第70話 功のない者
天正十年、十月。
その報せは、突然だった。
「殿ッ!」
利三が、書院に飛び込んできた。
「どうした」
「佐久間様が」
俺は、筆を落とした。
佐久間信盛。
織田家の筆頭家老格。石山本願寺攻めの総大将を、長く務めた。
――そして、俺と同い年だ。
五十四になる。
「何があった」
「上様より、書状が下されたと」
利三の顔は、青かった。
「十九か条の、詰問状にござる」
俺は、その日のうちに、写しを手に入れた。
村井貞勝に頼んだ。
この人は、無表情のまま、写しを出してくれた。
「日向守どの。これは、心して読まれよ」
俺は、読んだ。
そして――
(――酷い)
◇
十九か条。
全部が、佐久間信盛への非難だった。
――五年、本願寺を囲みながら、何の功もない。
――家臣を増やさず、人を使わぬ。
――他の者と比べて、働きが劣る。
――言い訳ばかりして、実がない。
俺は、読み進めながら、手が震えていた。
(――具体的だ)
この文書は、感情的ではない。
むしろ、恐ろしく具体的だった。
いつ、何をしたか。あるいは、しなかったか。
他の家臣と比べて、どう劣るか。
全部、書いてある。
(――記録している)
俺は、そのことに、背筋が凍った。
(――上様は、記録している)
いや。
正確には、記憶している。
この十九か条は、書付から起こしたものではない。
この人の頭の中にある記憶から、直接出てきたものだ。
(――五年分を)
俺は、書付を握りしめた。
◇
そして、最後の条を読んで、俺は動けなくなった。
――どこへなりと行き、大功を立てて帰ってこい。
――さもなくば、頭を丸めて高野山へでも行け。
(――追放だ)
俺は、写しを置いた。
その夜。
俺は、書院で一人、座っていた。
利三が、心配して覗きに来た。
「殿。お休みくださいませ」
「利三」
「は」
「俺は、これを止められたか」
利三は、答えなかった。
俺は、五年前のことを思い出していた。
安土の茶屋で、商人が話していた。
――佐久間様は、近ごろ精彩を欠かれるそうな。
あのとき、俺は思った。
――噂に対抗できるのは、記録だけだ。
そして、五年、俺は記録を作ってきた。
明智家で。丹波で。播磨と越前と突き合わせて。
だが。
(――佐久間様の記録は、作らなかった)
◇
俺は、書付を広げた。
そして、書いた。
――なにゆえ、作らなかったか。
答えは、すぐに出た。
――俺の役目ではないからだ。
佐久間信盛は、石山本願寺を担当していた。俺は丹波だ。
他人の担当に、口を出す理由がない。
(――それは、正しい)
組織としては、正しい。
だが。
俺は、筆を止めた。
(――村井様の言葉だ)
五年前、村井貞勝はこう言った。
――記録があれば、功が少ないことも、はっきり分かり申す。
――功のない者は、逃げ場がなくなる。
俺は、そのとき、こう考えた。
――記録は、無実を守る。だが、無能を守らない。
そして、こう書いた。
――功のない者を切るのが唯一の道なら、記録は人を殺す道具になる。
――先に、そちらを作らねばならぬ。
(――作らなかった)
◇
俺は、書付に突っ伏した。
(――五年)
五年、俺は何をしていた。
丹波を治めた。坂本を作り替えた。信忠を育てた。羽柴と柴田と繋いだ。御馬揃えをやった。
全部、意味のあることだ。
だが。
(――功のない者をどうするかは、考えなかった)
翌朝、俺は安土へ発った。
利三が、必死で止めた。
「殿ッ! 今、行かれるのは」
「行く」
「佐久間様を庇えば、殿も同じ目に」
「知っている」
俺は、馬に乗った。
「殿ッ!」
俺は、振り返った。
利三が、門の前に立っていた。
「利三」
「は」
「俺は、庇いには行かぬ」
◇
安土に着いたのは、翌日の夕方だった。
俺は、登城を願い出た。
通されたのは、いつもの小座敷だった。
信長は、書付を読んでいた。
「日向守。何用だ」
「お願いがございます」
「佐久間のことか」
俺は、平伏した。
「さようにございます」
信長は、書付から目を上げなかった。
「申せ」
俺は、顔を上げた。
そして、言った。
「十九か条、拝読いたしました」
「写しを見たか」
「はい」
「で、あるか」
信長は、書付をめくった。
「間違いがあったか」
俺は、答えた。
「ございませぬ」
「一つひとつ、その通りかと存じます」
「ならば、何を願う」
俺は、平伏した。
「追放を、お取り止めくださいませ」
信長の手が、止まった。
初めて、こちらを見た。
「なぜだ」
◇
俺は、顔を上げた。
そして、用意してきた言葉を、言った。
「佐久間様は、退き口の名手にございます」
信長の眉が、動いた。
「なんだと」
「金ヶ崎の折」
俺は、続けた。
「上様が退かれた後、殿を務められた方の一人にございます」
「退き佐久間、と呼ばれておりました」
