第57話 黒田官兵衛の噂
天正九年、六月。
坂本に戻った俺は、まず調べさせた。
――有岡城のこと。
分かったことは、少なかった。
城は、囲まれている。
攻めているのは、池田恒興と、丹羽長秀。摂津の他の国衆も、加わっている。
だが、落ちない。
有岡城は、伊丹の平城だ。だが、堀が深く、町ごと囲った構えになっている。
――総構え。
「利三。町ごと、城なのか」
「さようで」
利三は、絵図を広げた。
「侍の屋敷も、町人の家も、寺も、全部が堀の内にござる」
俺は、その絵図を睨んだ。
(――厄介だ)
町ごと囲えば、城の中に食う口が増える。だが、同時に、作る手も増える。
鍛冶屋がいる。大工がいる。畑まである。
――自給できる。
◇
「殿。もうひとつ、妙な話がござる」
「なんだ」
「村重様は、なにゆえ籠られたか、家中の者も分かっておらぬと」
俺は、顔を上げた。
「どういうことだ」
「摂津の国衆に聞いた話にござる」
利三は、続けた。
「村重様は、去年まで、上様に忠実であられた。石山攻めでも功を挙げておられる」
「うむ」
「それが、この春、急に城に籠られた」
俺は、絵図を見た。
「理由は」
「諸説あり申す」
利三は、指を折った。
「ひとつ。石山と内通しておるとの噂が立った」
「ふたつ。家中の者が、勝手に兵糧を石山へ売っておった」
「みっつ。上様に呼ばれたが、行けば殺されると思うた」
俺は、三つ目で手を止めた。
「利三。三つ目だ」
「は」
「呼ばれて、行かなかったのか」
「さようで」
俺は、書付を置いた。
◇
(――これは)
俺は、しばらく考えていた。
噂が立つ。
上様に呼ばれる。
行けば、弁明の機会がある。
だが――行けば殺されるかもしれない。
行かなければ、疑いは確定する。
(――詰んでいる)
これは、浅井長政の構図と同じだ。
どちらを選んでも、地獄。
いや。
俺は、筆を取った。
(――少し違う)
浅井の場合、選択肢は「朝倉か、織田か」だった。
村重の場合は――
(――「信じてもらえるか、もらえないか」だ)
そして、その判断材料が、村重の手元にない。
上様が自分をどう見ているか。噂をどこまで信じているか。行けば聞いてもらえるのか。
――何も、分からない。
◇
俺は、その夜、書付を広げた。
そして、こう書いた。
――疑われた者は、疑いを晴らす手立てを持たぬ。
俺は、その一行を見た。
(――記録がないからだ)
もし織田家に、家臣の働きを記録する仕組みがあれば。
村重が何をしてきたか、いつ、どれだけの功を挙げたか、それが紙に残っていれば。
噂が立ったとき、その紙が反論になる。
だが、ない。
あるのは、噂だけだ。
俺は、筆を握りしめた。
(――四年前と、同じことを考えている)
安土の茶屋で、佐久間信盛の噂を聞いたときだ。
あのとき、俺はこう思った。
――噂に対抗できるのは、記録だけだ。
そして、四年経った。
俺は、明智の家で記録を作った。丹波でも作った。播磨と越前とも突き合わせた。
だが。
(――織田の家には、まだない)
俺は、立ち上がった。
◇
七月。
俺は、安土へ行った。
用件は、丹波の報告だった。
だが、本当の目的は別にあった。
登城する前に、俺は村井貞勝を訪ねた。
「日向守どの。また来られたか」
この人は、相変わらず無表情だった。
「村井様。お願いがございます」
「前例がござらぬことでござろうな」
俺は、少し笑った。
「おそらく」
俺が頼んだのは、こうだった。
――織田家の家臣について、功と役目の記録を作りたい。
村井貞勝は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守どの。それは、危のうござる」
「なにゆえ」
「家臣の功を記すということは、家臣を測るということにござる」
村井は、続けた。
「測るのは、上様のなさることにて」
俺は、頷いた。
「仰せの通りにございます」
「分かっておられるなら、なにゆえ」
俺は、答えた。
「測るためではございませぬ」
