第58話 有岡城の外側
天正九年、七月。
俺は、摂津にいた。
有岡城の囲みは、四月に及んでいた。
陣所で、丹羽長秀に会った。
「日向守どの。よう来られた」
この人は、疲れていた。
温和な顔が、少し痩せている。
(――米五郎左)
ゲームでの、この人の印象は、はっきりしている。地味だ。
統率も戦術も政治も、全部が七十台。突出した数字が一つもない。だから、序盤に城の内政を任せて、中盤以降は使わなくなる。俺は何度も天下統一をしたが、丹羽長秀を主力に据えた覚えが一度もない。
異名の由来は、上様が言ったとされる言葉だ。柴田を「かかれ柴田」、丹羽を「米五郎左」と呼んだ。米は、毎日食う。特別ではない。だが、なければ死ぬ。
(――褒め言葉だが)
大河でも、この人はたいてい、信長の後ろに立っている。台詞が少ない。安土城の普請奉行を務めた話が出ることもあるが、それも一言で流される。
(――四百年、「地味だが有能」の六文字で済まされてきた人だ)
その人が、目の前で痩せている。四月、落ちない城を囲み続けて。
「米五郎左様。ご苦労にございます」
「やめてくだされ。その呼び名は」
丹羽は、少し笑った。
そして、絵図を広げた。
「見ての通りにござる。落ちぬ」
◇
俺は、丹羽の説明を聞いた。
有岡城は、堅い。
総構えの城で、堀が深い。攻め口が限られている。
そして、城内には食糧がある。
「力攻めは」
「二度、試み申した」
丹羽は、絵図を指した。
「損が、大きゅうござった」
「どれほど」
丹羽は、答えた。
俺は、その数字を聞いて、息を呑んだ。
「そんなに」
「さよう」
丹羽は、絵図を畳んだ。
「ゆえに、囲んでおり申す」
その夜、俺は丹羽と二人で話した。
「日向守どの。上様は、何と仰せであった」
「『見てこい』と」
「それだけか」
「それだけにございます」
丹羽は、少し笑った。
「上様らしい」
そして、こう言った。
「日向守どの。正直に申し上げてよろしいか」
「なんなりと」
丹羽は、湯呑みを置いた。
「それがしは、この囲みが嫌にござる」
俺は、顔を上げた。
「なにゆえ」
「村重どのを、知っておるゆえ」
丹羽は、続けた。
「あの方は、豪儀なお方にござった。人を集め、よう振る舞い、よう笑うておられた」
俺は、黙って聞いていた。
「それが、なにゆえこうなったか、分かり申さぬ」
◇
俺は、しばらく考えた。
そして、聞いた。
「丹羽様。荒木様に、悩みごとを話す相手はおられましたか」
丹羽の手が、止まった。
しばらく、答えなかった。
やがて、こう言った。
「おらぬかと存ずる」
俺は、頷いた。
「あの方は、いつも大勢に囲まれておられた」
丹羽は、続けた。
「されど――大勢に囲まれておる者ほど、一人にござる」
俺は、その夜、陣所で書付を広げた。
そして、書いた。
――荒木村重。豪傑と評される。人を集める。よく笑う。
その下に、書いた。
――相談する相手、なし。
俺は、その一行を、長いこと見ていた。
(――演じていたのか)
豪傑として振る舞う。人が集まる。集まった人は、豪傑としての村重を期待する。
期待に応えるために、また豪傑として振る舞う。
――弱音を吐けなくなる。
(――そして、疑いをかけられたとき)
誰にも相談できなかった。
「上様に呼ばれたが、行くべきか」と、誰にも聞けなかった。
だから、一人で決めた。
――籠る、と。
◇
俺は、筆を置いた。
(――俺は、どうだ)
俺は、そう考えた。
俺には、利三がいる。煕子がいる。玉がいる。
――話す相手が、いる。
(――あの人には、いなかった)
俺は、その差を考えた。
これは、能力の差ではない。
性格の差ですらないかもしれない。
――たまたま、そういう相手がいたかどうかだ。
俺は、書付に書いた。
――弱音を吐ける相手がいるかどうかは、才ではない。運である。
その下に、書き足した。
――運に任せてはならぬ。
翌日、俺は城の外を歩いた。
囲みの外側だ。
そして、あることに気づいた。
――町の者が、いる。
