第54話 竹中半兵衛登場
天正九年、五月。
俺は、また播磨へ行った。
今度は、秀長に呼ばれた。
――『荷の覚』を見たいという。
姫路に着いて、俺は驚いた。
秀長が、痩せていた。
「小一郎様。お加減が」
「大事ございませぬ」
この男は、そう言った。
俺は、信じなかった。
「いつからでございます」
「は」
「疲れておられるのは、いつからかと伺っております」
秀長は、少し困った顔をした。
そして、こう言った。
「思い出せませぬ」
俺は、額を押さえた。
その日、俺は秀長に無理を言って、半日休ませた。
代わりに、俺が蔵を回った。
――そして、驚いた。
蔵役の者が、俺に細かいことを聞いてくる。
「日向守様。この俵は、どちらの蔵へ」
「それは、小一郎様に伺うことだ」
「小一郎様が、お休みにございますゆえ」
俺は、しばらく黙った。
「では、いつも通りにせよ」
「いつも通りが、分かり申さぬ」
◇
半日で、俺は理解した。
――羽柴家の兵站は、秀長の頭の中にしかない。
書き始めてはいる。だが、まだ一部だ。
そして、日々の細かい判断は、全部この男が下している。
(――信長様と、同じだ)
規模は違う。だが構造は同じだ。
一人の優秀な人間が、全部を頭に入れて回している。
(――そして、この男は痩せている)
その夜、俺は秀長に言った。
「小一郎様。失礼を申し上げます」
「なんなりと」
「このままでは、倒れられます」
秀長は、少し笑った。
「倒れませぬ」
「倒れます」
俺は、はっきり言った。
「それがしは、五年前に倒れました」
秀長の顔から、笑いが消えた。
「熱が三日下がらず、それでも安土へ登り、上様の御前で倒れました」
俺は、続けた。
「そのとき、初めて思いました。『この体は、俺のものだが、俺だけのものではない』と」
秀長は、黙っていた。
「小一郎様が倒れれば、羽柴の家は止まりまする」
◇
長い沈黙があった。
やがて、秀長が言った。
「日向守様」
「は」
「お恥ずかしい話をしてもよろしゅうございますか」
「なんなりと」
秀長は、しばらく言葉を探していた。
そして、言った。
「それがしは、渡し方が分からぬのでございます」
俺は、顔を上げた。
「役目を、他の者に渡そうとしたことがございます。三年ほど前に」
「うまくいきませなんだか」
「はい」
秀長は、続けた。
「渡した者が、間違えました。荷が二日遅れました」
「それで」
「それがしが、取り返しました」
秀長は、目を伏せた。
「以来、渡しておりませぬ」
◇
俺は、しばらく黙っていた。
(――これだ)
これは、権限委譲の最大の壁だ。
渡す。相手が失敗する。取り返す。二度と渡さない。
前世で、何度も見た。
そして――俺自身も、やった。
「小一郎様」
「は」
「その者は、二度目をやりましたか」
秀長が、顔を上げた。
「と、申されますと」
「一度失敗した者に、もう一度やらせましたか」
秀長は、答えなかった。
答えは、明らかだった。
「やらせておりませぬ」
俺は、言った。
「ならば、その者は、一度も学んでおりませぬ」
◇
その翌日だった。
姫路の城に、一人の男が来た。
「おや。日向守様がおられるとは」
声が、軽かった。
振り返ると、痩せた男が立っていた。
三十半ばくらいか。顔色が悪い。だが、目だけが妙に明るい。
「竹中半兵衛にござる」
俺は、息を呑んだ。
この名は、知っている。
――秀吉の軍師。
(――両兵衛の、片方だ)
竹中半兵衛と黒田官兵衛。合わせて両兵衛と呼ばれる。秀吉の頭脳を担った二人。ゲームでは、知略九十台の代表格だった。半兵衛は特に、戦術特化。城攻めの成功率が跳ね上がる。
有名なのは、稲葉山城の話だ。十六人で城を乗っ取った。主君の斎藤龍興が家臣を軽んじるのを諌めるために、たった十六人で本丸を占拠して、しばらくしてから返した。取るためではなく、諌めるために取った。
(――そんな男が、いるか)
大河ドラマでも、たいてい線の細い、静かな人物として描かれる。そして、三木城の陣中で病死する。秀吉が号泣する場面が、たいてい入る。
俺の記憶では、天正七年。
(――二年前だ)
目の前に、立っている。
視界の隅で、板が浮かんだ。
