第71話 同い年の男
――丹波は片づき、諸将の権限は紙になった。
――だが、功のない者は追われ、娘は嫁いでいく。
――俺はまだ、本能寺の形を三つしか崩していない。
天正十年、十一月。
佐久間信盛は、供を三人だけ連れて坂本に来た。
俺は、門で待っていた。
馬から降りたその人を見て、俺は言葉を失った。
(――老けている)
俺と同い年だ。五十四。
だが、十は上に見えた。
髪が白い。頬がこけている。そして――背中が、丸い。
「明智日向守にござる」
俺が名乗ると、その人は深く頭を下げた。
「佐久間右衛門尉にござる」
声が、掠れていた。
俺は、書院に通した。
茶を出した。
佐久間信盛は、茶碗を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、こう言った。
「日向守どの」
「は」
「なにゆえ、それがしを引き受けられた」
◇
俺は、答えを用意していなかった。
いや、用意はしていた。
だが、この人の顔を見て、それが使えなくなった。
「上様のご命にございます」
俺は、そう言った。
佐久間は、少し笑った。
笑ったつもりだったのだろう。
「嘘にござるな」
俺は、顔を上げた。
「上様は、それがしを高野へやると仰せられた」
佐久間は、続けた。
「それを、日向守どのが変えられた」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「さようにございます」
「なにゆえ」
俺は、答えた。
「退き口の話を、伺いたいゆえにございます」
(――これも、二度目だ)
蜀に、大きく負けた男がいた。山へ登って、水の手を断たれて、兵を死なせた。
誰もが、斬れと言った。
俺は、斬らなかった。代わりに、水を運ばせた。
あの男は、その後の生涯を、水の手の話をして過ごした。山の水がどこで切れるかを見た者は、あの国にあの男しかいなかったからだ。
――失敗した者を、その失敗の担当にする。
六十四年で覚えたことのうち、いちばん役に立ったのは、たぶんこれだ。
佐久間信盛の手が、止まった。
茶碗が、少し揺れた。
「退き口」
「はい」
「十年前の話にござる」
「さようにございます」
俺は、続けた。
「されど、織田家に、退き方を知る者はおられませぬ」
◇
佐久間は、しばらく茶碗を見ていた。
そして、こう言った。
「日向守どの。それは、慰めか」
「違いまする」
「では、何だ」
俺は、平伏した。
「お願いにございます」
俺は、顔を上げて、言った。
「佐久間様。それがしは、この六年、書付を作ってまいりました」
「聞いており申す」
「荷のこと。国衆のこと。役目のこと。決めごとのこと」
俺は、続けた。
「ですが、一つだけ、作れておらぬものがございます」
「何にござる」
「負けたときの、書付にございます」
佐久間は、動きを止めた。
「織田家は、この十年、負けておりませぬ。ゆえに、負けたときにどうするかを、誰も書いておりませぬ」
俺は、平伏した。
「佐久間様。それを、書いていただきとうございます」
◇
長い沈黙があった。
やがて、佐久間は言った。
「日向守どの」
「は」
「それがしは、五年、何もしておらぬ」
この人の声は、低かった。
「本願寺を囲んで、五年。落とせなんだ」
佐久間は、茶碗を置いた。
「上様の申されたことは、全部、その通りにござる」
俺は、顔を上げた。
そして、聞いた。
「なにゆえ、落とせなんだのでございましょうか」
佐久間の目が、動いた。
「日向守どの。それを、聞かれるか」
「はい」
「誰も、聞かなんだ」
佐久間は、言った。
「皆、『なにゆえ落とさぬ』と申された」
俺は、その違いを聞いた。
――なぜ落とさないのか。
――なぜ落とせなかったのか。
前者は、責めている。
後者は、聞いている。
「佐久間様。お聞かせくださいませ」
◇
佐久間信盛は、長いこと黙っていた。
そして、話し始めた。
最初は、ぽつりぽつりと。
やがて、止まらなくなった。
「本願寺は、城ではござらぬ」
この人は、そう言った。
「寺にござる」
俺は、書き取った。
「城なら、兵がおる。兵を破れば落ちる」
佐久間は、続けた。
「されど、寺には、門徒がおる」
この人は、少し身を乗り出した。
「門徒は、兵ではござらぬ。百姓にござる。商人にござる。女もおる」
「それを、皆殺しにすれば落ちまする」
俺は、そう言った。
佐久間は、頷いた。
「さよう。落ち申す」
「なされなんだので」
佐久間は、しばらく黙った。
そして、こう言った。
「長島で、やり申した」
俺は、動きを止めた。
◇
長島の一向一揆。
俺は、その名を知っている。
天正二年。信長が、長島を攻めた。
そして――
(――皆殺しにした)
二万とも、それ以上とも言われる。
「佐久間様は、長島に」
「おり申した」
この人は、言った。
「見申した」
俺は、それ以上聞かなかった。
佐久間は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守どの。それがしは、あれをもう一度やりとうござらなんだ」
