第59話 牢から出てきた男
若い侍の名は、加藤又左衛門といった。
荒木家の家臣で、牢の番を任されているという。
「なにゆえ、黒田どのを救いたい」
丹羽が、そう問うた。
若い侍は、しばらく答えなかった。
やがて、こう言った。
「話を、してくださるゆえ」
俺は、その一言に、引っかかった。
「加藤どの。話とは」
「牢に、飯を運びまする」
若い侍は、続けた。
「そのとき、黒田どのが、話しかけてこられます」
「何を」
「いろいろにございます」
若い侍は、少し目を伏せた。
「それがしの村のこと。親のこと。歳のこと」
俺は、書き取った。
「そして、こう申されます」
「なんと」
「『おぬしは、どう思う』と」
◇
俺は、その言葉で、この男を理解した気がした。
(――牢の中で、聞いている)
二月、あるいは四月。
囚われた男が、飯を運んでくる番人に、毎日「おぬしはどう思う」と聞き続けた。
それは、この上なく実利的な行為だ。
情報を得るためだ。城の内情を、番人から引き出すためだ。
だが。
(――それだけか)
俺は、そうは思わなかった。
毎日、同じ人間に問い続ける。それは、情報収集としては効率が悪い。
(――孤独だったのかもしれない)
「加藤どの」
「は」
「黒田どのは、生きておられるか」
「生きておられます」
若い侍は、答えた。
「ただ――」
「ただ」
「足が、悪うなっておられます」
俺は、目を閉じた。
「牢が、狭うございます。膝が伸ばせませぬ」
若い侍は、続けた。
「もう、立てませぬ」
◇
その夜、丹羽と俺は、長く相談した。
「日向守どの。どうお考えか」
「救うべきかと」
「理由は」
俺は、答えた。
「上様のご命にございます」
丹羽が、少し笑った。
「『生きておるか確かめよ』と仰せられただけでござろう」
「確かめました」
「生きておられます。ならば、救わねば、確かめた意味がございませぬ」
丹羽は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守どの。それは、屁理屈にござる」
「はい」
「良い屁理屈にござる」
救出は、四日後の夜に行われた。
加藤又左衛門が、内から手引きした。
俺は、堀の外で待っていた。
武装はしていない。
これは、戦ではない。
◇
運ばれてきた男を見て、俺は言葉を失った。
――痩せている。
骨と皮だ。
髪は伸び、髭は伸び、着物は襤褸だった。
そして――足が、曲がったままだった。
伸びないのだ。
「黒田どの」
俺が呼びかけると、その男は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、目が合った。
俺は――
(――目が、生きている)
その落ち窪んだ顔の中で、目だけが、異様に明るかった。
男は、掠れた声で、こう言った。
「どなたか」
「明智日向守にございます」
男は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「丹波の」
「は」
「書付の」
俺は、驚いた。
「ご存じでございますか」
男は、少し笑った。
笑ったつもりだったのだろう。顔は、ほとんど動かなかった。
「半兵衛どのが、申しておられた」
◇
視界の隅で、板が浮かんだ。
黒田官兵衛 三十六歳
統率75 │ 戦術95 │ 交渉外交92
学習適応96 │ 制度理解90
◆特記事項
分岐思考 99
倹約 97
愛想 12
俺は、その数字を見た。
(――この状態で)
四月、牢にいた男の数字とは思えない。
戦術九十五。分岐思考九十九。
――頭は、まったく衰えていない。
官兵衛は、その夜、粥を三口だけ食べた。
それ以上は、体が受けつけなかった。
そして、こう言った。
「日向守様」
「は」
「お尋ねしたきことが、三つござる」
俺は、驚いた。
この状態で、質問を三つ用意している。
「なんなりと」
「ひとつ。今は、いつにござるか」
「天正九年、七月にございます」
官兵衛の目が、動いた。
「四月、経ったか」
「はい」
「ふたつ」
官兵衛は、続けた。
「それがしの子は、生きておるか」
俺は、答えられなかった。
知らなかったからだ。
「申し訳ございませぬ。存じませぬ」
官兵衛は、頷いた。
そして、少し目を伏せた。
「さようか」
◇
俺は、慌てて言った。
「すぐに、調べさせまする」
「かたじけない」
官兵衛は、頭を下げた。
そして、こう言った。
「みっつ目にござる」
「はい」
官兵衛は、顔を上げた。
その目が、こちらを見ていた。
