第61話 歩く組織図
――半兵衛から目を渡され、官兵衛を牢から出した。
――そして上様は、諸将を京に並べると言い出された。
――列の順は、家の順である。誰が、どこに立つか。
天正九年、九月。
丹波に、新しい城が出来上がった。
福知山。由良川の岸に築いた平城だ。丹波の真ん中にあり、北へも西へも道が通っている。荷の要になる場所だった。
城代を、誰にするか。
俺は、一月迷った。そして、決めた。
「秀満。福知山を預ける」
左馬助は、しばらく動かなかった。
「それがしに、でございますか」
「そうだ」
「それがしは、戦の功がございませぬ」
「知っている」
俺は言った。
「福知山に要るのは、戦の功ではない。決めたことを、決めた通りに続けることだ」
この男は、まだ納得しない顔をしていた。
「秀満。丹波は、四十二家ある。書付を出し、年に二度会い、跡取りを呼び、揉め事を裁く。それを、五年続けねばならぬ」
俺は、続けた。
「五年続けられる者を、俺は一人しか知らぬ」
左馬助は、平伏した。
顔を上げたとき、目が赤かった。
◇
その夜、利三が言った。
「殿。左馬助どのは、泣いておられ申した」
「見たか」
「見申した。――あの者は、婿にござるゆえ」
利三は、酒を注ぎながら続けた。
「明智の姓を頂いておるが、血は繋がっており申さぬ。家中の者も、口には出さぬが、知っており申す」
「うむ」
「城を預かるのは、初めてにござる」
俺は、盃を置いた。
(――そうか)
この男が決まりを人一倍守るのは、性分だけではない。守っていれば、誰にも文句を言われないからだ。婿とは、そういう立場だ。
城を預かるということは、初めて、守るだけでなく決める側に立つということだ。
「利三。あの者は、福知山を保てるか」
「保ち申す」
利三は、即答した。
「あれは、城を枕にする男にござる」
俺は、少し笑った。
「大袈裟だな」
「大袈裟ではござらぬ」
利三は、真面目な顔をした。
「若い頃、湖で舟がひっくり返ったことがござる。あの者は、馬を曳いたまま泳ぎ着き申した」
「馬をか」
「馬をにござる」
利三は、渋い顔をした。
「以来、家中では『左馬助どのは、馬に乗ったまま湖を渡る』と申しております」
俺は、笑った。
笑いながら、その言葉を書き留めた。
(――噂は、細かくなる)
舟がひっくり返って泳ぎ着いた、が、馬に乗って湖を渡る、になる。丹波の母人質の噂と、同じ作られ方だ。
だが、この噂は、悪いものではない。
――家中が、あの男を認め始めている。
◇
天正九年、十月。
俺は、書院で一枚の紙を睨んでいた。
白紙だ。
もう三日、白紙のままだった。
「殿。まだ書けませぬので」
利三が、呆れた顔で言った。
「書けぬ」
「列を並べるだけでござろう」
「それが、書けぬ」
俺は、筆を置いた。
京都御馬揃え。
正月に、京で行う。
諸将が、装束を整え、馬を引き、内裏の東で行進する。
――要するに、閲兵式だ。
目的は、いくつもある。
朝廷に、織田家の力を見せる。
京の民に、天下人を見せる。
そして――
(――家中に、序列を見せる)
俺は、白紙に、ようやく一行書いた。
――誰が、どの順で歩くか。
これは、単なる並び順ではない。
この時代、行列の順は、そのまま身分の順だ。
誰が前で、誰が後ろか。誰と誰が同じ列か。
それを見れば、織田家の中で誰が上か、一目で分かる。
(――つまり)
俺は、筆を握った。
(――組織図だ)
◇
俺は、前世を思い出していた。
組織図というのは、恐ろしいものだ。
線を一本引くだけで、人の関係が変わる。
誰が誰の下につくか。誰と誰が並ぶか。
紙の上の話だ。だが、その紙を見た瞬間、人は自分の位置を知る。
そして――納得するか、恨むかを決める。
(――しかも)
俺は、白紙を見た。
(――これは、紙ではない)
実際に、人が歩く。
諸将が、家臣を連れ、装束を整えて、京の大路を歩く。
――全員が、全員の位置を見る。
「利三」
「は」
「これは、危ない仕事だ」
「ようやく、お気づきになられたか」
利三は、あっさり言った。
「知っていたのか」
「当たり前でござる」
利三は、腕を組んだ。
「殿が列を決められる。決められた者は、皆、殿を恨み申す」
「全員がか」
「前に置かれた者も、恨み申す」
俺は、顔を上げた。
「なぜだ」
「『なにゆえ、明智に決められねばならぬ』と」
◇
俺は、その言葉に唸った。
(――その通りだ)
人事の発表というのは、そういうものだ。
昇進した者ですら、「なぜあいつに決められるのか」と思う。
(――俺は、恨みを買う役を振られた)
いや。
俺は、少し考えた。
(――違うな)
これは、そんなに単純ではない。
信長は、なぜ俺にこれを振ったのか。
俺は、その夜、考え続けた。
可能性は、いくつかある。
ひとつ。俺が、朝廷との交渉に慣れているから。
これは、実務的な理由だ。俺は京の周辺を長く預かっている。公家との付き合いもある。
ふたつ。俺が、恨まれても構わない立場だから。
――これは、嫌な理由だ。
みっつ。
俺は、筆を止めた。
(――試している)
◇
俺は、その可能性を書き出した。
――上様は、それがしが誰を上に置くかを見ておられる。
