第65話 京都御馬揃え
第65話 京都御馬揃え
天正十年、二月二十八日。
京。
朝から、晴れていた。
内裏の東。八町にわたって、馬場が作られている。
東西に長い。南北は狭い。
その周りに、桟敷が組まれていた。
俺は、夜明け前から現場にいた。
三日、ろくに寝ていない。
「殿。少しお休みくださいませ」
利三が、そう言った。
「終わってからだ」
「そう仰せられて、三日にござる」
俺は、答えなかった。
◇
この馬揃えの奉行は、俺である。
列の順を決め、桟敷を組ませ、馬場の長さを測らせ、当日の刻限を割った。半年、それをやってきた。
そして――俺自身も、その列に入る。
四番目である。
(――作る側と、並べられる側を、同じ日にやる)
前の世で、俺は何度か似たことをした。人事の案を作った者が、その案の中に自分の名を書く。あれは、うまくいったためしがない。
だが、今日は逃げられぬ。
俺は、馬場の東の端に、奉行の席を用意させていた。ここから全部が見える。そして、自分の番が来たら、ここを離れる。
――離れている間の指図は、利三に渡してある。
「利三。俺が馬場に入っておる間だ」
「承知いたし申した」
「何が起きても、おぬしが決めろ」
「――何が起きるとお思いで」
「分からぬ。ゆえに、渡しておる」
利三は、渋い顔をした。だが、頷いた。
人が、集まり始めた。
京の民だ。
馬場の外側に、幾重にも人垣ができていく。
俺は、その光景を見て、少し息を呑んだ。
「利三。何人おる」
「数え切れませぬ」
利三が、唸った。
「万を、超えておりましょう」
◇
辰の刻。
行列が、動き始めた。
最初は、御一門だ。
――織田信忠。
馬上の姿を見て、俺は少し目を細めた。
(――堂に入っている)
二年前とは、違う。
背筋の伸び方は同じだ。だが、あの「型で立っている」不自然さが、消えている。
馬の扱いも、落ち着いていた。
(――変わったな)
次に、信雄。信孝。
二人とも、装束を凝らしていた。
特に信孝は、驚くほど華やかだった。
(――順序は、兄が先だ)
俺は、その並びを見ていた。
信忠、信雄、信孝。
この順は、動かなかった。
だが――
(――信孝様の装束が、いちばん派手だ)
俺は、内心で唸った。
順序で負けた者は、別のところで主張する。
◇
次が、方面軍だった。
――柴田修理亮勝家。
巨躯が、馬上にあった。
装束は、地味だった。
だが、その地味さが逆に目立った。
(――この人は、飾らぬ)
俺は、その姿を見ていた。
勝家は、馬場の中ほどで、一度こちらを見た。
そして――わずかに、顎を引いた。
俺は、平伏した。
次。
――羽柴筑前守秀吉。
どよめきが、起きた。
京の民が、ざわついた。
(――知られている)
この男の名は、京にも届いている。播磨を平らげ、中国筋を任された男として。
そして――出自も、知られている。
(――針売りから、二番目)
俺は、その意味を考えていた。
この列は、織田家の序列だ。
その二番目に、家柄のない男がいる。
――それは、こういう意味になる。
(――織田家では、家柄は関係ない)
◇
秀吉は、馬上で、驚くほど堂々としていた。
そして、京の民に向かって――手を振った。
俺は、目を疑った。
(――何をしている)
民が、沸いた。
どっと、笑いと歓声が上がった。
「殿ッ! あれは!」
利三が、慌てた。
「放っておけ」
俺は、言った。
(――やられた)
この男は、この場が何であるかを、完璧に理解している。
これは、軍事の場ではない。
――見せる場だ。
そして、見せる相手は、朝廷だけではない。
(――民だ)
次。
――丹羽五郎左衛門長秀。
三番目に、俺の名を置くつもりだった。
だが、最終的に信長が入れ替えた。
――丹羽が三番、俺が四番。
俺は、その決定を聞いたとき、少し安堵した。
(――自分を三番に置かずに済んだ)
丹羽長秀は、静かに歩いた。
地味だ。目立たない。
だが、俺は知っている。
この人が、有岡の囲みで、四月かけて城を剥がしたことを。
◇
そして、俺の番が来た。
俺は、奉行の席を立った。
立つとき、利三と目が合った。この男は、何も言わずに、俺の座っていた床几の横に立った。
――半刻、この場の主は、俺ではない。
◇
――明智日向守光秀。
馬に乗り、馬場に入る。
人垣が、目に入った。
万を超える人が、こちらを見ている。
俺は――
(――怖い)
そう思った。
視線が、突き刺さる。
これは、賞賛ではない。
――評価だ。
この場にいる全員が、俺を見て、値踏みしている。
諸将は、俺が四番であることの意味を考えている。
京の民は、「あれが丹波を平らげた男か」と見ている。
公家は、この行列が脅しかどうかを見ている。
(――全員が、違うものを見ている)
俺は、背筋を伸ばした。
馬場を進みながら、俺は考えていた。
(――これが、組織図だ)
紙に書けば、線と四角だ。
だが、実際には――
(――人が、歩いている)
一人ひとりに、家がある。家臣がいる。誇りがある。
その全員が、自分の位置を見て、何かを感じている。