信長は、書付を置いた。
「日向守。それは、十年前のことだ」
「さようにございます」
「この五年、何もしておらぬ」
「さようにございます」
俺は、認めた。
「ならば、なぜ庇う」
俺は、答えた。
「庇っておりませぬ」
俺は、平伏した。
そして、言った。
「上様。それがしが申し上げたいのは、佐久間様のことではございませぬ」
「では、何だ」
「織田家のことにございます」
俺は、顔を上げた。
「功のない者を切れば、その者は消えまする」
俺は、続けた。
「されど、その者が持っておるものも、消えまする」
◇
信長は、動かなかった。
「佐久間様は、退き方をご存じにございます」
「織田家で、退き方を知る者は、多うございませぬ」
俺は、少し声を強めた。
「なぜなら、この十年、織田家は負けておらぬゆえにございます」
長い沈黙があった。
俺は、続けた。
「上様。勝ち続けておる家は、退き方を忘れまする」
俺は、平伏した。
「そして、一度負けたとき、退けませぬ」
沈黙が、続いた。
俺は、額を畳につけたまま、待った。
やがて、信長が言った。
「日向守」
「は」
「顔を上げよ」
俺は、顔を上げた。
信長は、こちらを見ていた。
その目に、何かがあった。
――怒りではなかった。
「おぬしは、わしが負けると思うておるか」
◇
俺は、答えられなかった。
この質問は、罠だ。
「思っています」と言えば、不敬。
「思っていません」と言えば、さっきの理屈が崩れる。
俺は、しばらく黙った。
そして、言った。
「上様は、負けませぬ」
「ならば」
「上様がおられる間は」
信長の目が、動いた。
俺は、続けた。
「上様がおられる間、織田家は負けませぬ。それは、それがしも信じております」
俺は、平伏した。
「されど、いつか、上様はおられなくなりまする」
「そのとき、この家は初めて負けまする」
俺は、額を畳につけた。
「そのときに、退き方を知る者が要りまする」
◇
長い、長い沈黙があった。
俺は、動かなかった。
やがて、信長が言った。
「日向守」
「は」
「おぬし、いつからそれを考えておる」
俺は、答えた。
「六年前からにございます」
「六年」
「病で倒れて、目が覚めてからにございます」
信長は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「追放は、取り止めぬ」
俺は、目を閉じた。
「だが」
信長は、続けた。
「高野には、やらぬ」
俺は、顔を上げた。
信長は、書付を取った。
そして、こう言った。
「日向守。おぬしが預かれ」
俺は、動きを止めた。
「は」
「佐久間を、坂本に置け」
信長は、言った。
「役は、おぬしが決めよ」
俺は、平伏した。
額を、畳につけた。
(――通った)
いや。
(――押し付けられた)
◇
俺は、退がろうとした。
そのとき、信長が言った。
「日向守」
「は」
「ひとつ、覚えておけ」
俺は、顔を上げた。
信長は、こちらを見ていなかった。
書付を見ていた。
そして、こう言った。
「わしは、佐久間を三十年、使うた」
俺は、動けなかった。
「三十年、見ておった」
信長は、言った。
「十九か条は、三十年、見てきた者にしか書けぬ」
俺は、その言葉に、しばらく動けなかった。
(――そうか)
あの十九か条は、憎しみではない。
――三十年分の、観察だ。
この人は、佐久間信盛を三十年見続けて、その全部を覚えていた。
そして、それを一枚の紙にした。
(――それは)
俺は、拳を握った。
(――記録だ)
書いてはいない。だが、この人の頭の中に、三十年分の記録がある。
◇
俺は、平伏した。
「上様」
「なんだ」
「お尋ねしてよろしゅうございますか」
「申せ」
俺は、顔を上げた。
そして、言った。
「それがしのことも、覚えておられますか」
信長は、しばらく黙っていた。
そして、書付から目を上げた。
その目が、こちらを見た。
「日向守」
「は」
信長は、こう言った。
「おぬしは、六年前まで、つまらぬ男であった」
俺は、息を呑んだ。
「有能だ。よく働く。だが、つまらぬ」
信長は、続けた。
「言われたことしかせぬ。言われる前に、伺いを立てる」
この人は、少し目を細めた。
「それが、病から戻って、変わった」
◇
俺は、答えられなかった。
信長は、こう言った。
「日向守。わしは、おぬしを覚えておる」
この人は、書付に目を戻した。
「だが、それが良いことかどうかは、分からぬぞ」
――――――――――
【あとがき】
第七章が終わりました。
佐久間信盛の追放は、この物語の折り返し点です。「功のない者」がどう扱われるかを、家中の全員が見ました。そして、次は自分かもしれないと、全員が思いました。
本能寺の形の一つが、ここで揃います。