村井の眉が、わずかに動いた。
「守るためにございます」
◇
俺は、説明した。
「村井様。荒木様のことをご存じでございましょう」
「存じておる」
「あの方は、疑われました」
「さよう」
「疑われて、弁明できませなんだ」
俺は、続けた。
「なぜなら、ご自身が何をしてきたかを示す紙が、どこにもないゆえにございます」
村井貞勝は、動かなかった。
「もし記録があれば、あの方は籠らずに済んだかもしれませぬ」
長い沈黙があった。
やがて、村井は言った。
「日向守どの」
「は」
「逆もござるぞ」
俺は、顔を上げた。
「記録があれば、功が少ないことも、はっきり分かり申す」
村井は、静かに言った。
「功のない者は、逃げ場がなくなる」
俺は、動きを止めた。
(――そうだ)
これは、記録の両刃だ。
記録は、無実の者を守る。
だが同時に、成果の出ていない者を、逃がさない。
(――佐久間様だ)
俺は、その名を思い浮かべた。
もし織田家に記録があれば、佐久間信盛の「功のなさ」は、数字で証明されてしまう。
噂ではなく、事実として。
◇
俺は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「村井様。ひとつ、伺ってもよろしゅうございますか」
「申されよ」
「功のない者は、切られるべきでございましょうか」
村井貞勝は、初めて、俺を真っ直ぐ見た。
そして、こう言った。
「上様は、そうなさる」
俺は、頷いた。
「村井様は、いかがお考えですか」
この人は、しばらく答えなかった。
やがて、こう言った。
「前例がござらぬ」
俺は、顔を上げた。
村井は、続けた。
「功のない者を、切らずに使うた例が、織田家にはござらぬ」
この人は、静かに言った。
「ゆえに、それがしには分かり申さぬ」
◇
俺は、その夜、安土の宿で書付を睨んでいた。
(――半分だ)
記録は、無実を守る。だが、無能を守らない。
村重を守るために作った記録が、佐久間を追い詰める。
(――どうする)
俺は、しばらく考えた。
そして、あることに気づいた。
(――功のない者を、どう扱うか)
これは、記録の問題ではない。
その先の問題だ。
俺は、筆を取った。
――記録は、事実を示す。
――事実をどう扱うかは、別に決めねばならぬ。
その下に、書いた。
――功のない者を切るのが唯一の道なら、記録は人を殺す道具になる。
俺は、筆を止めた。
(――先に、そちらを作らねばならぬ)
◇
翌日、俺は登城した。
丹波の報告を終えると、信長がこう言った。
「日向守」
「は」
「摂津のことを、調べておるそうだな」
俺は、平伏した。
(――やはり)
「申し訳ございませぬ」
「せめてはおらぬ」
信長は、あっさり言った。
「何が分かった」
俺は、顔を上げた。
そして、答えた。
「荒木様は、弁明の手立てをお持ちでございませんでした」
信長の目が、動いた。
「手立て、とは」
「ご自身が何をしてこられたかを、示す紙にございます」
俺は、続けた。
「噂は、紙より速うございます。噂に追いつくには、紙が要りまする」
◇
信長は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守。おぬしは、村重が無実だと申すか」
「存じませぬ」
「知らぬのか」
「知りませぬ」
俺は、はっきり言った。
「それがしが申し上げておるのは、無実かどうかではございませぬ」
俺は、続けた。
「無実であっても、示せなんだ、ということにございます」
長い沈黙があった。
やがて、信長は言った。
「日向守」
「は」
「有岡へ行け」
俺は、顔を上げた。
「は」
「見てこい」
信長は、それだけ言った。
俺は、平伏した。
そして、退がりかけて――呼び止められた。
「日向守」
「は」
信長は、こう言った。
「中に、黒田という男がおる」
俺は、動きを止めた。
「筑前の者だ。使者に行って、そのまま戻らぬ」
信長の声には、感情がなかった。
「生きておるか、確かめよ」