(――俺は、それを決めた)
俺は、手綱を握り直した。
(――軽く決めては、ならなかった)
◇
馬場の西の端を抜けて、俺は列を離れた。
馬を降り、装束のまま、奉行の席へ戻った。
利三が、床几を引いた。
「殿。お戻りにござる」
「変わりは」
「ござらぬ」
俺は、座った。
座って、初めて、膝が震えていることに気づいた。
(――四半刻だ)
馬場に入って、抜けるまで。それだけの間、俺はこの列の中の一つの点であった。
今は、また、外から見る側に戻っている。
(――同じ列が、こんなに違って見えるのか)
中にいたときは、視線しか感じなかった。
外から見ると、順序しか見えない。
◇
そして、三の筋目が来た。
――村井春長軒貞勝。
俺は、その姿を見た。
六十二の老人が、馬上にいる。
装束は、簡素だった。
馬の扱いは、正直、上手くなかった。
(――当然だ)
この人は、十二年、京の役所にいた。
馬に乗る機会など、ほとんどなかったはずだ。
だが。
京の民が、ざわついた。
――違うざわめきだった。
俺は、耳を澄ませた。
「所司代様じゃ」
「村井様じゃ」
声が、聞こえた。
そして、誰かが言った。
「わしの訴えを、聞いてくださった方じゃ」
俺は、その声に、身を固くした。
人垣から、声が上がり始めた。
名を呼ぶ声だ。
諸将の名ではない。
――村井貞勝の名だった。
俺は、村井の顔を見た。
この人は、無表情のまま、前を見ていた。
だが。
(――手綱を、握りしめている)
◇
行列は、続いた。
直臣。馬廻。与力。国衆。
そして最後に、信長が出た。
――どよめきが、変わった。
俺は、その音の質が変わるのを、はっきりと聞いた。
信長は、南蛮の装束だった。
紅色。金糸。そして、異国の帽子。
馬は、栗毛の名馬だった。
(――目立つ)
いや。
(――目立たせている)
俺は、その姿を見ながら、考えていた。
この人は、全部分かっている。
列の順が何を意味するか。
民が何を見たいか。
朝廷が何を恐れているか。
(――分かった上で)
この人は、自分だけ、まったく違う格好で出た。
――誰とも、比べられない格好で。
◇
馬場を、信長が進む。
人垣が、沸いた。
俺は、その音を聞きながら、背筋が冷えるのを感じていた。
(――この人は、比較の外に出た)
列の中にいない。
列を作っている側にいる。
(――つまり)
俺は、拳を握った。
(――この列は、この人がいなくなったら、順番が分からなくなる)
行列は、日が高くなるまで続いた。
馬の数は、千を超えた。
終わったとき、俺は立っているのがやっとだった。
利三が、支えに来た。
「殿ッ」
「大事ない」
「お顔が、真っ白でござる」
俺は、笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
◇
その夜。
俺は、本能寺の近くの寺に、宿を取っていた。
――信長の宿所の、すぐ近くである。
同じ寺ではない。奉行が主君と同じ宿に入れば、諸将の申し次ぎが混じるからだ。
書院で、一人、書付を広げた。
そして、書こうとして――手が止まった。
(――何を書く)
俺は、しばらく動けなかった。
今日、俺が見たものは、何だったのか。
俺は、ようやく一行、書いた。
――織田家の序列は、上様がおられて初めて意味を持つ。
その下に、書いた。
――上様が消えれば、この列は崩れる。
俺は、筆を止めた。
(――そうだ)
今日、俺は列を作った。
誰が一番で、誰が二番で、誰が四番か。
だが、その順序に意味があるのは――
(――上様が、それを認めているからだ)
上様が消えれば。
(――柴田様と羽柴様が、順を争う)
◇
俺は、書付を握りしめた。
(――今日、俺は爆弾を作った)
いや。
(――爆弾が、見えるようにしただけだ)
順序は、前からあった。
俺は、それを目に見える形にした。
――全員に、見せた。
(――見せなければ、よかったのか)
俺は、しばらく考えた。
そして、首を振った。
(――違う)
見えないまま爆発するより、見えているほうがいい。
その夜、遅く。
宿の外で、足音がした。
「日向守どの。おられるか」
村井貞勝の声だった。
俺は、慌てて出た。
「村井様。いかがなされました」
村井は、廊下に立っていた。
そして、こう言った。
「礼を、申しに参った」
俺は、目を瞬いた。
「礼、と」
村井貞勝は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「名を、呼ばれ申した」
◇
この人の声は、いつも通り、平坦だった。
だが。
「十二年、京におる」
村井は、言った。
「名を呼ばれたのは、初めてにござる」
俺は、平伏した。
顔を、上げられなかった。
村井は、続けた。
「日向守どの」
「は」
「それがしの帳面を、読みたいと申されたな」
「申しました」
村井は、こう言った。
「写しを、作り申す」
俺は、顔を上げた。
村井貞勝は、廊下の暗がりに立っていた。
「一部は、日向守どのに」
この人は、言った。
「もう一部は、中将様に」




