第69話 便利な男
天正十年、九月。
俺は、伊勢にいた。
滝川一益に会うためだ。
この人は、長島の城にいた。
五十七になる。
俺の前に現れたとき、俺は少し驚いた。
(――気配が、薄い)
背は高い。体つきも悪くない。
だが、そこにいるという感じが、妙に希薄だった。
「日向守どの。よう来られた」
声も、静かだった。
視界の隅で、板が浮かんだ。
滝川一益 五十七歳
統率82 │ 戦術85 │ 兵站財務70
政務実務75 │ 交渉外交72 │ 制度理解55
◆特記事項
汎用性 95
専門性 40
茶器への執着 90
俺は、その三つ目で、少し目を細めた。
(――茶器)
汎用性九十五。専門性四十。
(――器用貧乏、か)
ゲームでの、この人の使い方を覚えている。統率も戦術も八十台で、どこに置いてもそこそこ働く。だから、手の足りない戦線に放り込む。伊勢へ、関東へ、また戻して。プレイヤーにとって、いちばん便利な駒だった。
便利だから、拠点を与えなかった。与えれば、動かせなくなるからだ。
(――俺は、この人を、二十年、そう使っていた)
画面の中でだが。
そして、この人は今、目の前にいる。気配が薄い、と俺が感じたのは、たぶん、この人自身が「どこにいてもいい者」として二十年を過ごしてきたからだ。
茶器への執着、九十。
(――そういうことか)
領国が残らぬ者は、物を欲しがる。城は動かせないが、茶器は持って歩ける。この人が集めているのは、道具ではない。持ち運べる「自分の場所」だ。
◇
「日向守どの。文の礼を申す」
一益は、そう言った。
「こちらこそ、お答えいただき、感謝しております」
「いや」
一益は、首を振った。
「あのようなことを書いたのは、初めてにござる」
俺は、顔を上げた。
「『役目が定まっておらぬ』と」
「さよう」
一益は、少し笑った。
「誰にも、言うたことがござらなんだ」
俺たちは、その日、長く話した。
この人の経歴は、複雑だった。
伊勢を平らげた。長島の一向一揆を鎮めた。
鉄砲の扱いに長け、長篠でも功を挙げた。
北陸へも行った。東国へも行く。
――どこへでも行く。
だが。
「日向守どの。それがしの領国は、どこだと思われる」
俺は、答えられなかった。
「伊勢、でございましょうか」
「半分にござる」
一益は、言った。
「北伊勢の一部にござる。それも、あちこちに散っており申す」
◇
俺は、その言葉に、引っかかった。
(――散っている)
柴田勝家は、越前一国。羽柴秀吉は、播磨と但馬。丹羽長秀は、若狭。
みな、まとまった領国を持っている。
だが、この人は――
「なにゆえ、散っておるのでございましょう」
「便利ゆえにござる」
一益は、あっさり言った。
「まとまった国を持てば、そこを離れられ申さぬ」
この人は、続けた。
「それがしは、どこへでも行く。ゆえに、どこにも根を張れ申さぬ」
俺は、その言葉を書き取った。
(――便利な人は、動かされる)
前世でも、同じ人がいた。
どの部署でも仕事ができる。だから、あちこちに異動させられる。
結果、専門がない。
そして――
(――自分の部下が、育たない)
常に新しい場所へ行くから、部下と長く付き合えない。
「左近将監様。ご家臣は」
「少のうござる」
一益は、言った。
「行く先々で、人を借り申す。ゆえに、己の者は要らぬ」
◇
その夜、俺は一益に茶を勧められた。
驚いた。
この人が、茶を点てるとは思わなかった。
「日向守どのは、茶をなさるか」
「嗜む程度にございます」
「ならば、よろしい」
一益は、そう言って、茶室に案内した。
小さな茶室だった。
三畳ほど。
だが、道具は――
(――良いものだ)
俺は、素人だが、それでも分かった。
一益は、無言で茶を点てた。
所作は、驚くほど丁寧だった。
そして、俺の前に置いた。
俺は、飲んだ。
「結構にございます」
「かたじけない」
一益は、少し笑った。
そして、こう言った。
「日向守どの。それがしは、茶器が好きにござる」
「さようで」
「なにゆえだと思われる」
◇
俺は、しばらく考えた。
そして、答えた。
「動かせるゆえ、でございましょうか」
一益の手が、止まった。
そして、こちらを見た。
「日向守どの」
「は」
「なにゆえ、それが分かる」
俺は、答えた。
「先ほど、根を張れぬと仰せられました」
「土地は、動かせませぬ。されど、茶器は動かせまする」
長い沈黙があった。
やがて、一益は言った。
「その通りにござる」
この人は、茶碗を手に取った。
「城をもらうても、次の年には別の国へ行き申す」
一益は、続けた。
「されど、茶器は――」
この人は、茶碗を見た。
「どこへ行っても、持って行ける」
◇
俺は、その言葉に、少し胸が痛んだ。
(――財産の形が、違う)
この人にとって、土地は財産ではない。
