第60話 秀吉は一人ではない
天正九年、九月。
有岡城は、まだ落ちていなかった。
だが、崩れ始めていた。
丹羽長秀が始めた聞き取りが、効いていた。
抜けてくる者が増え、その者たちから内情が入る。内情が分かれば、降りたい者に手が伸ばせる。
――内側から、剥がれていく。
俺は、坂本に戻っていた。
摂津は、俺の役目ではない。長居はできなかった。
だが、書付だけは送り続けた。
――町の者からの聞き取りの様式。
――抜けてきた者の扱い方。
――降りたいと申す者への返答の型。
丹羽からは、律儀に返事が来た。
そのうちの一通に、こうあった。
――日向守どの。
――先日、村重どのの家中の者と、内々に会い申した。
――その者が申すには、村重どのは、いまだに「なにゆえこうなったか分からぬ」と仰せとのこと。
俺は、その一行を、長いこと見ていた。
◇
九月の末、官兵衛が坂本に来た。
輿で運ばれてきた。
まだ、歩けない。
だが、顔色は良くなっていた。
「日向守様。世話になり申す」
「よくぞお越しくださいました」
俺は、この男を書院に通した。
そして、書付を出した。
――役目書。
――荷の覚。
――功の書。
――丹波、御仕置きの覚。
官兵衛は、それを読んだ。
半日、読み続けた。
俺は、途中で三度、休むよう勧めた。
三度とも、断られた。
夕方になって、ようやく顔を上げた。
そして、こう言った。
「日向守様」
「は」
「これは、恐ろしいものにござる」
◇
俺は、身を固くした。
「どのように、恐ろしゅうございますか」
官兵衛は、書付を指した。
「これがあれば、日向守様がおられずとも、明智の家は動き申す」
「はい」
「それは、日向守様が要らぬということにござる」
俺は、頷いた。
「さようにございます」
官兵衛は、俺を見た。
「怖くはござらぬか」
俺は、少し考えた。
そして、答えた。
「怖うございます」
「正直な方にござるな」
官兵衛は、少し笑った。
「されど、それでもお作りになる」
「はい」
「なにゆえ」
俺は、しばらく答えを探した。
そして、言った。
「それがしは、五年前に倒れました」
官兵衛の目が、動いた。
「熱が下がらぬまま、上様の御前で倒れました。四日、寝ておりました」
俺は、続けた。
「その四日、明智の家は止まりました」
俺は、書付に手を置いた。
「今なら、止まりませぬ」
◇
官兵衛は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守様。ひとつ、申し上げてよろしいか」
「なんなりと」
「それは、半分にござる」
俺は、顔を上げた。
「日向守様が倒れても、明智の家は動き申す。それは、まことにござる」
官兵衛は、続けた。
「されど――日向守様が疑われたときは、どうにござる」
俺は、動きを止めた。
「と、申されますと」
「そのままにござる」
官兵衛は、静かに言った。
「日向守様が、上様に疑われたとき。この書付は、日向守様を守り申すか」
俺は、書付を見た。
(――守る)
そう答えようとして、止まった。
「村重どのは、疑われ申した」
官兵衛は、続けた。
「あの方には、何もござらなんだ。ゆえに、弁明できなんだ」
この男は、俺を見た。
「日向守様には、書付がござる。されど――」
官兵衛は、言った。
「その書付は、日向守様がお作りになったものにござる」
◇
俺は、その言葉で、背筋が凍った。
(――そうだ)
自分で作った記録は、自分の弁明にならない。
「都合よく書いたのだろう」と言われれば、それまでだ。
記録が証拠になるのは、第三者が管理しているときだけだ。
「黒田どの」
「は」
「いかがすれば」
官兵衛は、あっさり答えた。
「他家に、写しを置かれることにござる」
俺は、顔を上げた。
「同じ書付を、羽柴にも、柴田にも、丹羽にも置く」
官兵衛は、続けた。
「そうすれば、書き換えられ申さぬ。書き換えれば、他の写しと食い違いまする」
俺は、しばらく動けなかった。
(――分散だ)
記録を一箇所に置かず、複数に置く。
改竄を防ぎ、同時に、自分の潔白を第三者に証明させる。
◇
「黒田どの」
「は」
「なにゆえ、それを教えてくださる」
官兵衛は、少し笑った。
「牢で、考えており申した」
この男は、言った。
「もし、それがしの働きが、どこかに書いてあったなら」
官兵衛は、続けた。
「四月も、牢におらずに済んだかもしれ申さぬ」
その夜、俺は官兵衛と、遅くまで話した。
この男の話は、面白かった。