城が総構えなら、町ごと囲まれているはずだ。
だが、囲みの外に、町の者がいる。
「丹羽様。あれは」
「城から出た者にござる」
丹羽は、説明した。
「囲む前に、逃げた者。囲んだ後に、抜けてきた者」
「抜けられますか」
「抜けられ申す」
丹羽は、少し苦い顔をした。
「総構えは、広うござる。全部を塞ぐには、兵が足り申さぬ」
◇
俺は、その言葉に、はっとした。
「丹羽様。抜けてきた者から、話を聞いておられますか」
丹羽は、首を振った。
「聞いておらぬ」
「なにゆえ」
「町人にござる」
丹羽は、当然のように言った。
「戦のことは、知り申さぬ」
俺は、その日、丹羽の許しを得て、町の者に話を聞いた。
二十人ほど。
最初、誰も口を開かなかった。
当然だ。囲んでいる側の武士が、話を聞きに来ている。
俺は、方法を変えた。
――米を配った。
そして、聞いた。
「城の中は、どうであった」
話は、少しずつ出てきた。
そして、驚くべきことが分かった。
――城の中は、割れている。
「割れている、とは」
「侍衆が、二つに分かれておられます」
答えたのは、四十がらみの女だった。
「一方は、最後まで戦うと」
「もう一方は」
「降りたいと」
俺は、書き取った。
「どちらが多い」
「分かりませぬ。ただ」
女は、少し口ごもった。
「近ごろ、斬られる方が増えております」
◇
俺は、その言葉で、腹が冷えた。
(――波多野と同じだ)
追い詰められた組織では、異論が殺される。
俺は、三年前、それを見た。
そして今、また同じことが起きている。
「もうひとつ、聞きたい」
俺は、言った。
「城の中に、黒田という侍がおるか」
女は、しばらく考えた。
そして、こう言った。
「牢に、おられます」
俺は、身を乗り出した。
「生きておるか」
「存じませぬ」
女は、首を振った。
「ただ、飯を運ぶ者がおると聞きました」
俺は、その夜、丹羽に報告した。
丹羽は、驚いた。
「町の者が、そこまで知っておるので」
「知っております」
俺は、書付を広げた。
「城の中が割れておること。降りたいと申す者が斬られておること。牢に人がおること」
丹羽は、書付を読んだ。
そして、唸った。
「日向守どの。これは、大きい」
「はい」
「なにゆえ、誰も聞かなんだ」
俺は、答えた。
「町人だからにございます」
◇
丹羽長秀は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守どの。それがしは、恥ずかしゅうござる」
「丹羽様」
「四月、ここにおって、町の者に一度も聞かなんだ」
この人は、頭を下げた。
「教えていただいた」
俺は、慌てた。
「おやめくださいませ」
「いや」
丹羽は、顔を上げた。
「これは、覚えておく」
翌日から、丹羽は聞き取りを始めた。
しかも、徹底していた。
抜けてきた者を全員、名を記し、話を聞き、書き留めた。
三日で、絵図が塗り変わった。
――どこに兵がいるか。
――どこの堀が浅いか。
――誰が降りたがっているか。
「日向守どの」
三日目の夜、丹羽が言った。
「これは、日向守どのの手柄にござる」
俺は、首を振った。
「違いまする」
俺は、言った。
「丹羽様が、町人の話を聞くと決められたことにございます」
「それがしは、聞けと申しました。されど、聞かぬこともできました」
◇
その夜、遅く。
陣所に、報せが来た。
「申し上げます! 城内より、使者が!」
俺と丹羽は、立ち上がった。
「誰だ」
「侍が一人。降伏の相談をしたいと」
丹羽が、俺を見た。
俺は、頷いた。
「丹羽様。お会いになるべきかと」
「日向守どの。同席いただけるか」
俺は、少し迷った。
俺は、この戦の担当ではない。
だが。
「承知いたしました」
使者は、若い侍だった。
二十歳そこそこ。震えていた。
そして、開口一番、こう言った。
「お救いいただきたき方が、ござる」
丹羽が、眉を寄せた。
「誰だ」
若い侍は、額を床につけた。
そして、言った。
「黒田官兵衛どの」