いつ取り上げられるか分からないものだ。
だから、持ち運べるものに価値を置く。
(――流浪の民の発想だ)
いや。
(――出向社員の発想だ)
俺は、前世を思い出した。
あちこちに出向させられる社員は、会社への帰属意識を失う。
代わりに、資格や技能――持ち運べるものに価値を置くようになる。
「左近将監様」
「なんでござる」
「ひとつ、伺ってもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
俺は、聞いた。
「もし、まとまった一国を賜れるとしたら、いかがなさいますか」
◇
一益は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「怖うござるな」
俺は、顔を上げた。
「怖い、と」
「さよう」
一益は、茶碗を置いた。
「それがしは、一国を治めたことがござらぬ」
この人は、続けた。
「攻めることはできる。鎮めることもできる」
一益は、少し目を伏せた。
「だが、治めるは、別にござる」
俺は、その言葉を、腹の底で受けた。
(――ああ)
これは、能力の問題ではない。
――経験の問題だ。
この人は、五十七になるまで、一つの土地を長く治めたことがない。
攻める技術は、誰よりある。
だが、治める経験がない。
(――そして、それを本人が分かっている)
◇
「左近将監様」
「は」
「お願いがございます」
俺は、平伏した。
「丹波へ、お越しくださいませ」
一益は、目を丸くした。
「丹波、と」
「はい」
俺は、顔を上げた。
「丹波を、見ていただきとうございます」
「なにゆえ」
「治めておるところを、見ていただきたいゆえにございます」
俺は、続けた。
「攻めは、左近将監様のほうがお上手にございます。それがしは、及びませぬ」
「いや、そのようなことは」
「事実にございます」
「されど、治めることについては、それがしは六年やっております」
俺は、平伏した。
「お見せしとうございます」
◇
一益は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守どの。なにゆえ、そこまでなさる」
俺は、答えた。
「便利な者が、いざというとき居場所がない、と書かれました」
「それは、直せると存じます」
一益は、動かなかった。
「左近将監様は、攻めの才をお持ちにございます。それは、誰も疑いませぬ」
「さて」
「されど、攻めは、いずれ終わりまする」
俺は、言った。
「天下が定まれば、攻める先がなくなりまする」
俺は、顔を上げた。
「そのとき、攻めの才しかない者は、居場所を失いまする」
◇
一益は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守どの」
「は」
「それは、それがしの話にござるか」
俺は、答えた。
「織田家全体の話にございます」
「攻めの才で登った者は、皆、同じ危うさを抱えております」
俺は、少し間を置いた。
「羽柴筑前守様も」
一益の目が、動いた。
「筑前どのが、か」
「はい」
「あの方は、治めるのも上手にござろう」
「上手にございます」
俺は、認めた。
「されど、あの方は止まれませぬ」
俺は、続けた。
「止まれば終わりだと、ご自身で仰せられました」
◇
一益は、しばらく茶碗を見ていた。
そして、こう言った。
「日向守どの」
「は」
「丹波へ、参ろう」
俺は、顔を上げた。
「まことにございますか」
「まことにござる」
一益は、少し笑った。
そして、こう言った。
「ただし、一つ条件がござる」
「なんなりと」
この人は、茶碗を持ち上げた。
「帰りに、坂本の茶器を見せていただきたい」
俺は、思わず笑った。
「粗末なものばかりにございます」
「構い申さぬ」
一益は、言った。
「日向守どのがお持ちの茶器なら、見てみたい」
この人は、少し目を細めた。
「人は、持ち物に出申す」
◇
その帰り道。
俺は、馬上で考えていた。
(――滝川様を、どうする)
この人には、まとまった領国が要る。
だが、それは俺が決めることではない。
(――上様に、言うか)
いや。
俺は、首を振った。
(――違う)
俺は、あることに気づいた。
(――中将様だ)
信忠には、まだ側近がいない。
――走る者。拾う者。見る者。分ける者。
俺は、そう書いた。
(――滝川様は、どれだ)
俺は、しばらく考えた。
そして、答えを見つけた。
(――どれでもない)
この人は、四つのどれにも当てはまらない。
だが。
(――どれにも、なれる)
俺は、手綱を握り直した。
(――足りないところに入れる人だ)
それは、器用貧乏ではない。
――予備だ。
組織にとって、最も貴重で、最も評価されないもの。




