第66話 暦が、合わぬ
天正十年、三月。
御馬揃えが終わって、半月が過ぎた。
俺は、坂本に戻っていた。
そして――床に伏せていた。
「言わぬこっちゃない」
利三が、枕元で怒っていた。
「三日寝ずに走り回り、その後も休まれず」
「大事ない」
「前も、そう仰せられた」
俺は、言い返せなかった。
六年前、俺は同じことを言って、安土で倒れている。
「殿。決まりをお作りになったのは、殿にござる」
利三は、書付を突きつけた。
「『数を扱う書付は、夜に書かせるな』」
「それは、書付の話だ」
「同じことにござる」
三日、寝かされた。
その三日、俺は天井を見ながら、ずっと考えていた。
(――何かが、おかしい)
御馬揃えの夜から、ずっと引っかかっていることがあった。
だが、それが何なのか、掴めない。
三日目の夜、ようやく分かった。
◇
俺は、跳ね起きた。
「利三ッ」
「なんでござるッ! 寝ておられませッ!」
「暦を持ってこい」
俺は、暦を広げた。
そして、書付を出した。
この六年、俺が書き溜めてきたものだ。
――丹波の記録。荷の記録。安土の記録。
俺は、日付を追った。
そして、指が止まった。
(――合わない)
俺は、暦を睨んだ。
俺の知っている歴史では――
――京都御馬揃えは、天正九年の二月だ。
だが、行われたのは、天正十年の二月だった。
――一年、遅い。
俺は、書付をめくった。
そして、他のものも確かめた。
――三木城の落城。俺の記憶では天正八年正月。実際も、天正八年正月。
これは、合っている。
――有岡城の荒木村重。俺の記憶では天正六年。実際は、天正九年三月。
三年、遅い。
――竹中半兵衛。俺の記憶では天正七年に没している。実際は、まだ生きている。
俺は、書付を握りしめた。
◇
(――ばらばらだ)
合っているものと、ずれているものがある。
しかも、ずれ方が一定でない。
三年遅いものがある。一年遅いものがある。合っているものもある。
(――なぜだ)
俺は、しばらく考えた。
そして、あることに気づいた。
(――俺が、触ったところだけがずれている)
俺は、書付を並べた。
――丹波。俺が直接やった。
――播磨。秀吉が俺の方法を真似た。
――摂津。村重の謀反。
――京。御馬揃え。俺が奉行をやった。
そして、ずれていないもの。
――三木城。俺が触っていない。
(――そうか)
俺は、額を押さえた。
(――俺が触ったところから、歴史が遅れている)
◇
いや。
俺は、首を振った。
(――「遅れている」のではない)
俺は、考え直した。
丹波は、俺のやり方で、むしろ早く鎮まった。
だが、その分、他のことが後回しになった。
例えば、御馬揃え。
これは、丹波と播磨が片付いた後にやる催しだ。
(――丹波は早く片付いた)
だが、播磨は――
俺は、記録を見た。
(――三木城の後、但馬と因幡がある)
そして、有岡城が三年遅れて起きた。
その分、諸将の手が塞がった。
(――だから、御馬揃えが一年遅れた)
俺は、筆を取った。
そして、書いた。
――歴史は、一本の糸ではない。
――絡み合った網である。
――一箇所を引けば、他が動く。
――だが、どう動くかは、予め分からぬ。
俺は、その四行を見た。
そして、震えた。
◇
(――では)
俺は、暦を睨んだ。
(――本能寺は、いつだ)
俺の知っている日付は、天正十年六月二日。
――あと、三月。
だが。
(――他が全部ずれているなら)
俺は、拳を握った。
(――その日付だけが、正しいという保証はない)
俺は、そこに二つの可能性を見た。
ひとつ。本能寺も、遅れる。
――一年遅れれば、天正十一年。三年遅れれば、天正十三年。
もし、そうなら。
(――時が、稼げる)
制度を作る時間が増える。信忠が育つ時間が増える。
――良い話だ。
だが。
もうひとつの可能性。
(――日付は、変わらない)
俺は、その可能性を書いた。
なぜなら、本能寺の変というのは、他の出来事とは種類が違うからだ。
城が落ちるのは、戦の結果だ。戦が遅れれば、落城も遅れる。
だが、本能寺は――
