第56話 半兵衛の策を紙にする
摂津へは、行けなかった。
翌朝、俺が発とうとしたところへ、半兵衛が来た。
「日向守様。おやめなされ」
「なにゆえ」
「今、摂津へ行かれて、何をなさる」
俺は、答えようとして、詰まった。
(――何をする)
村重に会う。話をする。説明する。
――三年前にやるべきだったことを、今やる。
「遅うござる」
半兵衛は、静かに言った。
「城に籠って二月にござる。今さら日向守様が行かれても、村重どのは会い申さぬ」
「されど」
「それに」
半兵衛は、続けた。
「日向守様が行かれれば、上様はどうお思いになる」
俺は、動きを止めた。
◇
(――そうだ)
俺は、丹波を任されている。摂津は、俺の管轄ではない。
そこへ勝手に行けば――
(――何をしに行った、と問われる)
しかも、俺は三年前、丹波の波多野に文を出している。
あれは、結果として敵の家中を割った。
同じことを摂津でやれば、こう見られる。
――明智日向守は、他家の家中に手を入れる男だ。
「半兵衛様」
「なんでござる」
「それがしは、どうすればよろしいのでしょうか」
半兵衛は、少し笑った。
「正直なお方にござるな」
そして、こう言った。
「待たれよ」
俺は、姫路にもう十日、留まった。
その間、半兵衛と書付を作り続けた。
四十枚が、七十枚になった。
俺は、書きながら、心のどこかで摂津のことを考えていた。
半兵衛は、それに気づいていた。
「日向守様」
「は」
「手が、止まっており申す」
「申し訳ございませぬ」
「よろしゅうござる」
半兵衛は、湯呑みを置いた。
「ひとつ、申し上げてよろしいか」
「なんなりと」
半兵衛は、こう言った。
「日向守様は、防げなんだことを悔いておられる」
「はい」
「それは、よろしい」
半兵衛は、続けた。
「されど、防げると思うておられたのが、間違いにござる」
◇
俺は、顔を上げた。
「と、申されますと」
「日向守様は、丹波で仕組みをお作りになった」
「はい」
「そして、それが他家にも回った」
「はい」
「それで、村重どのが離れずに済むと思われた」
俺は、答えられなかった。
その通りだ。
「日向守様。仕組みは、人を変え申さぬ」
半兵衛は、はっきり言った。
「仕組みは、人が動きやすくするだけにござる」
俺は、その言葉を、腹の底で受けた。
「離れるか離れぬかを決めるのは、村重どのご自身にござる」
半兵衛は、続けた。
「日向守様の書付が届いておったとしても、あの方が離れると決めたなら、離れ申す」
◇
俺は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「半兵衛様。それは、慰めにございますか」
半兵衛は、笑った。
「いや」
この男は、あっさり言った。
「叱っており申す」
俺は、顔を上げた。
「日向守様は、己を高う見積もりすぎにござる」
半兵衛は、続けた。
「己の作った仕組みで、人の心まで変えられると思うておられる」
この男の目が、こちらを見ていた。
「それは、驕りにござる」
俺は、平伏した。
額を、畳につけた。
「仰せの通りにございます」
「よしなされ」
半兵衛は、慌てた。
「そこまでなさるな」
俺は、顔を上げた。
半兵衛は、少し困った顔をしていた。
「日向守様。それがしは、人を叱るのが下手にござる」
この男は、頭を掻いた。
「筑前殿を叱ったときも、三日、口をきいてくださらなんだ」
俺は、思わず笑った。
◇
その日、俺たちは書付を仕上げた。
七十三枚。
半兵衛は、それを見て、こう言った。
「多いな」
「はい」
「これは、読み申さぬ」
俺は、顔を上げた。
「と、申されますと」
「七十三枚を読む者は、おり申さぬ」
半兵衛は、書付をめくった。
「小一郎様なら読み申すが、他は読まぬ」
俺は、しばらく考えた。
(――その通りだ)
これは、前世でも同じだった。
分厚いマニュアルは、誰も読まない。
作った人間だけが満足する。
「半兵衛様。いかがすれば」
半兵衛は、少し考えた。
そして、こう言った。
「減らし申す」
◇
その日から、二日かけて、俺たちは削った。
半兵衛は、驚くほど容赦がなかった。
「これは、要らぬ」
「されど、これは大事な」
「大事にござる。されど、この場でしか使えぬ」
半兵衛は、次々に紙を抜いていった。
「日向守様。残すべきは、二つにござる」
「二つ」
「ひとつ。何度も使うもの」
半兵衛は、指を立てた。
「ふたつ。間違えると、人が死ぬもの」
俺は、その基準を書き取った。
二日後、七十三枚は、十一枚になった。
俺は、それを見て唸った。
削られたはずなのに、内容が濃くなっている。
「半兵衛様。これは」
「読み申すか」
「読みまする」
「ならば、よろしゅうござる」
半兵衛は、筆を取った。
そして、最初の一枚に、表題を書いた。
――『陣中、見様の覚』。
俺は、その字を見た。
崩れていた。
この男の手は、震えていた。
◇
「半兵衛様」
「なんでござる」
「お名前を、書かれませぬか」
半兵衛は、筆を止めた。
しばらく、紙を見ていた。
そして、こう言った。
「書かぬ」
「なにゆえ」
半兵衛は、少し笑った。
「名を書けば、『竹中半兵衛の策』になり申す」
この男は、続けた。
「そうなれば、皆、竹中半兵衛の真似をしようといたす」
俺は、その言葉の意味を、しばらく考えた。
「それがしの見方は、それがしの目にござる」
半兵衛は、言った。
「他の者には、他の目がござる。真似をされては、困り申す」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「半兵衛様。それでは、この書付は、誰のものになりますか」
半兵衛は、あっさり答えた。
「読んだ者のものにござる」
◇
その夜、俺は宿で、その十一枚を書き写していた。
三部。
一部は、秀長へ。
一部は、有岡城の官兵衛へ――届く日のために。
そして、もう一部は。
俺は、筆を止めた。
(――信忠様だ)
俺は、そう決めた。
この十一枚は、戦の書付だ。荷の書付ではない。
信忠は、まだ大きな戦を指揮したことがない。
(――いずれ、する)
俺は、書き写しながら、考えていた。
(――そのとき、この紙が要る)
翌朝、姫路を発つ前に、俺は半兵衛に挨拶をした。
この男は、庭に出ていた。
朝の光の中で、痩せた背中が、やけに小さく見えた。
「半兵衛様」
「おお。お発ちか」
「はい」
俺は、平伏した。
「お世話になりました」
「いや、こちらこそ」
半兵衛は、笑った。
そして、こう言った。
「日向守様。ひとつ、頼みがござる」
「なんなりと」
半兵衛は、少し間を置いた。
「官兵衛が戻ったら、会うてやってくだされ」
俺は、顔を上げた。
「あれは、頭の良すぎる男にござる」
半兵衛は、続けた。
「良すぎて、人に嫌われ申す」
俺は、この男を見た。
「有岡から戻れば、あれは変わり申そう。二月も囲われておれば、人は変わる」
半兵衛は、庭を見た。
「そのとき、あれの話を聞いてやれる者が、要り申す」
◇
俺は、平伏した。
「承りました」
半兵衛は、頷いた。
そして、最後にこう言った。
「日向守様」
「は」
「それがしは、書き残さぬと申しました」
「はい」
半兵衛は、少し笑った。
「撤回いたす」
俺は、顔を上げた。
半兵衛は、朝の光の中で、こう言った。
「策は、水物にござる」
この男は、言った。
「されど――目は、渡せ申す」




