↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天才創業者・織田信長の下で潰れる前に、本能寺が起きない組織を作ります~MBAホルダー明智光秀の事業承継計画  作者: 東雲 諒杏
第八章 功のない者と、嫁ぐ者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
72/151

第72話 退き口の講義


 天正十年、十二月。

 坂本城の広間に、明智家の者が集まった。

 三十人ほど。

 上座に、俺が座った。

 そして、その正面に――佐久間信盛が座った。

 空気は、悪かった。

 当然だ。

 追放された男が、明智家の広間で上座に近い位置にいる。

 家中の者は、誰も口を開かなかった。

 俺は、その空気を承知で、口を開いた。

「今日より、佐久間右衛門尉様に、退き口を習う」

 ざわり、と広間が動いた。

「それがしも、習う」

 俺は、平伏した。

 家中の全員の前で。

「佐久間様。お教えくださいませ」

 佐久間は、しばらく動かなかった。

 そして、ゆっくりと、こう言った。

「日向守どの。おやめなされ」

「なぜでございます」

「それがしは、教える身分ではござらぬ」


    ◇


 俺は、顔を上げた。

 そして、言った。

「佐久間様。ここは、明智の家にございます」

 俺は、続けた。

「明智の家では、教える者の身分は問いませぬ」

 俺は、家中を見回した。

「船頭に湖のことを習いました。馬飼いに馬のことを習いました。侍女に城内のことを習いました」

 俺は、佐久間を見た。

「今日は、退き方を習いまする」

 佐久間信盛は、長いこと黙っていた。

 やがて、深く息を吸った。

 そして――

 背筋が、伸びた。

「では、申す」

 声が、変わっていた。

 掠れていない。

「退き口とは、何か」

 佐久間は、そう問うた。

 誰も、答えなかった。

「逃げることではござらぬ」

 この人は、言った。

「逃げるなら、誰でもできる。走れば良い」

 佐久間は、続けた。

「退き口とは、負けを小さくすることにござる」


    ◇


 俺は、書き取り始めた。

 佐久間は、続けた。

「戦は、勝つか負けるかにござる。だが、負け方には、幅がござる」

 この人は、指を広げた。

「兵を全部失う負けもあれば、二割で済む負けもある」

 佐久間は、言った。

「その差を作るのが、退き口にござる」

「では、何が要るか」

 佐久間は、そう問うた。

 そして、自分で答えた。

「三つにござる」

 この人は、指を三本立てた。

「ひとつ。いつ退くかを、先に決めておくこと」

 俺は、書き取った。

「ふたつ。どこへ退くかを、先に決めておくこと」

「みっつ」

 佐久間は、少し間を置いた。

「誰が最後に残るかを、先に決めておくこと」


    ◇


 俺は、その三つ目に、手が止まった。

 (――誰が残るか)

 殿だ。

 最後尾に残って、敵を食い止める役。

 ――死ぬ確率が、いちばん高い。

「佐久間様」

「なんでござる」

「それを、先に決めるのでございますか」

「決め申す」

 佐久間は、あっさり言った。

「決めておかねば、その場で押し付け合いになり申す」

 広間が、静まり返った。

 佐久間は、続けた。

「戦が崩れたとき、皆、我先に逃げ申す」

 この人は、言った。

「そのとき『誰か残れ』と言うても、誰も残らぬ」

 佐久間は、俺を見た。

「ゆえに、戦を始める前に決めておく」


    ◇


 俺は、書き取りながら、震えていた。

 (――これは)

 これは、退却の話ではない。

 ――責任の話だ。

 誰が最後に残るか。

 それを事前に決めるということは、誰が犠牲になるかを事前に決めるということだ。

 (――そして、それを本人が承知している)

「佐久間様」

 俺は、聞いた。

「金ヶ崎の折、殿を務められたのは」

「池田どのと、それがしと――」

 佐久間は、少し言葉を切った。

「そして、木下藤吉郎どのにござる」

 俺は、書き取る手を止めた。

 (――秀吉だ)

「日向守どの」

「は」

「あのとき、木下どのは、まだ何者でもござらなんだ」

 佐久間は、言った。

「それが、殿を志願された」

 俺は、顔を上げた。

「志願、でございますか」

「さよう」

 佐久間は、頷いた。

 そして、少し笑った。

「あれは、恐ろしい男にござる」


    ◇


 俺は、その話を書き取りながら、考えていた。

 (――計算だ)

 殿は、死ぬ確率が高い。

 だが、生きて戻れば、これ以上ない功になる。

 ――家柄のない男が、一気に上がる手だ。

 (――そして、生きて戻った)

 俺は、筆を止めた。

 (――止まれば終わりだと、あの男は言った)