(――人が、決断する)
誰かが、ある日、決める。
それは、戦の進み方とは、別の理屈で起きる。
◇
俺は、三つ目の可能性に気づいて、背筋が凍った。
(――早まる)
俺は、その三文字を書いた。
そして、しばらく動けなかった。
――なぜ、その可能性を考えたか。
俺は、理由を書いた。
――本能寺は、織田家が限界に達したときに起きる。
――限界は、家が大きくなるほど早く来る。
――俺は、家を大きく、速くしてしまったかもしれぬ。
俺は、筆を落とした。
(――俺は、何をしてきた)
丹波を早く片付けた。荷を速くした。書付を回した。方面軍を繋いだ。
全部、織田家を強くするためだ。
――強くなれば、速くなる。
――速くなれば、無理が増える。
――無理が増えれば――
(――壊れるのが、早くなる)
◇
俺は、その夜、眠れなかった。
庭に出た。
三月の夜は、まだ冷えた。
「あなた様」
煕子が、来た。
俺は、振り返らなかった。
「寝ておられませぬね」
「うむ」
「お加減が悪いのですか」
俺は、首を振った。
そして、しばらく黙っていた。
やがて、言った。
「煕子。分からなくなった」
煕子は、隣に座った。
何も言わなかった。
俺は、続けた。
「俺は、先が見えていると思っていた」
「はい」
「だが、見えていなかった」
俺は、月を見た。
「見えていたのは、俺が何もしなかったときの先だ」
俺は、拳を握った。
「俺が動いたゆえ、先が変わった」
◇
しばらく、沈黙があった。
やがて、煕子は言った。
「あなた様」
「うむ」
「それは、当たり前のことではございませぬか」
俺は、顔を上げた。
煕子は、月を見ていた。
「わたくしは、六年前に死ぬはずでございました」
俺は、動きを止めた。
「あなた様がそう仰せになったわけではございませぬ。けれど、わたくしには分かります」
煕子は、続けた。
「あの年、あなた様は、必死でございました」
俺は、答えられなかった。
「わたくしは、生きております」
煕子は、静かに言った。
「ならば、先は変わっております」
俺は、この人を見た。
「あなた様が、変えられました」
煕子は、こちらを見た。
「それを、今さら怖がられるのですか」
◇
俺は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「怖い」
「はい」
「俺が変えたせいで、悪くなるかもしれぬ」
煕子は、頷いた。
「そうかもしれませぬ」
俺は、顔を上げた。
この人は、否定しなかった。
「けれど、あなた様」
煕子は、言った。
「良くなっているかもしれませぬ」
俺は、その言葉に、しばらく動けなかった。
「どちらも、分かりませぬ」
煕子は、続けた。
「分からぬのは、六年前も同じでございます」
この人は、少し笑った。
「あのとき、あなた様は、分からぬまま桶の水を替えさせました」
俺は、目を閉じた。
「効くかどうか、分からぬまま」
「はい」
煕子は、言った。
「それでも、なさいました」
◇
俺は、しばらく庭を見ていた。
そして、言った。
「煕子」
「はい」
「俺は、日付を頼りにしていた」
俺は、続けた。
「六月二日。その日さえ乗り切れば、と」
「はい」
「だが、それは間違いだ」
俺は、拳を握った。
「日付が分からぬなら――」
「いつ来てもよいようにするしかない」
翌朝。
俺は、書院に利三を呼んだ。
そして、こう言った。
「利三。作るものが変わった」
「は」
俺は、白紙を広げた。
そして、書いた。
――上様と中将様が、同時に危うくならぬ仕組み。
利三が、覗き込んだ。
そして、顔を上げた。
「殿。これは」
「そのままの意味だ」
俺は、言った。
「上様と中将様が、同じ日に、同じ町で、無防備になってはならぬ」
利三は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「殿。それは」
この男の声が、掠れていた。
「何を、案じておられる」
俺は、答えた。
「分からぬ」
「分からぬゆえ、備える」