竹中半兵衛 三十六歳
統率70 │ 戦術97 │ 制度理解70
◆特記事項
戦術眼 97
体力 18
余命 表示不可
俺は、その最後の行を見て――
板を、閉じた。
(――二度目だ)
この項目を、俺は一度だけ見たことがある。
俺が劉禅として転生し、二歳であったときだ。目の前に座っていた母の板に、同じ四文字が出た。
――余命、表示不可。
俺は、そのとき、まだ喋れなかった。何も言えぬまま、母は死んだ。
(――見たくない)
六十年以上、俺はこの板と付き合ってきた。数字を見て、配置を決め、無理をさせない者を選んできた。
だが、この項目だけは、二度目である。
(――「不可」とは、何だ)
二つの読み方がある。測れないほど残っている、という意味か。測る意味がないほど短い、という意味か。
体力十八。
(――後者だ)
俺は、板を閉じたまま、しばらく動けなかった。
◇
「日向守様。顔色が悪うござるな」
半兵衛が、笑いながら言った。
「それがしより悪い顔をなさっておる」
俺は、平静を装った。
「恐れ入ります」
「いや、責めておるのではござらぬ」
半兵衛は、座った。
そして、こう言った。
「小一郎様のことでござろう」
俺は、顔を上げた。
「お分かりになりますか」
「分かり申す」
半兵衛は、あっさり言った。
「あの方は、倒れるまで言わぬお方にござる」
俺たちは、その日、長く話した。
半兵衛は、驚くほど話が速かった。
こちらが三言えば、五を理解する。
「日向守様。丹波の御仕置きの覚、読み申した」
「は」
「あれは、面白うござった」
半兵衛は、続けた。
「特に、しくじりを書いておられるところ」
俺は、驚いた。
あの報告書は、安土に出したものだ。播磨には出していない。
「どちらで」
「筑前殿が、上様より写しを頂いており申す」
――回っている。
俺は、内心で唸った。
「日向守様。あれを読んで、それがしは思い申した」
「なんでございましょう」
半兵衛は、少し笑った。
「この方は、死ぬのが怖いのだな、と」
俺は、動きを止めた。
◇
「なにゆえ、そう思われました」
半兵衛は、湯呑みを置いた。
「書き残そうとする者は、二種類ござる」
この男は、指を二本立てた。
「ひとつは、己を誉めさせたい者。家譜を作る者にござる」
「もうひとつは」
「己が消えた後を、案じておる者」
俺は、答えられなかった。
「日向守様は、後者にござる」
半兵衛は、続けた。
「しかも、ずいぶん急いでおられる」
俺は、この男を見た。
(――見抜かれている)
だが、この男は、それ以上追及しなかった。
代わりに、こう言った。
「日向守様。それがしは、書き残しませぬ」
「なにゆえ」
「策は、水物にござる」
半兵衛は、言った。
「腐る前にお使いなされ、というのが、それがしの信条にて」
俺は、少し身を乗り出した。
「と、申されますと」
「策というものは、その場の敵と、その場の味方と、その場の天気で決まり申す」
半兵衛は、続けた。
「書き残しても、次に同じ場は来ませぬ」
「ゆえに、書かぬと」
「さよう」
俺は、しばらく考えた。
そして、言った。
「半兵衛様。それは、半分は正しゅうございます」
半兵衛の眉が、上がった。
「半分、とな」
「はい」
俺は、書付を出した。
『荷の覚』だ。
「これをご覧くださいませ」
◇
半兵衛は、それを読んだ。
速い。
そして、指が止まった。
「これは」
「近江、播磨、越前の荷の書付を、突き合わせたものにございます」
俺は、言った。
「共通するものが、二十七。異なるものが、五十四」
半兵衛は、書付をめくった。
「日向守様。この二十七は」
「どこでも起きることにございます」
「策は水物にございましょう。されど、水物の中にも、変わらぬものがございます」
半兵衛は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「それを、抜き出したと」
「はい」
半兵衛は、書付を置いた。
そして、初めて、真面目な顔をした。
「日向守様」
「は」
「それは、策ではござらぬな」
「と、申されますと」
半兵衛は、言った。
「型にござる」




