第63話 村井貞勝の帳面
天正九年、十二月。
京。
御馬揃えの支度は、想像を超える仕事量だった。
道を整える。桟敷を組む。人を配る。装束を整えさせる。馬を集める。
そして――朝廷への差配。
俺は、村井貞勝の役所に、半ば住み込んでいた。
「日向守どの。まだおられるのか」
「おります」
「もう、子の刻にござる」
「村井様も、おられます」
村井貞勝は、無表情のまま言った。
「それがしは、ここが住まいにござる」
この人の仕事の速さは、異様だった。
訴えが来る。その場で裁く。
だが、裁いた後、必ず帳面に書く。
――何を、なぜ、そう裁いたか。
「村井様。なにゆえ、その場で書かれます」
「後で書けば、忘れ申す」
「お忘れになりますか」
「忘れ申す」
村井は、あっさり言った。
「一日に、二十も三十も裁き申す。三日経てば、混ざり申す」
◇
俺は、この人の帳面をめくらせてもらった。
九年分が、十三年分になっていた。
そして、あることに気づいた。
「村井様。この印は」
帳面の端に、時折、小さな印が押してある。
村井は、少し目を上げた。
「ああ。それにござるか」
「何の印でございましょう」
村井は、こう言った。
「間違えた裁きにござる」
俺は、動きを止めた。
「間違えた、と」
「さよう」
村井は、平然と言った。
「後になって、間違うたと分かった裁きにござる」
俺は、帳面をめくった。
印は――少なくない。
数えると、十二年で百を超えていた。
「村井様。これは」
「消しはせぬ」
村井は、言った。
「消せば、なにゆえ間違えたかが分からなくなり申す」
◇
俺は、その言葉に、しばらく動けなかった。
(――この人)
自分の失敗を、十二年、消さずに残している。
しかも、印をつけて、見つけやすくしている。
「村井様」
「なんでござる」
「これを、誰かに見せられたことは」
「ござらぬ」
村井は、答えた。
「誰も、見とうござらぬゆえ」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「村井様。それがしは、見とうございます」
村井貞勝は、初めて、少し動いた。
目の奥が、動いた。
「なにゆえ」
「間違いは、正しい裁きより多くを教えますゆえ」
俺は、続けた。
「正しい裁きは、その場でうまくいっただけかもしれませぬ。されど、間違いには、必ず理由がございます」
◇
村井は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守どの。ひとつ、お見せいたす」
この人は、帳面の一冊を引き出した。
そして、あるページを開いた。
印が、ついている。
――永禄十二年。町人の訴え。土地の境。裁き。
その下に、後から書き足された文字があった。
――誤り。境の書付を、片方しか見ておらなんだ。
俺は、その一行を読んだ。
「村井様。これは」
「それがしが、京へ来て最初の年にござる」
村井は、言った。
「片方の言い分だけを聞いて、裁き申した」
「なにゆえ」
「もう片方が、字を書けなんだゆえ」
◇
俺は、息を呑んだ。
村井は、続けた。
「訴えは、書付で出すのが定めにござった。ゆえに、書けぬ者は訴えられ申さぬ」
「その者は」
「土地を失い申した」
村井は、帳面を閉じた。
「三年後、その者の子が、また訴えて参った」
俺は、顔を上げた。
「そのときは」
「口で聞き申した」
村井は、言った。
「そして、裁きを覆し申した」
俺は、しばらく答えられなかった。
やがて、言った。
「村井様。それは、大変な決断にございます」
この時代、一度下した裁きを覆すのは、権威の否定に等しい。
「所司代は間違える」と認めることになる。
「さよう」
村井は、頷いた。
「家中の者に、止められ申した」
「それでも、覆されたと」
「覆し申した」
村井は、こう言った。
「間違うたものは、間違うたのでござる」
◇
その夜、俺は宿で書付を広げた。
そして、書いた。
――村井貞勝。京都所司代。
――十二年、裁きを記す。誤りには印をつけ、消さぬ。
――一度、裁きを覆したことあり。
俺は、筆を止めた。
(――この人は)
誰にも褒められない。
上様は、この帳面を見たことがない。
諸将は、この人を「事務方」と思っている。
だが。
(――この人がいなければ、京は回らぬ)
翌日、俺は村井に、ひとつ提案をした。
「村井様。御馬揃えのことでございます」
「なんでござる」
「列に、村井様のお名を入れとうございます」
村井貞勝は、しばらく動かなかった。
そして、こう言った。
「それがしは、武士ではござらぬ」
「武士にございます」
「戦に出ており申さぬ」
俺は、言った。
「京を、預かっておられます」
◇
村井は、首を振った。
「日向守どの。おやめなされ」
「なにゆえ」
「列に加われば、恨まれ申す」
村井は、続けた。
「『所司代ごときが』と申す者が、必ず出申す」
「出ましょう」
俺は、認めた。
「されど」
俺は、続けた。
「出ぬほうが、後で困ります」
村井が、顔を上げた。
「どういう意味にござる」
「村井様が列におられねば、京の役は、列に入らぬ役だということになりまする」
「そうなれば、誰も京の役をやりとうなくなりまする」
村井は、動きを止めた。
「今は、村井様がおられます。されど、村井様の後は」
◇
長い沈黙があった。
やがて、村井は言った。
「日向守どの」
「は」
「それがしは、六十二にござる」
俺は、頷いた。
「あと、幾年かは分かり申さぬ」
村井は、続けた。
「後を、案じてはおり申した」
この人は、初めて、少し目を伏せた。
「誰も、この役をやりたがり申さぬゆえ」
俺は、平伏した。
「村井様。ゆえに、列にお加わりくださいませ」
俺は、言った。
「京を預かる者が、諸将と並んで歩く。それを、京の者も、諸将も、見まする」
「見れば、この役が軽くないと分かりまする」
村井貞勝は、長いこと黙っていた。
そして、こう言った。
「前例がござらぬ」
俺は、顔を上げた。
村井は、少しだけ――ほんの少しだけ、口の端を動かした。
「ゆえに、今から作り申す」
◇
その夜。
俺は、列の案に、村井貞勝の名を書き入れた。
三の筋目――京・畿内の役を預かる者。
その筆頭に。
利三が、覗き込んだ。
「殿。これは、揉め申すな」
「揉めるだろう」
「なにゆえ、そこまで」
俺は、筆を置いた。
そして、言った。
「利三。組織というのは、誰を前に置くかで、何を大事にしておるかを示す」
俺は、続けた。
「首を取った者だけを前に置けば、家中は首を取ることだけを考える」
俺は、名簿を見た。
「京を治める者を前に置けば、治めることも大事だと分かる」
利三は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「殿」
「なんだ」
「それは、殿の『功の書』と同じでござるな」
俺は、顔を上げた。
「守りの功を、戦の功と並べて書かれた」
利三は、続けた。
「あれと、同じにござる」
俺は、少し笑った。
「そうだな」
俺は、筆を取った。
「利三。あれを作ったとき、おぬしは何と言った」
利三は、少し照れくさそうに言った。
「覚えており申さぬ」
「嘘をつけ」
俺は、笑った。
「『次は、それがしが書き申す』と言った」
利三は、頭を掻いた。
そして、こう言った。
「で、いつやりますので」