もし俺が、自分を前に置けば。
――野心がある、と見られる。
もし俺が、自分を極端に後ろに置けば。
――卑屈だ、あるいは何か企んでいる、と見られる。
(――どちらも、罠だ)
俺は、額を押さえた。
三日後、俺は決めた。
自分の位置を、先に決めるのをやめる。
代わりに、原則を作ることにした。
俺が書いたのは、こうだ。
――列の順を決める、五つの筋目。
一、御一門。
二、方面軍を預かる者。
三、京・畿内の役を預かる者。
四、直臣・馬廻。
五、与力・国衆。
これは、当たり前の順だ。誰も文句を言えない。
問題は、その中の順序だった。
◇
「利三。方面軍を預かる者は、五人だ」
「柴田様、羽柴様、丹羽様、滝川様、そして殿にござる」
「この五人の順を、どうする」
利三は、腕を組んだ。
「年の順では」
「柴田様が最年長だ。それは動かぬ」
俺は、続けた。
「では、二番目は」
「丹羽様かと」
「なにゆえ」
「古参ゆえ」
俺は、頷いた。
「では、羽柴様は」
利三が、詰まった。
「羽柴様は、新参にござる」
「だが、播磨を平らげた」
「……」
「功で言えば、この一年、いちばん上げておられる」
俺は、白紙に二つの列を書いた。
――古参の順。
――功の順。
この二つは、まったく違う並びになる。
(――これが、あらゆる組織の問題だ)
俺は、そう思った。
年功か、成果か。
どちらか一方に寄せれば、必ず片方が不満を持つ。
◇
俺は、三日考えて、三つ目の案を作った。
――役の重さの順。
つまり、今この瞬間、織田家にとってどれだけ重要な役を担っているか。
これなら、年功でも功績でもない。
「利三。どう思う」
利三は、しばらく考えた。
そして、こう言った。
「殿。それは、いちばん揉め申す」
「なぜだ」
「『役の重さ』を、誰が測り申す」
俺は、動きを止めた。
「年なら、数えられ申す。功なら、城の数で分かり申す」
利三は、続けた。
「されど、役の重さは――殿がお決めになることにござる」
俺は、その指摘に、頭を抱えた。
(――正しい)
測れる基準でなければ、納得されない。
そして、測れない基準を使えば、決めた人間が全ての恨みを引き受ける。
(――どうする)
俺は、しばらく考えた。
そして、あることに気づいた。
◇
(――俺が決める必要は、ないのではないか)
俺は、筆を取った。
そして、書いた。
――列を決めるのは、上様である。
――それがしの役目は、決めるための材料を作ることである。
俺は、その二行を見た。
(――そうだ)
俺は、奉行だ。
奉行の仕事は、決めることではない。
(――決められるようにすることだ)
十一月。
俺は、安土へ行った。
そして、信長の前に、三つの案を出した。
――甲案。古参の順。
――乙案。功の順。
――丙案。役の重さの順。
それぞれに、こう書いた。
――この案を採ると、誰が不満を持つか。
信長は、三つの紙を並べた。
そして、しばらく黙っていた。
やがて、こう言った。
「日向守」
「は」
「おぬしは、どれがよいと思う」
◇
俺は、平伏した。
(――来た)
この質問が、いちばん危ない。
どれかを選べば、その案で得をする者と繋がっていると見られる。
だが、答えないのも、逃げだ。
俺は、顔を上げた。
そして、言った。
「丙案にございます」
「なぜだ」
「もっとも、上様の御意に沿うゆえにございます」
信長の眉が、上がった。
「どういう意味だ」
俺は、答えた。
「上様は、家柄で人をお使いになりませぬ。年でもお使いになりませぬ」
「今、何をしておるかで、お使いになります」
信長は、しばらく俺を見ていた。
そして、こう言った。
「では、丙案でおぬしはどこだ」
「三番目にございます」
「なぜ三番目だ」
「丹波と、京の周りを預かっておりますゆえ」
俺は、続けた。
「柴田様は北陸一円、羽柴様は中国筋。それがしの預かりは、それより狭うございます」
信長は、紙を見ていた。
「羽柴が、二番か」
「はい」
「柴田が怒るぞ」
俺は、平伏した。
「怒られましょう」
◇
長い沈黙があった。
やがて、信長は言った。
「日向守」
「は」
「柴田に、おぬしから申せ」
俺は、顔を上げた。
(――そう来たか)
信長は、平然と言った。
「わしが申せば、命令だ。命令なら、修理は従う。従うが、腹に持つ」
俺は、息を呑んだ。
「おぬしが申せば、話になる」
信長は、続けた。
「話になれば、修理は言い返せる」
俺は、その言葉に、しばらく動けなかった。
(――この人)
分かっている。
柴田勝家が何を思うか。命令と説明の違いが何を生むか。
――全部、分かっている。
(――分かっていて)
俺は、平伏した。
(――自分ではやらない)
◇
安土を出た夜、俺は宿で書付を広げた。
そして、書いた。
――上様は、感情を知らぬのではない。
――知っていて、扱わぬのだ。
俺は、筆を止めた。
そして、書き足した。
――扱わぬのは、扱えば速さが落ちるゆえである。
俺は、その一行を見た。
(――交換している)
この人は、家臣の感情を扱う手間を捨てて、速さを買っている。
そして、その手間を――
(――誰かに、押し付けている)
俺は、筆を置いた。
(――今日から、それは俺だ)




