し肩が動いた。
俺は、目を逸らした。
しばらくして、佐久間は言った。
「日向守どの」
「は」
「わしは、三十年、上様に仕え申した」
この人は、続けた。
「一度も、『帰られては困る』と言われたことがござらぬ」
俺は、答えられなかった。
佐久間は、筆を取った。
そして、こう言った。
「もう少し、書き申す」