 ――あの日から、走り続けている。

 講義は、三刻に及んだ。

 佐久間信盛は、話し続けた。

 どこで踏みとどまるか。どこで捨てるか。

 橋の落とし方。焼き払う順番。負傷者の扱い。

 そして――

「いちばん難しいのは、これにござる」

 佐久間は、最後にそう言った。

「いつ退くと決めるか、にござる」


    ◇


「早すぎれば、勝てる戦を捨て申す」

 この人は、言った。

「遅すぎれば、退けなくなり申す」

 佐久間は、続けた。

「そして、この見極めは、教えられ申さぬ」

 俺は、顔を上げた。

「教えられませぬか」

「教えられ申さぬ」

 佐久間は、はっきり言った。

「ゆえに、決めておく」

 俺は、その意味を、しばらく考えた。

 そして、理解した。

「佐久間様。それは」

 俺は、言った。

「見極められぬゆえ、先に線を引いておくということでございますか」

 佐久間の目が、動いた。

「さよう」

 この人は、頷いた。

「『兵が三割減ったら退く』と、先に決めておく」

 佐久間は、続けた。

「その場で考えれば、必ず迷い申す。迷えば、遅れ申す」


    ◇


 俺は、書付に書いた。

 ――判断が難しいものは、その場で判断してはならぬ。

 ――先に、線を引いておく。

 俺は、その二行を見た。

 (――これは、退却だけの話ではない)

 講義が終わった後。

 家中の者は、しばらく誰も動かなかった。

 やがて、三沢が手を挙げた。

「佐久間様。お尋ねしてよろしゅうございますか」

 佐久間が、顔を上げた。

「何なりと」

「荷にも、使えまするか」

 俺は、思わず身を乗り出した。

 (――良い問いだ)

 佐久間は、少し考えた。

 そして、こう言った。

「使えると存ずる」

「どのように」

「荷が遅れたとき、いつ『間に合わぬ』と決めるか」

 佐久間は、言った。

「それを、先に決めておけば良い」


    ◇


 三沢の目が、光った。

「佐久間様。それがしの書付を、見ていただけませぬか」

「拝見いたす」

 三沢が、書付を出した。

 佐久間は、それを読んだ。

 そして――

 しばらく、動かなかった。

「これは」

「荷の記録にございます」

「何年分にござる」

「六年分にございます」

 佐久間信盛は、その書付を、長いこと見ていた。

 やがて、顔を上げた。

「日向守どの」

「は」

「これは、恐ろしいものにござるな」

 俺は、少し笑った。

「皆、そう申されます」

 佐久間は、書付をめくった。

「六年分の荷の動きが、全部書いてある」

 この人は、言った。

「ならば、どこで遅れるかが、分かり申す」

 佐久間は、顔を上げた。

「遅れる前に、決められ申す」


    ◇


 その日から、佐久間信盛は変わった。

 毎日、三沢と話すようになった。

 そして、書き始めた。

 ――退き口の覚。

 最初は、戦の話だった。

 だが、三沢と話すうちに、内容が広がっていった。

 ――荷が間に合わぬときの決まり。

 ――普請が遅れたときの決まり。

 ――兵糧が足りぬときの決まり。

 一月ほど経った頃。

 利三が、書院に来た。

「殿」

「なんだ」

「家中の者が、妙なことを申しております」

「何だ」

 利三は、少し困った顔をした。

「『佐久間様は、いつ帰られるのか』と」

 俺は、筆を止めた。

「帰れ、ということか」

「違い申す」

 利三は、首を振った。

「帰られては困る、と」

 俺は、顔を上げた。

 利三は、少し笑っていた。

「若い者が、講義を待っており申す」


    ◇


 俺は、その夜、佐久間の部屋を訪ねた。

 この人は、書いていた。

 灯りの下で、書付に向かっていた。

「佐久間様」

「おお。日向守どの」

 俺は、座った。

 そして、こう言った。

「家中の者が、申しております」

「何と」

 俺は、言った。

「『佐久間様に、帰られては困る』と」

 佐久間信盛は、筆を止めた。

 そして、しばらく動かなかった。

 やがて、こう言った。

「日向守どの」

「は」

「それは、まことか」

「まことにございます」

 佐久間は、書付を見た。

 そして、少し肩が動いた。

 俺は、目を逸らした。

 しばらくして、佐久間は言った。

「日向守どの」

「は」

「わしは、三十年、上様に仕え申した」

 この人は、続けた。

「一度も、『帰られては困る』と言われたことがござらぬ」

 俺は、答えられなかった。

 佐久間は、筆を取った。

 そして、こう言った。

「もう少し、書き申す」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。