第64話 公家という別会社
天正十年、正月。
いや、まだ天正九年の十二月だ。
だが、俺の頭の中では、既に年が変わっていた。
(――あと、半年)
本能寺まで。
その半年前に、俺は公家と交渉していた。
御馬揃えは、内裏の東で行う。
つまり、朝廷の敷地の近くだ。
――許しが要る。
そして、この許しを取るのが、恐ろしく面倒だった。
「日向守どの。それは、先例がございませぬな」
俺は、その言葉を、この一月で三十回は聞いた。
相手は、公家だ。
名は、伏せておく。位は高い。年は、六十を超えている。
そして、絶対に「はい」と言わない。
「先例がなければ、いかがすれば」
「さて。難しゅうございますなあ」
「難しい、と申されますと」
「難しゅうございます」
俺は、額を押さえた。
◇
(――これは)
俺は、三度目の訪問で、ようやく理解した。
この人は、反対しているのではない。
――責任を取りたくないのだ。
許しを出して、何か問題が起きれば、この人の責任になる。
だから「難しい」と言い続ける。決めなければ、責任は発生しない。
(――前世でも、いた)
法務部。コンプライアンス室。
「それはリスクがあります」としか言わない人。
実際にはリスクを評価しているのではなく、判断を避けている。
俺は、方法を変えた。
四度目の訪問で、俺はこう切り出した。
「今日は、お願いに参ったのではございませぬ」
公家が、少し目を上げた。
「ほう」
「教えを乞いに参りました」
俺は、平伏した。
「先例がないと仰せられました。ゆえに、似た先例を探しております」
俺は、続けた。
「どのようなものが、近うございましょうか」
◇
公家の顔が、変わった。
(――これだ)
この人は、判断を求められると逃げる。
だが、知識を求められると――
「さて。近いものと申せば」
喋り出した。
止まらなくなった。
平安の頃の行幸。中世の武家の参内。細かい先例が、次々に出てくる。
俺は、書き取り続けた。
(――物知りだ)
この人は、驚くほど詳しい。
半刻、喋り続けた。
「日向守どの」
やがて、公家は言った。
「そなた、書いておるのか」
「書いております」
「なにゆえ」
俺は、答えた。
「忘れますゆえ」
公家は、少し笑った。
「正直なことよ」
そして、こう言った。
「そなたのような武家は、珍しい」
◇
俺は、その日、もう一つのことを試した。
「お尋ねしてよろしゅうございますか」
「何なりと」
「このたびの馬揃え、朝廷にとって、良きことでございましょうか」
公家は、しばらく黙った。
そして、こう言った。
「難しゅうございますなあ」
――また、それか。
俺は、少し粘った。
「良きこと、悪しきこと、両方あるかと存じます」
俺は、続けた。
「悪しきほうを、お聞かせ願えませぬか」
公家の目が、動いた。
「悪しきほうを、と」
「はい」
「なにゆえ」
「悪しきことが分かれば、直せますゆえ」
公家は、しばらく俺を見ていた。
そして、扇を置いた。
「日向守どの」
「は」
「正直に申してよろしいか」
◇
この人が言ったのは、こういうことだった。
「武家が、内裏の近くで兵を並べる」
公家は、静かに言った。
「それは、力を見せるということにございましょう」
「さようにございます」
「誰に見せる」
俺は、答えられなかった。
公家は、続けた。
「京の民に、でございましょうか。それとも」
この人は、扇を持ち上げた。
「我らに、でございましょうか」
俺は、平伏した。
(――そこか)
この人が「難しい」と言い続けた理由は、責任逃れだけではなかった。
――怖いのだ。
武家が、内裏の前で兵を並べる。
それは、示威だ。
「我らの力は、これほどである」という。
(――脅しに見える)
「お答えいたします」
俺は、顔を上げた。
「上様は、朝廷を脅すおつもりはございませぬ」
公家は、黙っていた。
「と、それがしは思うております」
俺は、続けた。
「されど、思うておるだけにございます」
◇
公家の目が、動いた。
「思うておるだけ、と」
「はい」
俺は、正直に言った。
「上様のお心は、それがしには分かりませぬ」
俺は、続けた。
「ゆえに、保証はできませぬ」
