第51話 秀吉という事業部長
――中将様は、決められるようになった。
――だが、この家にはもう一人、恐ろしく速い男がいる。
――播磨へ行く。あの男の仕組みを、見に行く。
天正八年、十二月。
俺は、播磨にいた。
名目は、丹波と播磨の境の道の見分だった。
実際は――羽柴秀吉を、見に来た。
三木城が落ちたのは、この年の正月だ。
城主は、別所小三郎長治。一度は織田に降り、三年目に離れた男である。二年に及んだ籠城の末、城兵の命と引き換えに腹を切った。二十六だったという。
俺は、その城を遠くから見た。
(――一度降って、離れた)
波多野と、同じ形だ。
降った後で、家中に説けなくなる。説けなくなった当主は、家中に押し戻される。そして、押し戻された先には、もう戻る道がない。
(――この形は、丹波だけの話ではないのか)
落ちた城というのは、独特の空気がある。人が減り、風が抜け、匂いが変わる。
だが、俺が驚いたのは、城ではなかった。
――城下だ。
「利三。人が、おるな」
「おり申す」
利三が、怪訝な顔をした。
「二年、囲まれた町にござろう」
「そうだ」
俺は、町を歩いた。
市が立っている。商人がいる。子供が走っている。
落城から一年も経っていない町とは、思えなかった。
◇
「日向守様ァ!」
その声は、宿に着いた翌朝に聞こえた。
羽柴秀吉が、供も連れずに現れた。
「よくぞ播磨まで! いや、驚き申した!」
俺は、平伏しかけて、止められた。
「よしなされ、よしなされ。ここは播磨にござる。誰も見ており申さぬ」
――誰も見ていないなら礼を省く、という発想が、この男らしい。
「筑前殿。三木城下を見申した」
「ほう」
「人が、多うございますな」
秀吉の目が、光った。
「お気づきになられたか」
その日、俺は秀吉に連れられて、三木の城下を歩いた。
この男は、歩きながら喋り続けた。
「日向守様。籠城が終わった後、いちばん困るのは何だと思われる」
「米にございましょう」
「その通り!」
秀吉は、膝を叩いた。
「二年囲めば、町の者も食えており申さぬ。城が落ちても、町は死んだままにござる」
「で、いかがなされた」
「米を配り申した」
俺は、少し眉を寄せた。
「施しにございますか」
「いや」
秀吉は、首を振った。
「売り申した」
俺は、足を止めた。
「売った」
「さよう。安うにござるが、売り申した」
秀吉は、続けた。
「銭のない者には、貸し申した」
俺は、この男を見た。
「貸した、と」
「はい。証文を書かせ申した」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
(――これは)
俺が丹波でやったのと、同じ発想だ。
施しではなく、取引にする。相手の面目を潰さない。
だが、秀吉のやり方は、もう一段先を行っていた。
「筑前殿。その証文は、取り立てられますか」
秀吉は、にやりと笑った。
「取り立て申さぬ」
「では、なにゆえ」
「証文があれば、あの者どもは『借りた』と思い申す」
秀吉は、言った。
「借りた者は、返そうといたす。返そうとする者は、働き申す」
◇
俺は、その夜、宿で唸っていた。
(――上手い)
証文は、取り立てるためのものではない。
「借りがある」という感覚を作るためのものだ。
そして、その感覚が、労働意欲を生む。
(――しかも)
俺は、もうひとつ気づいた。
証文は、記録だ。
誰が、いくら借りたか。それが分かれば、町の誰が困っているかが分かる。
――秀吉は、米を配りながら、町の家計を把握している。
「利三」
「は」
「あの男は、恐ろしい」
「今さらでござるな」
翌日、俺は秀吉の陣所を見せてもらった。
姫路だ。
この城は、去年から普請が進んでいる。
俺が驚いたのは、城ではなかった。
――書付だ。
部屋に案内されると、そこには書付が積んであった。
量が、俺の坂本と変わらない。
「筑前殿。これは」
「ああ、それにござるか」
