第52話 羽柴秀長という副官
翌朝、秀吉は消えていた。
宿の者に聞くと、夜明け前に馬で出たという。西へ。
「どこへ行かれた」
「但馬か、因幡かと」
俺は、額を押さえた。
昨夜、あれだけ飲んで、夜明け前に馬で出る。
(――四十四だぞ)
この男の体力は、異常だった。
代わりに、宿へ来た者がいた。
「明智日向守様にございますか」
地味な男だった。
中背。目立たない顔。着物も、質素だ。
俺は、一瞬、家臣か何かだと思った。
「は。明智日向守にございます」
「羽柴小一郎にございます」
俺は、慌てて座り直した。
羽柴秀長。
秀吉の弟だ。
「兄が、すみません」
その男は、開口一番、そう言った。
◇
俺は、この一言で、この男の役割を理解した。
「何を、詫びておられます」
「夜明け前に発ちました」
秀長は、平然と言った。
「客人を置いて出るのは、無礼にございます。ゆえに、詫びに参りました」
「いえ、それがしも」
「兄は、悪気がございませぬ」
秀長は、続けた。
「思いついたら、動きます。それだけにございます」
俺は、この男を見た。
視界の隅で、板が浮かんだ。
羽柴秀長 四十一歳
統率80 │ 兵站財務96 │ 政務実務90
交渉外交85 │ 人望88 │ 制度理解85
◆特記事項
調整 94
功名心 5
兄への謝罪回数 ∞
俺は、その最後の項目を見て、噴き出しそうになった。
だが、二行目を見て、笑いが消えた。
――功名心、五。
(――五だと)
この時代、武士の功名心が五というのは、異常だ。
だが、その上の数字を見ると、もっと異常だ。
兵站財務、九十六。
俺の八十八より、高い。
◇
「小一郎様。城下を、案内いただけますか」
「喜んで」
俺たちは、姫路の城下を歩いた。
秀長は、静かに歩いた。
喋らない。だが、聞けば全部答える。
「この蔵は、いくつございます」
「十一にございます」
「米は」
「今、二万三千俵ほど」
「即答されますな」
「毎朝、確かめておりますゆえ」
俺は、足を止めた。
「毎朝」
「はい」
「ご自身で、でございますか」
秀長は、少し首を傾げた。
「他に、誰が確かめます」
俺は、この男の一日を聞いた。
夜明け前に起きる。
蔵を回る。
荷の出入りを確かめる。
書付を検分する。
昼、家臣の訴えを聞く。
午後、普請の見分。
夕、兄からの指示を確かめ、実行できるかを判断する。
夜、書付を書く。
俺は、聞きながら、書き取っていた。
そして、あることに気づいた。
「小一郎様」
「はい」
「『兄からの指示を確かめ、実行できるかを判断する』と仰せられました」
「はい」
「実行できぬときは、いかがなされます」
秀長は、少し考えた。
そして、こう言った。
「できるようにいたします」
「は」
「兄は、できぬことを申しませぬ」
秀長は、静かに言った。
「ただ、間に合わぬことを申します」
俺は、この表現に唸った。
「たとえば、『三日で兵を集めよ』と申します。三日では集まりませぬ。五日かかります」
「では、五日と申されますか」
「いえ」
秀長は、首を振った。
「三日で、半分を集めます。残りは、五日目に送ります」
俺は、その答えに、しばらく動けなかった。
(――分割している)
「できません」でもなく、「無理をしてやります」でもない。
実行可能な形に、分解している。
◇
「小一郎様。それは、筑前殿にお伝えになりますか」
「申しませぬ」
俺は、顔を上げた。
「なにゆえ」
「申せば、兄は次から五日と申します」
秀長は、当然のように言った。
「五日と申せば、六日かかります」
俺は、この言葉の意味を、しばらく考えた。
(――ああ)
これは、バッファの話だ。
秀吉は、常に無理な期限を切る。それは、結果として組織を速く動かす。
だが、実際には無理だ。
そこで秀長が、無理を実行可能な形に分解する。
もし秀長が「三日は無理です、五日ください」と言えば、秀吉は五日で計画を立てる。すると、また同じことが起きる。
――余裕は、与えられた瞬間に消費される。
「小一郎様」
「はい」
「お疲れになりませぬか」
秀長は、少し驚いた顔をした。
そして、こう言った。
「そういうことを、お尋ねになる方は、珍しゅうございます」
◇
その日の夕方、俺たちは川辺に座っていた。
秀長は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「日向守様」
「は」
「兄は、止まれませぬ」
俺は、川を見ていた。
「昨夜、そう申しておられました」
「さようでございましょう」
秀長は、続けた。
「兄は、止まれば終わると思うております。それは、たぶん、まことにございます」
俺は、この男を見た。
「ゆえに、それがしがおります」
秀長は、静かに言った。
「兄が走る。それがしが、後ろで拾います」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、聞いた。
「小一郎様は、それでよろしいのですか」
秀長は、俺を見た。
「と、申されますと」
「小一郎様のなさっていることは、外からは見えませぬ」
俺は、言った。
「三日で兵が集まったのは、筑前殿の功にございます。五日目に残りが着いたことは、誰も覚えておりませぬ」
秀長は、しばらく黙っていた。
そして、笑った。
初めて、笑った。
「日向守様」
「は」
「それがしは、兄が好きにございます」
俺は、動きを止めた。
「兄は、それがしを弟として扱います。家臣としてではなく」
秀長は、川を見た。
「上様に拾われる前、我らは何もございませなんだ。食う物も、名も」
この男は、続けた。
「それがしは、兄の後ろについて歩いておりました。あの頃から、ずっと」
俺は、聞いていた。
「今も、同じにございます」
秀長は、こちらを見た。
「功が要るとは、思うており申さぬ」
◇
俺は、その夜、宿で書付を広げた。
(――危うい)
俺は、そう思った。
この体制は、驚くほど良く機能している。
秀吉が走り、秀長が拾う。
だが、これは制度ではない。
――兄弟の情だ。
俺は、筆を取った。
――情に支えられた仕組みは、情が消えたときに崩れる。
そして、もう一つ書いた。
――秀長が倒れたとき、羽柴家に代わりはいない。
俺は、その一行を見た。
(――俺のところは、どうだ)
俺は、考えた。
利三が倒れたら。
――三沢がいる。秀満がいる。役目書がある。
(――たぶん、回る)
だが、完全ではない。
◇
翌朝、俺は秀長に暇を告げた。
「小一郎様。世話になり申した」
「いえ」
秀長は、頭を下げた。
そして、こう言った。
「日向守様。ひとつ、伺ってもよろしゅうございますか」
「なんなりと」
「坂本では、日向守様が留守にされても、城は動くと聞きました」
俺は、頷いた。
「動きまする」
「どうやって」
俺は、少し考えた。
そして、正直に答えた。
「書いております」
「書く」
「はい。誰が何をするか。誰がどこまで決めてよいか。それを紙に書いております」
秀長は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「それは、それがしが頭に入れていることと、同じにございますか」
俺は、答えた。
「たぶん、同じにございます」
秀長の目が、動いた。
「ただ」
「それがしの書いたものは、それがしが死んでも残ります」
◇
沈黙が、長く続いた。
やがて、秀長は言った。
「日向守様」
「は」
「その書き方を、教えていただけませぬか」
俺は、この男を見た。
そして、頷いた。
「お教えいたします」
秀長は、深く頭を下げた。
その頭に向かって、俺は言った。
「小一郎様」
「は」
「ひとつだけ、条件がございます」
秀長が、顔を上げた。
俺は、言った。
「お体を、大事になさいませ」