公家は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守どの。そなた、面白いことを申すな」
「は」
「普通は、『そのようなことはございませぬ』と申す」
俺は、平伏した。
「申しても、信じていただけませぬ」
公家は、扇を開いた。
そして、こう言った。
「では、何を約束できる」
俺は、顔を上げた。
(――来た)
この人は、今、交渉に入った。
俺は、用意していた案を出した。
「三つ、申し上げます」
「伺おう」
「ひとつ。兵は、武具を着けませぬ」
公家の眉が、動いた。
「装束にて参ります。戦の支度ではございませぬ」
「ふたつ。鉄砲は、一挺も出しませぬ」
俺は、続けた。
「みっつ」
俺は、少し間を置いた。
「行列の道筋を、先にお知らせいたします」
◇
公家は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「三つ目は、なにゆえ」
俺は、答えた。
「どこを通るか分からねば、恐ろしゅうございますゆえ」
「先に分かっておれば、恐ろしくございませぬ」
公家は、扇を閉じた。
「日向守どの」
「は」
「そなた、我らが恐れておると思うておるのか」
俺は、平伏した。
「僭越ながら」
長い沈黙があった。
やがて、公家は言った。
「恐れておる」
俺は、顔を上げなかった。
「武家は、いつも来る」
公家は、静かに言った。
「そして、いつも去る」
この人は、続けた。
「平家が来た。源氏が来た。北条が来た。足利が来た」
俺は、聞いていた。
「皆、去った」
公家は、扇を膝に置いた。
「我らだけが、残っておる」
◇
俺は、その言葉に、少し寒気を覚えた。
(――時間の尺度が、違う)
この人たちは、何百年という単位で物を考えている。
武家が来て、去る。それを何度も見てきた。
(――織田も、そのうちの一つに過ぎない)
少なくとも、この人たちにとっては。
「日向守どの」
「は」
「織田様は、どれほど続くとお思いか」
俺は、顔を上げた。
この質問は、極めて危険だ。
答え方を間違えれば、朝廷を軽んじたことになる。
だが、俺は――
俺は、正直に答えた。
「上様がおられる間は、続きまする」
公家の目が、動いた。
「その後は」
「分かりませぬ」
俺は、言った。
「ゆえに、それがしは仕組みを作っております」
◇
公家は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「仕組み、と」
「はい」
「どのような」
俺は、答えた。
「上様がおられずとも、回るようにする仕組みにございます」
公家は、扇を置いた。
そして、初めて、真面目な顔をした。
「日向守どの」
「は」
「それは、我らのやってきたことにござる」
俺は、動きを止めた。
「と、申されますと」
公家は、こう言った。
「朝廷は、千年続いておる」
この人は、静かに言った。
「なにゆえだと思われる」
俺は、答えられなかった。
「帝が、お強いゆえではござらぬ」
公家は、続けた。
「決まりがあるゆえにござる」
◇
俺は、その言葉を、腹の底で受けた。
「誰が、いつ、何をするか。式次第がござる」
公家は、言った。
「帝が幼くとも、病でも、式次第は動き申す」
この人は、扇を取った。
「それが、千年でござる」
俺は、平伏した。
深く、平伏した。
「お教え、ありがたく存じます」
公家は、少し笑った。
「日向守どの」
「は」
「馬揃えの儀、進められよ」
俺は、顔を上げた。
公家は、扇を開いた。
「先例は、ござらぬ」
この人は、言った。
「ゆえに、作り申そう」
その帰り道、俺は歩きながら考えていた。
(――千年)
朝廷は、千年続いている。
武力ではなく、儀礼と式次第で。
(――俺のやっていることと、同じか)
いや。
俺は、首を振った。
(――違う)
式次第は、変わらないことを守る仕組みだ。
俺が作ろうとしているのは、変わり続けても壊れない仕組みだ。
(――どちらが、強い)
俺は、答えを持たなかった。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
(――千年、実際に続いている)
俺は、そちらを見習わねばならない。