秀吉は、あっさり言った。
「日向守様に教わってから、始め申した」
俺は、書付を手に取る許しを得た。
そして、めくった。
――様式が、違う。
俺の坂本の様式ではない。
だが、書いてある内容は、俺のものと同じ種類だ。荷の記録。国衆の一覧。約束の書付。
――全部、作り直している。
「筑前殿。これは、坂本の写しではございませぬな」
「写しても、使えませなんだ」
秀吉は、笑った。
「播磨には播磨の事情がござる。日向守様の様式は、丹波の様式にござろう」
俺は、この言葉を聞いて、鳥肌が立った。
(――信忠様と、同じことを言っている)
いや。
(――信忠様より、一年早い)
◇
俺は、書付をめくり続けた。
そして、あるものを見つけた。
――国衆の一覧に、欄が一つ多い。
「筑前殿。この欄は」
秀吉が、覗き込んだ。
「ああ、それにござるか」
その欄には、こう書いてあった。
――寝返らせるに要する銭。
俺は、書付を持ったまま固まった。
「筑前殿。これは」
「そのままにござる」
秀吉は、平然と言った。
「敵方の国衆を寝返らせるには、いくら要るか。それを書いており申す」
「どうやって数えます」
「家中の者に、聞き申す」
秀吉は、指を折った。
「その家の借財。米の蓄え。隣との仲。当主の齢。跡取りの出来」
俺は、書付を見た。
数字が、並んでいる。
――三百貫。五百貫。千貫。
そして、いくつかの家には、こう書いてあった。
――銭では、動かず。
「この『銭では動かず』というのは」
「その家は、面目で動き申す」
秀吉は、言った。
「銭を積んでも動き申さぬ。ゆえに、別の手を使い申す」
俺は、この男を見た。
(――俺の五つの物差しと、同じことをしている)
俺は、統合の度合いを測るために物差しを作った。
この男は、切り崩すために作っている。
同じ道具が、逆向きに使われている。
◇
その夜、宴があった。
秀吉は、驚くほど飲んだ。そして、喋った。
俺は、あまり飲まなかった。
この男の前で酔うのは、危険だと思った。
「日向守様」
夜が更けた頃、秀吉が言った。
声の調子が、少し変わっていた。
「ひとつ、伺ってもよろしゅうござるか」
「なんなりと」
「中将様のことにござる」
俺は、盃を置いた。
「先の年賀にて、諸将の前で問いを三つ立てられたとか」
「は」
「あれは、日向守様が教えられたので」
俺は、答えた。
「教えておりませぬ」
「まことに」
「まことにございます」
秀吉は、しばらく俺を見ていた。
そして、笑った。
「ならば、めでたいことにござる」
だが、目は笑っていなかった。
◇
そして、この男は、こう言った。
「日向守様。それがしは、上様に拾われ申した」
俺は、顔を上げた。
「針売りをしておった頃から、上様は、それがしを見ておられた」
秀吉は、盃を置いた。
「家柄も、由緒も、何もござらぬ。それでも、使うてくださった」
俺は、黙って聞いていた。
「なにゆえだと思われる」
俺は、少し考えて、答えた。
「お役に立たれたゆえかと」
「その通りにござる」
秀吉は、頷いた。
「上様は、役に立つ者を使われる。家柄は問われぬ」
そして、この男は言った。
「では、役に立たなくなったら、どうなり申す」
俺は、答えられなかった。
秀吉は、笑った。
「日向守様。それがしは、走り続けねばなり申さぬ」
この男は、盃を取った。
「止まれば、終わりゆえ」
◇
宿に戻る道で、利三が言った。
「殿。あの方は、酔うておられましたな」
「そうだな」
「酔うて、本音を漏らされ申した」
俺は、首を振った。
「利三」
「は」
「あれは、漏らしたのではない」
俺は、夜道を見た。
「聞かせたのだ」
利三が、動きを止めた。
「なにゆえ」
俺は、答えた。
「中将様の話をした後だ」
「信忠様が育てば、織田の家は続く。続けば、いずれ戦は終わる」
俺は、拳を握った。
「戦が終われば――役に立つ者の値は、下がる」