そして、恐ろしかった。
俺が何かを言うと、必ず三つの答えが返ってくる。
「日向守様。それがしなら、こう考え申す」
官兵衛は、指を三本立てた。
「ひとつ。仰せの通りにする」
「ふたつ。逆にする」
「みっつ。何もせぬ」
俺は、面食らった。
「三つとも、でございますか」
「三つとも考え申す」
官兵衛は、当然のように言った。
「そして、三つそれぞれで、何が起きるかを見申す」
◇
俺は、この男の思考の速さに、感心した。
だが、同時に、あることに気づいた。
「黒田どの」
「は」
「その三つ目は」
俺は、言った。
「『何もせぬ』というのは」
官兵衛は、少し笑った。
「お気づきになられたか」
俺は、頷いた。
「三つ目を考えるということは――」
「危機を、使うということにございますな」
部屋の空気が、変わった。
官兵衛は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守様。それがしは、そういう男にござる」
この男は、真っ直ぐ俺を見た。
「危機が来たとき、それがしには二つ見え申す」
「防ぐ道と」
「使う道にござる」
官兵衛は、言った。
「両方、同時に見え申す」
◇
俺は、この男を見た。
(――だから、愛想が十二なのか)
俺は、そう思った。
この男は、隠さない。
「私は、あなたを裏切る道も同時に計算しています」と、正面から言う。
――普通は、嫌われる。
だが。
(――嘘をつく男より、よほど信用できる)
「黒田どの」
「は」
「それがしは、あなたが好きです」
官兵衛が、目を見開いた。
「は?」
「嫌われるお方だと、半兵衛様が申しておられました」
俺は、続けた。
「されど、それがしは、あなたのような方が好きにございます」
官兵衛は、しばらく固まっていた。
そして、こう言った。
「日向守様は、変わったお方にござるな」
◇
その夜、官兵衛が帰った後。
俺は、書院で一人、書付を広げた。
そして、この一年を振り返った。
――羽柴秀吉。走り続ける男。止まれば終わると知っている。
――羽柴秀長。後ろで拾う男。功名心、五。
――竹中半兵衛。目を渡す男。病んでいる。
――黒田官兵衛。分岐を全部見る男。愛想、十二。
俺は、四人の名を並べた。
(――強い)
俺は、そう思った。
だが、それは「秀吉が強い」ということではない。
「利三」
「は」
俺は、書付を指した。
「羽柴の家が恐ろしいのは、筑前殿おひとりのゆえではない」
利三が、顔を上げた。
「筑前殿が走る。小一郎様が拾う。半兵衛様が見る。官兵衛様が分ける」
俺は、続けた。
「四人で、一人分の働きをしておるのではない」
俺は、拳を握った。
「四人で、四人分より多い働きをしておる」
◇
利三は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「殿。それは、明智の家にはござらぬので」
俺は、答えた。
「ある」
俺は、利三を見た。
「おぬしがいる。秀満がいる。三沢がいる。煕子がいる。玉がいる」
「だが」
俺は、書付に目を落とした。
「中将様には、おらぬ」
利三が、動きを止めた。
「中将様には」
「そうだ」
俺は、言った。
「あの方の周りには、まだ誰もおらぬ」
「岐阜には、家臣がいる。だが――走る者と、拾う者と、見る者と、分ける者が、揃っておらぬ」
俺は、筆を取った。
「上様が倒れたとき」
俺は、書いた。
「中将様には、四人が要る」
◇
俺は、その夜、遅くまで書き続けた。
誰を、信忠の側に置くか。
――走る者。
――拾う者。
――見る者。
――分ける者。
名前を、書き出していった。
そして、手が止まった。
(――足りない)
名前は挙がる。だが、四つの型を埋められない。
いや。
(――もっと悪い)
俺は、筆を置いた。
――今、信忠の周りにいる者は、全員「拾う者」だ。
真面目で、忠実で、指示を守る。
(――走る者が、おらぬ)
俺は、天井を見た。
(――そして、分ける者も)
その三日後。
安土から、書状が来た。
信長からだった。
――日向守。
――正月、京にて馬揃えを行う。
――奉行を申し付ける。
俺は、その三行を読んで、動きを止めた。
馬揃え。
――織田家の、諸将を京に集める。
そして、書状の最後に、こうあった。
――勘九郎も出す。列を考えよ。
俺は、書状を握りしめた。
(――列を、考えよ)
それは、こういう意味だ。
――誰が、どの順で歩くかを決めよ。
(――序列を、俺が決めるのか)