「上様は、それがしが裏切ったとお思いか」
俺は、答えられなかった。
(――そこか)
四月、牢にいた。
使者として行って、戻らなかった。
外から見れば、寝返ったようにも見える。
そして、この男は、それを分かっている。
「黒田どの」
「は」
俺は、正直に言った。
「上様は、『生きておるか確かめよ』と仰せられました」
官兵衛の目が、わずかに動いた。
「それだけにございます」
俺は、続けた。
「裏切ったと思うておられるなら、確かめよとは仰せになりませぬ」
◇
長い沈黙があった。
やがて、官兵衛が言った。
「日向守様」
「は」
「それは、慰めにござるか」
俺は、少し笑った。
「半兵衛様にも、同じことを言われました」
官兵衛の眉が、動いた。
「半兵衛どのに」
「はい。五月に、姫路でお会いいたしました」
官兵衛は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「あの方は、まだ生きておられるか」
俺は、頷いた。
「生きておられます」
官兵衛は、目を閉じた。
そして、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
俺は、懐から書付を出した。
十一枚。
――『陣中、見様の覚』。
「黒田どの。これを」
官兵衛は、受け取った。
そして、開いた。
最初の一行を読んで、この男の手が、止まった。
「これは」
「半兵衛様が、口述されたものにございます」
俺は、続けた。
「それがしが、書き取りました」
官兵衛は、めくった。
速い。
この状態で、恐ろしく速い。
そして、七枚目で、手が止まった。
◇
官兵衛は、しばらく動かなかった。
やがて、掠れた声で言った。
「日向守様」
「は」
「ここに書いてあることは、それがしが半兵衛どのに教わったことにござる」
俺は、顔を上げた。
「二年前に。播磨で」
官兵衛は、紙を見ていた。
「口で聞き申した。書いてはおり申さぬ」
この男は、続けた。
「ゆえに、それがしの頭の中にしかござらなんだ」
俺は、その言葉を聞いていた。
「牢の中で、それがしは、これを思い出しており申した」
官兵衛は、言った。
「忘れぬように。毎日、毎日」
俺は、動けなかった。
(――四月)
牢の中で、膝も伸ばせない場所で。
この男は、教わった内容を、毎日反芻していた。
忘れないために。
――誰にも渡せないまま、消えることを恐れて。
「黒田どの」
「は」
「もう、忘れてよろしゅうございます」
俺は、言った。
「紙に、書いてございます」
◇
官兵衛は、しばらく紙を見ていた。
そして――
肩が、震えた。
声は、出さなかった。
ただ、痩せた肩が、しばらく震えていた。
俺は、目を逸らした。
その夜、俺は陣所の外に出た。
夏の夜だった。
虫が鳴いていた。
利三が、後ろに立っていた。
「殿」
「うむ」
「よろしゅうござったな」
俺は、頷いた。
そして、しばらく黙っていた。
やがて、言った。
「利三。分かったことがある」
「なんでござる」
俺は、夜空を見た。
「半兵衛様が、あの紙を作れと言ったのは、俺のためではない」
利三が、顔を上げた。
「官兵衛様のためだ」
俺は、続けた。
「あの方は、官兵衛様が生きて戻ると信じておられた」
俺は、拳を握った。
「そして、戻ったときに渡すものを、用意しておられた」
◇
俺は、その夜、宿で書付を広げた。
そして、書いた。
――人が消えても残るものを作るのが、書くということである。
その下に、書き足した。
――だが、それは「誰かに渡す」と決めたときにしか、作れない。
俺は、筆を止めた。
(――信忠様だ)
俺は、そう思った。
俺が坂本で作ったもの。役目書。荷の覚。功の書。
あれを、誰に渡すか。
(――決めていなかった)
いや。
――織田家に、と漠然と思っていた。
だが、「織田家」は人ではない。
渡す相手は、人でなければならない。
俺は、筆を取った。
そして、書いた。
――渡す相手を、決める。
◇
翌朝、俺は官兵衛の様子を見に行った。
この男は、起きていた。
そして、書付を読んでいた。
「黒田どの。お休みくださいませ」
「休んでおり申す」
「読んでおられます」
「これは、休みにござる」
俺は、呆れた。
そして、少し笑った。
「黒田どの」
「は」
「お願いがございます」
官兵衛は、顔を上げた。
「なんなりと」
俺は、言った。
「お体が戻られたら、坂本へお越しくださいませ」
「なにゆえ」
「お見せしたいものが、ございます」