俺は、書き取る手を止めた。
「ゆえに、囲み申した」
佐久間は、続けた。
「囲んで、飢えさせれば、いずれ降ると思うており申した」
この人は、少し目を伏せた。
「五年、待ち申した」
◇
俺は、しばらく答えられなかった。
(――これは)
あの十九か条には、一言も書いていない。
――なぜ落とせなかったのか。
そこには、この五年の判断があった。
(――そして、誰も聞かなかった)
「佐久間様」
「は」
「そのこと、上様に申し上げられましたか」
佐久間は、首を振った。
「申しておらぬ」
「なにゆえ」
この人は、答えた。
「言い訳になり申す」
俺は、その言葉に、頭を殴られたような気がした。
(――言い訳)
この人は、十九か条で「言い訳ばかりして実がない」と責められた。
だが、実際には――
(――言っていない)
言えば言い訳になると思って、黙っていた。
そして、黙っていたから、「何も考えていない」と思われた。
◇
俺は、筆を取った。
そして、書いた。
「佐久間様。今から申し上げることは、無礼にございます」
「構わ申さぬ」
俺は、顔を上げた。
「それは、言い訳ではございませぬ」
俺は、言った。
「報告にございます」
佐久間の目が、動いた。
「報告、と」
「はい」
「『できませぬ』と申すのは、言い訳にございます」
俺は、書付を指した。
「されど、『こういう理由で、この手を使いませぬ。代わりにこの手を使います』と申すのは――」
俺は、言った。
「策の申告にございます」
佐久間は、しばらく動かなかった。
やがて、掠れた声で言った。
「日向守どの」
「は」
「それは、五年前に聞きたかった」
俺は、平伏した。
◇
その夜、俺は書院で一人、書付を広げた。
そして、書いた。
――言い訳と報告の違いは、内容ではない。
――先に言うか、後で言うかである。
俺は、その二行を見た。
(――そうだ)
同じことでも、事が起きる前に言えば「見通し」だ。
事が起きた後に言えば「言い訳」になる。
(――だから、先に言わせる仕組みが要る)
俺は、筆を進めた。
――『できぬ』と言える場を、先に作らねばならぬ。
書きながら、俺は自分の家のことを考えていた。
明智家には、それがある。
――四半刻の決まり。
――報告は早いほど手柄。
だが。
(――織田家には、ない)
◇
翌朝。
俺は、佐久間に会いに行った。
この人は、既に起きていた。
庭に出て、湖を見ていた。
「佐久間様」
「おお。日向守どの」
俺は、隣に立った。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、佐久間が言った。
「日向守どの。ひとつ、聞いてよろしいか」
「なんなりと」
「おぬし、幾つになる」
俺は、少し笑った。
「五十四にございます」
佐久間が、こちらを見た。
「同じか」
「同じにございます」
佐久間は、しばらく俺を見ていた。
そして、湖に目を戻した。
「日向守どの」
「は」
この人は、こう言った。
「わしらの世代は、もう要らんのかのう」
◇
俺は、答えられなかった。
しばらく、黙っていた。
そして、言った。
「要ります」
「ほう」
「ただし」
俺は、続けた。
「今までと、同じやり方では要りませぬ」
佐久間は、少し笑った。
「手厳しいな」
「申し訳ございませぬ」
「いや」
この人は、首を振った。
「その通りにござる」
佐久間は、湖を見た。
「わしは、三十年、同じことをしてきた」
この人は、言った。
「攻めて、囲んで、落とす」
佐久間は、続けた。
「若い頃は、それで良かった」
俺は、その言葉を聞いていた。
(――これだ)
これは、前世でも見た光景だ。
成功体験のある中年。
二十年、同じやり方で結果を出してきた。
だが、環境が変わる。やり方が通じなくなる。
そして――
(――やり方を変えられない)
変えられないのではない。
変えれば、これまでの三十年を否定することになる。
(――それが、怖い)
◇
「佐久間様」
「なんでござる」
「ひとつ、お願いがございます」
俺は、平伏した。
「若い者に、教えていただきとうございます」
佐久間は、顔を上げた。
「教える、と」
「はい」
俺は、続けた。
「攻めることではございませぬ。退くことにございます」
佐久間は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守どの。誰が、退き方など習いたがる」
「おりませぬ」
「ならば」
「ゆえに、決まりにいたします」
俺は、顔を上げた。
「明智の家の若い者は、全員、佐久間様に習うことといたします」
◇
佐久間は、目を見開いた。
「全員、と」
「はい」
「それは、無理にござる」
「なにゆえ」
佐久間は、少し苦い顔をした。
「若い者は、追放された者に習いとうござらぬ」
俺は、その言葉を待っていた。
「佐久間様」
「は」
俺は、言った。
「ゆえに、それがしが最初に習いまする」
佐久間が、動きを止めた。
「日向守どのが」
「はい」
俺は、平伏した。
「家中の者の見ている前で、習いまする」




